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「学校では教えてくれない世界史~日本、ヨーロッパと出会う~」①

シン・サンモク著

ちょうど去年の今頃、以下の本のハングル版と日本語版を読んだ時の記事を書きましたよね。

今まで知らなかった江戸時代の素晴らしさを、韓国人の元外交官である著者シン・サンモクさんに教えられ、その時受けた感動と衝撃は今でも忘れられません。その記事は、これです。

現在、ソウルの江南(カンナム)でうどん屋さんを経営しているシン・サンモクさんの2冊目の本「学校で教えてくれない世界史~日本、ヨーロッパと出会う~」が出版されたので日本語訳を待ちきれず、今回ハングル版を読みました。


もしかしてまた、あの時のように、新しい感動と衝撃を与えてくれるのではないかという、期待のもとでです・・・・

はい、まさしく、そうでした!!いや~~驚きましたね!!!

「目からウロコ」って、こういうことを言うのかなと、思いました。

特に日本が初めてヨーロッパと出会ったあと、なぜ「鎖国」に至ったのか?ということと、今まで認識していたその「鎖国」のイメージが、まるっきり変わったのです。


まず・・・・世界は、大航海時代。

スペインとポルトガルで地球を二つに分けて、やりたい放題やってた時のこと。日本に初めに到着したのは、1543年鉄砲を持ったポルトガル人が種子島に到着しました。

倭寇の中国人である王直のジャンク船が、台風で九州の南端の種子島に漂流した。その船に、鉄砲を伝えたポルトガル人たちが乗っていたのだ。ヨーロッパと日本の出会いが、倭寇の存在と繋がっているということである。後期の倭寇は、単純な海賊集団ではなかった。(略)日本人や琉球人たちが傭兵で雇用されたり、東南アジア人たちもいた多国籍的(または無国籍的)集団だった。(P189 nurico直訳)

その鉄砲は種子島で随分高く売れたそうで、ポルトガル人や中間業者の倭寇の中国人たちなどは、大喜びしたそうです。


そして次にまた、ポルトガルから鉄砲を持ってきた時には、なんと日本は同じものを造っていたんですね。

16世紀半ば以降のヨーロッパ勢力の進出と共に、東アジアでは新しい波が起きていた。技術と材料が政治的権威のためのものではなく産業論理によって取引され、その環境の変化を通して、他者のモノを輸入し自分のモノとしていかにさせるかが、国力の尺度になる時代になった。(P194 同上)

ここでは、東アジアの周辺国家と日本の違いを語ってますね。


戦国時代の血生臭い闘争の中で九州一帯の大名たちは、軍事力・経済力のために全力を尽くしていた。このような戦略的環境の下で、目の前に現れたポルトガル人は排斥する対象ではなく、何とかして自分たちの勢力と結び付け包摂の対象として認識されていた。これが他の東アジア国たちと日本との大きな違いである。大名たちがキリスト教に改宗してまでも、ヨーロッパ勢力を自分のものにしようと熾烈な競争が行われていた。(P210)

そこで鉄砲と同時に、ポルトガル人を通して、キリスト教が入ってきます。


ここでポイントは、キリスト教でも大航海時代のポルトガル・スペインは「カトリック」なのですが、このカトリックがのちに追放されることになる理由が・・・

宣教師たちが改宗を強要し、南蛮奴隷貿易(大名たちが火薬などを手に入れるために、改宗しない人などを中心に若い女性たちをイエズス会に売ったこと)や、仏像の破壊など、キリスト教勢力の悪行に対する秀吉の個人的怒りが反映。(P244)

特にこの、「キリスト教勢力の悪行」という部分なんですが・・・


スペインが広大な植民帝国を建てることができたのは、「まず宣教師たちを送り、キリスト教(カトリック)を養成して、その後軍隊を送ってキリスト教徒と合流させて、挟み撃ちにさせるから可能だった」と供述したことが秀吉を刺激し、強制的なキリスト教弾圧に繋がったと言われている。(P246)

例えばスペインは、南アメリカ大陸のインカ帝国を抹消してますよね・・・


いや~、本当に恐ろしい時代だったんですね。


戦国時代から、江戸時代にかけて・・・・

世界の荒波の中で、当時の日本が存在していたということ。

その世界史を通してこそ、真の日本史が見えてくるということ。


長くなってしまったので、明日またこの続きを書くことにします。

最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。(つづく)



拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡