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江戸生艶気樺焼③ 江戸後期文壇の代表作完結

 黄表紙きびょうしの代表作といわれる山東京伝さんとうきょうでん(1761~1816)作画「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」(1785刊)上中下3巻の下巻、最終回。
 艶二郎えんじろうは、浮気な男は親から勘当かんどうされるものだと思って、勘当を望む。

 


下巻
十七

 艶二郎えんじろうは、望み通り勘当かんどうを受けたけれども、母から必要な金はいくらでも送ってくるので困ることはないけれど、なんぞ浮気な商売をしてみたく、色男のする商売は、夏のおおぎ用の紙を売る、地紙売りじかみうりだろうと、まだ夏も来ないのに、地紙売りじかみうりと出かけ、一日歩いて足にマメをつくり、これにはこりごりする。このとき、ばかな酔狂者すいきょうものだと、浮名うきなが立った。
女「おや、マンガのような顔の人が通る。みんな、来て見て見て」
艶二郎「外に出ると日に焼けて困る。また俺のうわさをしているみたいだ。色男も大変だ」 



十八

 艶二郎えんじろう、いよいよ調子にのって、かれこれするうち、約束の勘当かんどう七十五日の期限が切れ、家からは「勘当かんどうを許す」と毎日の催促さいそくなれども、まだまだ浮気をしりないと、親類に頼み込んで、二十日の日延ひのべを願い、どうしても心中ほど浮気なものはあるまいと、本人は死ぬ気でいるものの、それでは浮名うきな承知しょうちしないので、ウソ心中にして、先に喜之介きのすけ志庵しあんを行かせておき、「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と言うのを合図に、止めさせる注文にして、まず浮名うきなを千五百両(現在の1億9千500万円くらいか)で身請みうけして、心中の道具を買い集める。そろいの小袖こそでの模様には、鉄梃かなてこいかり、当時の流行歌のセリフをまねる。二人の辞世じせいの俳句は、印刷して各店へ配る。 



十九

 浮名うきなは、たとえウソ心中でも外聞がいぶんが悪いと嫌がったが、この芝居をうまくやったら、好きな男と一緒にさせてやろうと、芝居のようなセリフにて、ようやく納得なっとくさせ、秋の歌舞伎興行では、艶二郎えんじろうが金を出資する約束で、このことを舞台で上演するつもり、大損おおぞんしそうな興業なり。
 もとより、素直に身請みうけしては色男ではないと、駆け落ちかけおちするさまで、格子こうしを壊し、ハシゴをかけ、二階から身請みうけする。
 店の者は、「もう身請みうけなされた女郎なので、好きになさるがいいが、壊したところの修理代は二百両にまけてあげましょう」と欲を申しける。店の者には祝儀しゅうぎをやるので、逃げた後で、方々に言いふらせとの言いつけなり。
艶二郎「二階から目薬というのは聞いたが、二階から身請みうけとは、これが初めてじゃ」
店の者「危のうございます。お静かにお逃げなさりませ」
店の者「浮名様、ごきげんようけ落ちなされまし」 



二十

 心中の場も、いきな、ぱっとした場所がいいと、三囲みめぐり神社の土手どてと決めたものの、夜がけてからは気味が悪いと、よいのうちのつもりで、艶二郎えんじろうを多くの関係者が羽織袴はおりはかまで大川橋まで見送り、艶二郎えんじろうは、願いがかなったと、心うれしく道行みちゆきをし、脇差わきざしを抜いて、合図の「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と言うと、暗闇くらやみから黒装束くろしょうぞく泥棒どろぼう二人現れ出て、道行みちゆきの二人を真っ裸にして、着物をはぎ取る。
泥棒「おまえらは、どうせ死ぬのだから、おいらが首をちょんぎってやろう」
艶二郎「これこれ、はやまるな。我々は死ぬつもりじゃない。ここで止めが入るはず。どこでどう間違ったかしらん。着物はみんな差し上げますので、命ばかりはお助けお助け。もうこりごりでございます」
泥棒「今後こんな思いつきは、しないかしないか」
浮名「どうせこんなことと思いんした」 



二十一

仇気屋あだきや艶二郎えんじろう・浮名屋浮名うきな 道行みちゆき興鮫肌きょうがさめはだ

 ♪「あしたいろをしてゆうべに死すともなり」とは、さても浮気うわき言の葉ことのはぞ。朝にえっちができたなら、夕方死んでもかまわない、いやいや違う本当は、朝にさとれば夕方死んでも、それでよい、それは「論語」のむずかしセリフ、こっちの言葉はやわらかな、肌と裸の二人して、恋の道行みちゆき土手どての上、風は冷たし鳥肌とりはだの、立ったうわさの二人連れ、ふんどし長き春の日に、裸の二人、急ぎ行く―――♪。
 「牛は願いから鼻を通す」 (自分からわざわいを求めるの意) ということわざがあるが、艶二郎えんじろう心中未遂みすい、このとき世間へぱっと広まり、絵にまで描かれてしまったとさ。
艶二郎「俺はほんの酔狂すいきょうでしたことなれど、おまえ浮名うきなはさぞ寒かろう。世間の道行みちゆきは着物を着て行くが、こっちは裸で家への道行みちゆきとは、とんだ裏腹だ。新調のふんどしが、ここで目立つも、おかしいおかしい」
浮名「ほんの巻き添まきぞえで難儀なんぎさ」 



二十二

 艶二郎えんじろうは、ちょうど勘当かんどうの約束の日が終わったので、失敗の数々にこりごりして家に帰ってみれば、三囲みめぐりにて奪われた服がかけてあり、不思議に思っていると、親の弥二右衛門やじえもんと番頭の候兵衛そろべいが現れ意見する。艶二郎えんじろうは初めて目が覚め、人間となり、浮名うきなも男のブサイクはがまんして夫婦となり、もとよりお金はあるし、その後も栄えたが、一生の浮名の立ち納めと、今までのことを黄表紙にして世間へ知らせたく、京伝に頼んで、世間の浮気人への教訓きょうくんとする。
弥二右衛門「若き頃は、血気けっき盛んで、いましめのこと多くあり。何事も度を超すと、こうしたものだ。恐ろしい泥棒どろぼうにまで身をやつした我らが芝居、以後はつつしんで過ごせ。喜之介きのすけ悪井志庵わるいしあんとも、もうつきあうな。おまえばかりではない。世の中には、こんな浮気な人間も多い」
艶二郎「ここでやきもちをやかれても困るから、めかけとは別れましょう」
浮名「私はひどく風邪をひきやした」 

 


 二十一の「道行みちゆき興鮫肌きょうがさめはだ」は、もっと長い文で、ダジャレをちりばめているけど、現代人にはわかりにくいので割愛かつあい。ドラマの途中でミュージカルが入るようなものだ。艶二郎えんじろうのモデルの詮索せんさくだけでなく、当時のあれこれが作品の中に入れ込まれている。それを探すのが、当時の人々の楽しみ方のひとつだったのだろう。 


 作者、山東京伝さんとうきょうでん(1761~1816)は、町人の家に生まれ、北尾重政きたおしげまさに浮世絵を学び、絵師として北尾政演きたおまさのぶと名乗った。
 その後、黄表紙や、遊里を描いた文章の洒落本しゃれぼんの作者となる。
 当時の文壇には、恋川春町こいかわはるまち(駿河小島藩の倉橋格くらはしいたる)や四方赤良よものあからあるいは蜀山人しょくさんじんと号した大田南畝おおたなんぽ御家人ごけにん)という武士が活躍しており、町人である京伝も一緒に活動していた。
 後に文壇の第一人者になると、それまではただのお礼だけだった文筆業で、原稿料をもらうようになる。そのおかげで、弟子筋にあたる「南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん」の曲亭馬琴きょくていばきんは原稿料だけで生活できるようになった。
 
 なにはともあれ、「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」は、黄表紙を代表する作品である。 



 その他の黄表紙の紹介は①を参照。



江戸を代表する文筆家、大田南畝おおたなんぽについては、こちら 

 

 タイトル画像は、山東京伝の「作者体内十月図たいないとつきのず」(1804刊)の一場面。作者の図が描かれるが、作者京伝は「京伝鼻」になっている。本物の京伝はスラッとしていて、「京伝鼻」ではなかったと思われるが、わざと自分を「京伝鼻」のキャラクターに描かせている。ちなみに、画は、京伝の浮世絵の師匠になる北尾重政しげまさである。



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