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(連作短編小説)『通り過ぎてゆく女たち』 #創作大賞2022


11月4日(初恋)


 ジャングルジム。
 大人になってしまえば、頂上まではそれ程高いとは思えないものがほとんどである。園児向けのものは2メートルにも満たないし、小学生の登るものは2~3メートルがせいぜいだろう。実際に測ったり調べたりしたことはないが、大人になって、ジャングルジムの横に立ってみれば分かる。大抵において、下から見上げれば頂上は見えるものだ。

 しかし、僕が登っているこのジャングルジムは頂上が見えない。「いつから登り始めたか」と問われると、「僕が5歳のある日のことである」と答えるしかない。


「里子ちゃんは、君のことがすきなんだってー」

 誰が言ったかは知らないが、その言葉は僕に向けて放たれた。それを聞いた5歳の僕は、目の前にあったジャングルジムに飛びついた。そして、一心不乱に登った。何も聞いていないフリをして登った。無駄な蛇行ルートを辿りながら必死に登った。頂上まで2メートルもないであろうジャングルジムが、僕にとっては東京タワーだった。

 5歳の僕は東京タワーなんて実際に見たことはなかったはずだが、僕は雲の上までもぐんぐん登っていけそうな気分だったのだ。


「里子ちゃん。里子ちゃん。里子ちゃん」

 ジャングルジムを必死で登りながら、僕は呪文のように唱えた。もちろん頭の中で。里子ちゃんの名前を口走っているなんて友達にバレたら、もっとえらいことになる。


 ジャングルジムの頂上まで到達した。僕にはぴったりの大きさだ。

 そして、5歳の僕には密かな目標があった。

『ジャングルジムの頂上で、手を離して、2本の足だけで立つ』

 これまでできた試しがなかったのは、単純に怖かったからだ。でも、今日の僕は違う。あの里子ちゃんから、好きだと思われているかもしれないのだ。これは天にも昇る心地だ。今日の僕はどこまでだって行ける。

「里子ちゃんは僕のことが好きだ。里子ちゃんは僕のことが好きだ。里子ちゃんは僕のことが好きだ──」

 ジャングルジムの頂上に立ち、2本の足で、頂上の組棒を踏みつける。もちろん両手は、目の前にある組棒をしっかりと掴んだままだ。体重を徐々に足だけに移していく。足の裏に棒状の負荷がかかる。バランスを取り始めなければならない。僕は2本の足だけでバランスを取らなければならない。


 少しふらつく。まだ手は離していない。生まれたての小鹿のように、足が震える。でも今日の僕は違う。この手が離せる。もっと高いところに行くんだ。

「里子ちゃん! 里子ちゃん! 里子ちゃん!」

 足にほとんどの体重が乗っている。バランスもとれている。今しかない。組棒を握りしめていた手を、そっとほどき始める。僕の手は、僕の目の前で開く。僕の意思と、里子ちゃんの意思によって。


 そこから先は簡単だ。離した手の力を抜き、膝を曲げてバランスをとっている足を、ゆっくりと仁王立ちの姿勢にシフトさせる。前かがみになっていた身体も、少しずつ起こしていく。スローモーションでいい。でも、確実に、僕の手と足と胴体はバランスをとり、2本の足だけで、たった2本の組棒の上に立つことができる。

 そのまま、両の拳を天につき上げる。

「里子ちゃん好きだ! 里子ちゃん好きだ! 里子ちゃん大好きだ!」

 天につき上げた拳の先に何かが触れた。見上げると、そこには数本の組棒があった。ジャングルジムにはまだ続きがあったのだ。



 里子ちゃんは設計士になった。

 彼女が初めて設計したのが、僕だけのためのジャングルジムだ。彼女とは、中学1年生の時に少しだけ交際し、その関係は自然消滅した。中学を卒業してからは、地元の毎年恒例のお祭りで彼女を見かけるくらいだった。

 彼女は東京に住んでいる。




08月1日(2人目の恋人)


 学校の保健室は独特の匂いを持つ空間だ。消毒液と常備医薬品と滅菌ガーゼ。数個のベッドには白いシーツ。保健室の先生の机もある。検診の待合のために、パーティションも設置してあり、順番待ちの生徒達が並んで座れる長椅子まで置いてある。これらは、穢れの無い匂いを漂わせ、たくさんの生徒たちを待ち受けている。

 しかし、保健の先生一人には少し広すぎる空間だろう。

 それを案じてか、空間を埋めるように、生徒たちはそれぞれの理由を持って保健室にやって来る。中学生ともなれば、その理由は多種多様だ。


「今日は、なんで学校に来たの?」

 同じクラスの男子から投げられた一言を理由に、彼女は保健室で一日を過ごすようになった(該当の男子曰く、「なんで――どのような手段で――学校に来たの?」と問いたかったらしい。真相は知らない)。


 彼女は朝、他の生徒と同じ時間に登校し、保健室へ直行する。日中は、保健室の先生と課題をこなしながら、時間帯によってはベッドに座ったり、寝ていたりすることもあった。  

 夕方になると、グラウンド側の窓から、部活の様子を眺める。部活の皆の声が熱を帯びてくる時間帯になると、誰も気づかないうちに彼女は下校する。


 野球部に所属している僕は、よく放課後の保健室にお世話になる。大抵の理由が、練習中に作った傷口の手当だった。グラウンドの土を洗い流し、傷口を消毒され、苦悶の表情をこらえた後、大きめのガーゼを貼ってもらう。そこに彼女も居合わせていることがあり、声を掛けてきた。

「にわとり」

「え? なんだって?」

「にわとり。頭が。似てるから。髪型。にわとり」

「んん」

 まあ、それはそうなんだけども。中学生の僕には、なんと答えれば彼女を喜ばせてあげられるのかすぐには思いつかなくて、なんとなく、彼女の白いシャツの胸元ばかり見つめていた。


 また別の日、野球部の友人が鼻血を出した。体育祭の練習でフォークダンスを踊った後という絶妙なタイミングで。鼻血が下に垂れないように上を向いて歩く友人を、僕は保健室まで誘導して行った。ティッシュを鼻に詰め込まれる友人を待つ僕に、その日も彼女は言う。

「ひよこ」

「はい」

「ひよこ。ちょっと伸びたね。坊主頭。ひよこみたい」

「んん」

 それはそうなのだが。坊主頭は少し放っておくと、ひよこ頭になるものだ。僕はこれをどういう評価と捉えてよいのか分からず、彼女の膨らんだ胸ばかり見つめていた。


 また更に別の日。彼女が保健室で僕にかけた最後の言葉がこれだ。

「消しゴム」

「そうだね」

「長四角、顔。頭は丸いから、消しゴム」

「んん」

 例えが雑だったので、まともに取り合う気にもならなかった。彼女の胸は、相変わらず魅力的だった。


 中学2年生になると、彼女は教室に登校するようになり、みんなと同じ教室で授業を受けた。保健室の先生が丁寧に指導していたらしく、授業の進度にも難を感じていなかったようだ。

「好きな人いないんでしょ? なら私と付き合ってよ」

 これが、彼女が保健室に行かなくなって、初めて僕に掛けた言葉だった。僕はこれといって断る理由も見つけられず、彼女と交際した。2か月間の交際期間ではあったが、僕は彼女と何度か一緒に歩いて下校した。その度に僕は彼女の胸元を見つめた。


 交際が終わった数か月後、彼女が別の男子と手を繋いで帰っているのを見かけた。僕はそんなことしてないのに。おっぱいすら触っていないのに。




6月24日(3人目の恋人)



 悪くはないと思える渋滞は存在する。

 僕は通勤中の車内で、毎日ラジオを聴く。特段聞きたいから聞いているわけではないが、朝のラジオパーソナリティーの無害な声色は嫌いではない。

 ラジオ番組は【夏の懐メロ特集!】と題して、aikoの『花火』をリクエストにより再生している。その曲が流行った頃、中学2年生の時間を過ごしていた僕としては、郷愁的なリクエスト曲だ。


 いつもの大通りのいつもの信号で、僕は通勤のための10分間を車で過ごしている。10分間で、たったの10mも同じ場所から動いていない。渡るべき信号は前方に確認出来るのだが、この大通りに交差する道路の交通量は多く、先の信号では毎日のように渋滞が発生する。


 しかし、僕には大通りをゆくルートが通勤の最短経路である。渋滞を避けるために回り道をしてみても、会社への到着時刻が変わらないことを何度か試したから確かなことだ。したがって、ある程度の諦めを持って、僕はこの渋滞に巻き込まれている。

 前方の信号に向けて、僕の前には車が10台以上並んでいる。僕の後ろにも、ルームミラーで確認する限り、かなりの数の車が並んでいるようだ。しかし、僕がルームミラーで確認したのは、車列だけではない。


 いつもの彼女が僕の車の真後ろにいる。「いつもの彼女」と言っておきながら、僕は彼女の名前も職業も知らない。ただ、彼女は僕と通勤時刻を偶然同じくしており、何度か信号待ちを一緒に並んで過ごした事があるだけだ。まあ、並んでいると言っても、前後方向にではあるのだが、並んで過ごしていることに違いはないだろう。

 可愛げのある車に、可愛げのある服装で、長くてきれいな髪の女性が乗っていたので、僕は彼女を数回見かけただけで覚えてしまった。『可愛いは正義』なんてよく言ったものだと思う。僕は可愛い女の子に敏感だ。長くてきれいな髪の女性だと、なおさらすぐに覚えてしまう。

 彼女は朝の通勤時間だけ、僕の車の四角いルームミラーの中に住む可愛い住人だった。


「今日のカニ座の運勢は――ざんねん、凶です! 仕事で思わぬミスが発覚して、がっかりするかもー」

 ラジオの占いのコーナーだ。耳を傾けながら、ふとルームミラーの中の彼女を見ると、少し口元が動いた。眉が下がり、しかめっ面の端くれが見てとれる。更に占いは続く。

「朝から気分を替えて、いつもと違う髪型で仕事をするといいかも! ラッキーカラーは赤! 赤いものを身に着けて、気合を入れてみて!」

 ルームミラーの中の彼女は、上体を左に前傾し、ダッシュボードの方向へ左手を伸ばす。ゴソゴソとその手を動かし、ひとしきりあって、彼女の身体が元の位置に戻る。

 左手で掴んだヘアゴムを口に咥える。しかも赤いリボンのチャーム付きだ。顎を上げ、斜め上を向くと、頭を左右に何度か振り、髪を揺らす。後ろ手に長い髪をまとめ、手櫛で解していく。長い髪を束ね左肩の前に落とす。また、何度か手櫛で解し、束ねる。口に咥えた赤いヘアゴムを手に取り髪を縛っていく。縛った先の髪を手で撫でながら、前髪をルームミラーで確認する。視線が上目遣いになる。

僕はその一連の動作に見とれていた。


 美しい女性が髪型を変えていく様子は、女性が自発的に新しい一面を見せてくれた気がして、何度見ても心がときめくものである。


 そんなことを考えてルームミラーの中の彼女にばかり気を取られていたが、渋滞の列が少し前に進んだ気配を感じた。僕は前を見据え、ギアを1速に入れ、ブレーキペダルの右足をアクセルに置きかえる。彼女を後ろ目に、クラッチをそっとつなげながら、同時にアクセルをゆっくりと踏み込む。


 僕はこの先の信号を決まって直進する。彼女はこの先の信号を決まって右折する。

 あと数台進むと右折レーンがある。何分後かに、僕と彼女は横に並んで時間を過ごすかもしれない。その先の信号で、僕が先に直進するか、彼女が先に右折するか。そんなことはその日の渋滞状況によって変わることだ。


 ”夏の星座にぶらさがって 上から花火を見下ろして こんなに好きなんです 仕方ないんです”

 ラジオの話題は変わっていたが、僕の耳には依然、曲がこだまし続ける。 

 思えば、中学2年生の僕も、渋滞に巻き込まれていたのかもしれない。aikoの『花火』が好きだった女の子と、僕は2か月間一緒に登下校した。彼女は僕と別れたすぐ後、元彼氏と復縁した。


 後ろの車の彼女が僕のルームミラーから出て行く。彼女は、決まってこの先を右折することを僕は知っている。

 今日の渋滞は悪くはない。




2月3日(1人目の恋人未満)



 冬、山に囲まれる小さな町では雪が降る。標高にすれば400メートル程度なのだが、冬、僕が生まれた町では雪が降る。古くは南北の街を結ぶ宿場町として栄えていた町の雪は、毎冬、降り積もることをやめない。まるで、「また、この町で会おう」と約束を交わし合った南北の街の旅人のように。



 三十数年前のある日も、町の道路には雪が降り積もっていた。前日の夜から降り積もった道路の雪の上には、朝から昼まで行き交う車によって無数の轍が作られていた。轍は山を抜ける細道では長々と平行に走り続け、小さな駅の前で交差し合い、複雑な図形を描いていた。それぞれの理由で走る車が形作ることを考えると、その日その日だけにしか現れない図形だと言える。この町で一番高い山の木々たちは、雪化粧をして、図形がかたちを替える様子を静かに見ていた。


 12時55分。町の病院で、彼女は大きな体で生まれた。

 元気な女の子だった。出産予定日より少し早かったが、産まれてすぐに大きな泣き声を上げた。母の暖かい腕に抱きよせられ、彼女は冬の冷たい外気をしばらく知ることはなかった。

 13時6分。山を下りた街の病院で、僕は衰弱して生まれた。

 予定日から18日が過ぎ、帝王切開で生まれた男の子だった。取り上げられた直後から脱水状態だった僕は、救急車でもっと大きな病院に運ばれた。母と対面したのは、この世に生まれて25時間が経過してからの事だった。


 こうして、”急いだ彼女”と”遅れた僕”は、同じ日に生まれた。

 町で1番高い山から続く稜線の景色の中で二人は育った。春夏秋冬に表情を変える山の木々たちはずっと二人を知っていたが、二人はしばらくの間、お互いの存在を知らずに過ごした。



 彼女と僕が初めて出会ったのは、中学生になってからの事だった。町には小学校が4つある。しかし、小学校同士の交流は無かったため、各々の小学校の中だけが子供たちの知る社会的集団だった。だから、中学生になるまでは、同じ誕生日の女の子が同じ町にいるなんて、僕には想像もついていなかったのだ。


 彼女が僕と同じ誕生日であることを知ったのは、入学式後の最初のホームルームの時間だった。中学1年生のクラス分けが発表され、教室では全員の自己紹介が行われた。


 彼女は僕と同じ日に生まれ「元気だけが取り柄です!」とクラスメイトの前で発表し、僕は彼女と同じ日に生まれ「野球が好きです!」とクラスメイトの前で発表した。こうして新しく始まった中学生活の初日の帰り際に、彼女が僕に声を掛けてきた。

「覚えたよ! 同じ誕生日のキミ!」

「うん。僕も気づいてた」

「私は12時55分に生まれたんいだよ! キミは?」

「僕は13時6分……」

「じゃあ、私が少しだけお姉さんだね! よろしくね」

「んん。ちょっと悔しいけど、よろしく」

(内心、「こんな可愛い子が僕と同じ誕生日なんて、運命に違いない!」って思ったのはここだけの、僕だけの話だ。)


 その日から、僕は彼女をいつも見ることになった。1学年で80人に満たない中学校だったので、クラス分けはたったの2つだ。1年生の時から僕と彼女は同じクラスになり、それから3年間でクラス替えが2回あったのだが、僕と彼女はずっと同じ教室で過ごし続けた。

 彼女はバレー部に入り、ショートカットの髪を振り乱しながら過ごした。教室では、クラスの誰とでも喋り、敵を作らなかった。勉強は少し苦手だったけど。

 僕は野球部に入り、丸坊主で振り乱す髪の毛も無く過ごした。教室では、お調子者の友達をなだめ、生徒会に入った。勉強は余裕で僕の方が彼女より上だった。


 彼女は、決まった女友達と、いつもの道を自転車で登下校した。

 僕は、幾人かの彼女や男友達と、毎度違う道を歩いて登下校した。


 彼女は部活後に、体育館の踊り場で柔軟体操を欠かさず行った。スポーツテストの『前屈』は女子で1番だった。それを嬉しそうに僕に教えてくる。

 僕は帰宅後に、毎夜風呂上がりの時間に柔軟体操を行った。股関節は柔らかくなり、男子で1番を取った。が、記録は彼女に負けていた。


 彼女は人前で一度も泣かなかった。部活を引退した次の日も、ケロッとした顔で登校してきた。

 僕も人前では一度も泣かなかった。彼女がバレー部で泣かなかったのを知っていたから、意地になって、野球部引退の日にも泣かなかった。


 彼女は中学の3年間で、誰とも交際しなかった。彼氏がいないことを僕が茶化すと、「好きな人? そんなのいるわけないじゃん! 馬っ鹿じゃないの!!」と毎度同じ答えが返ってきた。

 僕は中学の3年間で、幾人かの女の子と交際し、幾人かの女の子から僕への好意を告白された。卒業する頃には、制服のボタンを渡す予約が複数の女の子から入っていた。



 中学3年間を同じ教室で過ごし、卒業を1か月と少し先に控え、僕と彼女は同じ冬の日に誕生日を迎える。

「誕生日おめでとうございます」

「ありがとうございます。

 誕生日おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 このやり取りも3回目となれば定型句だ。1年間に1度、この日だけ、丁寧な言葉で、僕と彼女はお互いの誕生日を祝福し合った。

「ねえ、40歳でお互い独身だったら結婚してあげるよ! いつも女の子のお尻ばっか追いかけて馬鹿みたいだから、あんたみたいな馬鹿は私がもらってあげる!」

 彼女は、顔の全部のパーツを使って笑いながら僕に言った。

「いや、こっちが嫁にもらってやるよ! 好きな人いないって言い続けてたら、いつまで経っても彼氏なんて出来ないぞ! そんな馬鹿は僕がもらってやる!」

 僕は彼女のことを、思い切り笑い飛ばしてやった。



 中学卒業後も、二人の誕生日には毎年のようにお互いを祝うための連絡を取り合った。時には電話で会話することもあったし、短文で祝福のメッセージのみを交わすこともあった。ある年には、二人で1日だけのデートに出かけたりもした。

 その習慣は、二人が社会人になってからも、冬の町に降る雪のように静かに続いている。二人が40歳を迎えるまでには、あと7回の冬がある。ここ数年、町に降る雪が少なくなっていることを僕は知っている。今年の冬も同じように雪は降り積もるのだろうか。


 彼女はあの町でたくさんの花と野菜を育て、畑の土で服を汚しながら独りで暮らしている。僕は別の街で車をたくさん運転し、取引先に頭を下げながら、妻と暮らしている。

 町は、また、冬を迎える。雪が降ろうが降るまいが。







5月17日(4人目の恋人)


 たった布2枚の向こう側に、当時触れなかった膨らみがある。部屋には、日中のうだるような暑さを受け止めた熱気が、窓やカーテンの厚みの分だけ残っている。熱気は暗がりのベッドまでは届かないはずなのに、僕の手の平は汗ばんで緩んでしまっている。帰宅した際に点けたクーラーは、そろそろ効いているはずなのだが、夏の部屋と僕は冷え切っていない。


 緩んだ僕の手の平の内側には彼女の膨らみがある。僕は触覚を研ぎ澄ませていた。ベッドに横たわる彼女を後ろから包み込み、目を閉じ、全神経を手のひらに集中させている。彼女の膨らみの形を、手の平に触れる感覚だけで形成する。目を閉じて触れた先の形を一か所ずつ貼り合わせながら、彼女の形を頭の中に描いていく。


 親指の腹で膨らみの端を支えながら、人差し指で形を確認し、中指・薬指の第二関節までを添える。その指先は更に遠くの外縁部に触れる。小指全体の腹でもう一方の端を丁寧に回り込むように受け止め、手のひらに自然に押し当たる彼女だけの柔らかさを感じる。


 身動きを取らない彼女に、僕は更に身を寄せる。

 彼女の背中からお尻までのラインと、僕の胸から下腹部のラインが、夏布団の中で重なり合うかどうかを確かめる。二人の間の距離は、衣服が触れ合う程度から、今やお互いの温度を感じる程に近づいている。

 僕はこうして、彼女との形の一致を確かめている。

 二つの図形を平面上で動かして重ね合わせることができるかどうか、小学生が確かめるように、僕は興味を持ってこの動作を行っている。無事に重ね合わせることができれば、正式に「合同」の称号が与えられるのだ。


 彼女の温度を感じ、やがて、衣服越しに彼女の存在を認め始める。僕の下半身の一部には血液が自然と集まり、彼女の臀部の近くに、じっと待機している。彼女の臀部は、非常に緩やかな曲線を描き、外部からの刺激に対してとても柔軟だ。しかし、未だその両者の間には布が数枚、隔てるものとして存在している。しかし、彼女を焦らせてはいけないのだ。


 3年前、彼女は別れを告げるときにこう言った。

「私たちは、“まだ”付き合うべきじゃなかった」

 野球と卑猥なことしか頭になかった高校2年生の僕は、意味が分からずに、別れの告白に応じた。正直、今でも”まだ”の真相は分かっていないのだが、今日はそれを確かめる千載一遇のチャンスなのだ。終電を逃した僕を、久々に会った彼女が泊めてくれているのだから。


 当時は触れられなかった彼女が、目の前にいる。ベッドに一人の人間の陰のように横たわる二人は、左手を握り合わせる。彼女の胸の上には僕の右手が、その上には彼女の手が置かれている。


 ベッドの断崖絶壁を目の前にする彼女は、前を見つめているのか目を閉じているのか、暗がりの中では分からない。彼女の表情なんて、もちろん見えないし、息遣いさえ聞こえない。息をひそめているのか、こらえているのかも分からない。

 しかし、事実としては、上半身を沿わせながら横たわる彼女と僕がベッドの上にいるのだ。暗がりの中だって、僕には分かる。触れることさえできなかった彼女と、今、触れているのだ。僕が触れたものは、事実だ。もっと下の方では、曲線美を感じる絵画のように足が絡み合っている。彼女の足は僕の上になり、僕のもう一方の足は彼女の間に入り、通り抜けた向こう側で足先が触れている。

 3年の時を隔てて、僕は彼女に布数枚を隔てる距離まで近づいている。この事実に僕はすべての意識を集中させている。近い。触れている。彼女の匂い。髪の匂い。少しの茶色を与えられた髪は、当時見ていた彼女と違うが、そんなことは僕には重要ではなかった。彼女が目の前にいる。触れることができる。彼女の後頭部に、僕は鼻先をうずめる。更に彼女を感じることができる。彼女に気づかれないように、ゆっくりと大きく鼻から彼女の匂いを吸い込む。吸い込まれた彼女の匂いは僕の下腹部に、血液と一緒に集まる。大きな集合体となって、彼女に矛先を向ける。

「……やめて」

身体じゅうに熱を集めた僕に、冷たい手のままの彼女が言った。

「私たちは、触れ合うべきじゃない」

 彼女と触れ合う面積をゼロにして、僕は目を閉じて眠りについた。僕が最後に触れた彼女の一部は、夏のカーテンとは対照的な冷たい手だった。僕には、長年交際している女性がいる。その女性は、彼女の高校時代からの親友だった。


 平面上での三角形と四角形が「合同ではない」と、僕は小学生のころから知っている。それは当たり前のことであり、多くの大人が知っている事実だ。だから、大人になったはずの僕はわざわざ手を動かして、確かめようともしなかったはずなのに。

 僕は彼女とキスをしたことがない。今も昔も。




10月17日(5人目の恋人)



「火はあなたがつけてね」

「うん」

 僕たちは火をつけることにした。交際を始めて五年が過ぎた僕と彼女は久しぶりにデートをする。と、言っても特にすることもなく、火をつけることにした。 


 僕の実家の土地には所有している山が複数あり、一部はキャンプ場として使用されている。シーズン外れの12月にわざわざキャンプに来る客もおらず、僕たちは僕の権利で山に入り、そこで火をつけることにした。実際のところはただの冬の焚火なんだけれど。

 看護学生の彼女は寸暇を惜しんで、今夜までの時間を僕と過ごす。泊まりもせず、日帰りのデートだけれど、お互い納得の上だ。これで、もう何度目かさえも数え切れなくなった回数目のデートになる。


 デートで焚き火をしようだなんて、どちらが言いだしたのかは後から問題にはならないし、僕らは当然のように焚き火をする。思えば、子供の頃はよく火を燃やす機会があった。そこらにある小枝を燃やしたり、何かのイベントで友達とキャンプファイヤーをしたり。そういった子供の火遊びの延長程度の焚火を僕たちはするのだ。

 僕と彼女は取り留めのない遊びや会話をたくさんしてきた。髪の毛に匂いがつこうが、季節外れだろうが、二人で決めたことを素直に楽しんでくれる彼女を、とても可愛いと僕は思う。


 日中は冬らしい寒空ではあったが、偶然にも雪は降っておらず、過ごしやすかった。夕刻の太陽は既に傾き始め、遠くの空から新しい色の空が始まっている。季節的な防寒はしてきたが、屋外では息も白く、寒いものは寒い。手袋をしていても、末端から徐々に身体は冷えていく。


 夜になる前に、火をつけなくては。

「火はあなたが付けてね。そういうの得意でしょ?」

「うん。いいよ。得意って言っても、ばあちゃんに教えてもらった風呂の湯を沸かすための火のつけ方だけどね。ほら、使うのはマッチだもん」

 僕はポケットに用意しておいたマッチを取り出し、シャカシャカと振って、彼女に見せた。

「いいんだよ。あなたのやり方で火を付ければいいの。それこそ、あなたが〈火打石でやるんだ!〉なんて言いだしたら、私は止めるもん。あなたがそういうことを言わないのも、もちろん知ってるけどね」

「はいはい。よくご存じで」

 僕は腰を下ろし、明るいうちに準備しておいた木を組んでいく。それぞれの形を生かしながら、空気の入りこむ隙間を作り、重ね合わせる。中央に細い木々を束ねて差し込む。合間にも少しの埋め合わせを、小さな小枝たちで施す。そして点火の際に大活躍するのは新聞紙だ。僕は普段は新聞なんて読まないが、火を点ける時だけは彼らを信頼している。


 最下部に差し込んだ新聞紙の端に、僕はマッチで火を点けた。

 新聞紙の端から小さな炎が始まる。マッチが燃えて煙る独特の匂いが先に鼻に入る。目に見える速度で炎は進む。新聞紙だけの部分から上がる火は、小さくて細い木々たちを少しずつ赤い色に変えていく。パチ、パチ、と耳にも燃焼の始まりの音が間欠的に届き始める。新聞紙の炎によって、細木の端が赤く熱を帯びていく様子がよく見える。オレンジ色は強くなり、燃焼の音はテンポを速める。やがて、細い枝たちは一つ一つが正式な燃焼を始める。それぞれが小さい炎を上げ始め、隣り合った木々は力を合わせ、更に大きな薪を取り囲む準備を始める。


 少しだが、暖かさを感じてきた。彼女は手袋のままの手を火にかざす。

「ねえ、なんで高校のとき、私の連絡先を聞いてきたの? あの頃はクラスも違ったし、きっかけなんてなくなかった?」

「それはただ、廊下から見た君の姿が僕の目に留まったからだよ。一目惚れとは違うんだけど、めちゃくちゃに笑ってる君の顔が僕の目に正確に入ってきたんだ。それで」

「それで?」

 隣に立つ彼女は、しゃがみ込んで火を見つめる僕を見下ろしながら、嬉しそうに話の続きを求めているようだ。この話をするのも何度目か分からない。

「なあ。これ何回も言った気がするぞ。人が同じ話を何回もする時は、言ったことを忘れて思わずしちゃうもんでしょう? しかも僕が忘れてないのを知っててわざわざ聞いてるよね。何回も同じ話を聞いて楽しいものなの?」

「いいのよ。あなたのそういう記憶力が無駄にいいところが面白いの。きっと何かの役に立つよ」

「はいはい。無駄に、ね」

 それ以上の言葉を止めて、僕は火の行方に視線を戻した。


 小さな木々が団結した勢力の火に、大きな薪たちも少しの抵抗を見せたが、外縁の皮の部分が色を変え始める。パチパチと囃し立てるような音の小さな炎たちに攻め立てられながら、大きな薪は色を変え、炎をまとい、自身の炎に包まれていく。

「うおっほ。燃えた。いい感じじゃん。一発じゃん」

「あなたが火を点けたんでしょう? なら驚いてないで静かに見てればいいじゃない」

「ただ見るのも楽しくないから、リアクションしようと思って」

「いいのよ。私たちはこういうので大声を出したりしないじゃない。私たちには私たちの燃やし方と見方があるの」

「んん。分かってる」


 全ての薪が色を変え、炎をまとった。小さくバラバラだった火は、一つの大きな炎になった。炎は先端の位置を不規則なタイミングで変えながら、中央部分は着実に燃焼する。周縁では、炎の耳が踊っている。

 そこまでを見届けると、僕らは用意周到に準備してきたキャンプチェアにそれぞれ腰掛ける。手をかざすと、とても暖かかった。本当に、目の前で火が燃えていることを、手袋越しにでも実感できる。

「燃えたな」

「うん。燃えたね」

「焚火を見る時って何を話したらいんだろう。最近どう? とか?」

「私は特に変わりはなく忙しいかな。毎日必死よ。気づいたら国家試験も目の前だし、実習もまだ残ってるしね。それより、あなたは最近数学の話をしなくなったよね。高校の頃は受験勉強の時期にさんざん教えてくれたのに。しかもアレ、絶対受験に関係ない数学の話もあったよね? まあそれが面白かったんだけど。私の分かるように教えてくれたからね」

「うん。大学でやる数学は楽しいよ。でも僕がやってる数学は、まだ僕の言葉じゃ説明できないんだよな。それに数学のほんの端っこの部分しか知らない。できれば君に分かるように教えたいんだけど、僕はこうやって留年が決まってるようなダメな学生だし、うまく教えれる気がしない。それに、本を読んだりしてると、僕はまだまだ何も知らないんだなって痛感する。僕は僕の言葉で説明できる自信がないな」

「ふうん。そういうものなのね。私はもう、毎日が早すぎて混乱してるよ。実習実習、記録、勉強、実習、記録記録、勉強勉強勉強……みたいな感じで、自分が今何やってるのかも分からなくなっちゃうくらい」

 一旦燃え上がった炎は頂点から高さを下げ、安定した焚火になった。それを見つめる顔までが暖かい。

「明日からまた実習が始まっちゃう」

「んん。そうだな」

 大学留年が決定し、更に一年の余分な時間を得た僕は返す言葉もなく、目の前の燃え上がる焚火に目をやった。次に何を話せばいいかお互いに分からず、そのまま僕らは焚火を見つめる。


 焚火というのは、燃える炎を見ていると、吸い込まれそうな魅力を感じることがある。不規則に動く自然の熱源に、人は心を奪われ、感動する。一方で火というものは、人が自分たちの意思で使うことができるようになった道具の一つでもあるのだ。ただの火の揺らぎの感動だけでなく、人間が火を操作できるようになった事実にも、感動すべきなのかもしれない。

 先端の色、内側の赤、オレンジ、熱されて白み始めた薪、それぞれの変化を見るのも楽しい。それぞれを見つめていると、形の変化に注目して観察したくなる。


 僕の近くに、焚火から頭をはみ出している薪が目に入った。

 半分は燃えているが、もう半分にはまだ全く火が回っていない。しかし、点火された側からは炎が徐々に迫ってきている。炎のうずから這い出すような格好で、その薪は横たわっている。

 這い出した薪の先の木目には、目と鼻と口があり、今にも動き出しそうだ。いわば〈顔を持った薪〉だった。背後からは炎が徐々に距離を詰め始める。先端の顔は、少し苦悶の表情を浮かべる。薪の脇からは木皮の手が生えており、背後から迫る熱気に耐えられず、その手を動かそうとしているように見えた。ゆっくりと、右手、左手、右手、とでも動かして、前に進むのだろうか。半分が燃えた薪は、バランスを崩しつつある。今にも途中で真っ二つに折れそうだ。僕はその〈顔を持った薪〉が、自然の炎の中でどうなるのか見てみたくなって、焚き火の中に押し込もうとせず、観察を続けた。


 先端の顔が少し笑った気がする。炎に照らされた木目が、僕にはそう見えたのかもしれない。

 背後の炎が勢いを増す。すべての薪の炎が団結しているのだ。しかし、顔を持った薪は諦めない。手を動かし、炎から這い出そうとしている。中央部が強く熱され、一気に白む。先端の顔は一方の口角を上げ、にやりと笑う。それと同時に二本の手で出来る限りの推進力を発揮し、前に進む。一つの薪が、熱い炎によって途中で引き裂かれた。ボロっと音を立て、炎から逃れた薪の先端は、僕と彼女の目の前まで転がってきた。その勢いのままに数回転したのち、その薪の先端はみるみる形を替え始めた。


 ただの木目だった顔は人間の顔となり。木の皮は柔らかさを持ち始め、皮膚となる。硬く、身動きをしそうになかった木片が、柔軟な動きを始める。木皮の一部は白い衣にも変化した。


 木片は、コビトになった。僕と彼女の目の前で。

 正真正銘のコビトだ。コビトが焚火の前に立っている。背はその木片の長さのままだったが、手足の質感が木のそれではない。そして、白い服を着ているが、靴は履いていない。コビトは確かめるように自分の両手を代わる代わる見つめている。逡巡ののち、手元を見つめていた目をこちらに向け、両手を挙げた。
 そして、今出来上がったばかりの口を開く。

「パンパカパーン。おめでとうございまああす。お二人さん。13月に行きたいですか?」

 背後から焚火の明かりに照らされ逆光となっているため、コビトの表情は読めない。しかし、コビトは明らかに僕たち二人に話しかけている。僕たちは思わず顔を見合わせる。焚火を見ていたはずなのに、僕たちはコビトと会話を始めることになったらしい。

「13月? それって1月のこと? 1月は来月だけど」

「ちがいまああす。13月は13月なのです。今月の来月で、来月の先月です」

「はあ。行きたいというか、言っている意味が分からないから、僕には判断がつかないな。それに13月は希望したらいけるのかい?」

「ちがいまああす。お二人さんにはチャンスが与えられたのです。13月に行くチャンスです。でもチャンスはピンチ。ピンチはチャンスなのです。」


 目の前のコビトは喋り終わるたびに、両手を挙げたまま片足立ちでクルクルと回転する。少しめんどくさい。

「はじめまああす。燃やしてください。炎をきちんと燃やしてください。お二人さんは、ずるをしていないので、ずるをし続けないでください。そして、燃やしているので、燃やし続けてください。あなた方のやり方で。そうしたら13月です。13月うう。みんながいきたい、13月ううう」

 そう言ってコビトは、僕たちの方にトコトコと歩いてきた。くるっと反転し、焚火に向き直る。僕と彼女の間に体育座りをして、地面に座り込んだ。しばらく待ってみたが、コビトは炎を見つめるばかりで、次の言葉を発する気配がない。

「とりあえず僕たちは焚火を続けたらいいのかな?」

「そうね。13月って意味が分からないけど、興味はあるわね」

「でもこれ、いつまで燃やせばいいの? ゴールはどこよ。何が目的?」

「さあね。とにかく13月になるまで燃やし続ければいいのかな」

 彼女はどうやらコビトが言うことを素直に受け入れることにしたらしい。彼女が認める事柄は僕も認める。かと言って意見交換をしてこなかったわけではない。彼女が納得して話している時の言葉は分かるし、僕はそれを否定しないだけだ。


 とはいえ、今の状況には謎が多すぎる。幾分かの質問を、僕らは投げる他なかった。

「ねえ、コビトさん。キミはなんでここに来たの?」

「ちがいまああす。来たのではありません。あなた達が作ったのです」

「僕達が作った? じゃあキミは人の意思で作れるの?」

「ちがいまああす。無理してワタシたちを作ろうとする人もいますがそれはダメです。ジッとタイミングを待つのが正解です。ワタシたちはそういった人達の前では何も話せません、話しません。そういった人達は、ワタシたちを放り投げたり、水の中に沈め込んだり、ヒドいことをしまああす」


 焚き火に照らされたコビトの顔の方を見て聞いていると、コビトの顔は僕ら二人に似ているように見えた。彼女も僕と同じことに気づいたらしく、僕より少し早く言葉を発する。

「もしかして、あなたは私達の未来の子供なの?」

「ちがいまああす。ワタシたちは子供がいてもいなくても、存在できまああす。今回のお二人さんみたいな場合もあるし、おじいちゃんとお孫さんの二人の前に現れるかもしれません。時には男性の友人同士二人の前かもしれません。そしてワタシは今この形をしているだけで、他のワタシは違う形かもしれません。時には化け物の姿をしているかもしれません。とにかく、決まり事は2つだけ。二人の人間の前に現れること。ピンチがチャンスで、チャンスがピンチで、13月に行けること。それだけでええす」


 確かに、コビトは性別が分からないような顔をしていた。それに、僕と彼女の間で体育座りを続けてじっと焚火を見る姿からは、悪意を感じない。他に何かを要求しているようにも感じ取れなかった。

「ところで、13月に行けたらどうなるのかな? 僕は今まで他人から13月の話を聞いたことが無いんだ。だから、少なくとも僕の周りにそれを経験した人はいなさそうだ。それに、この国のカレンダーは12月で1サイクルの1年が終わることになってる。もしかしたら、13月っていうのは怖いところで、人が話したがらないような所かもしれないだろう?」

 コビトは何も答えず、焚火を見続けている。”13月”の詳細については、どうやら僕らには教えてくれないらしい。もしくは、コビトがそれを語る言葉を持っていないのかもしれない。僕は質問を変えた。

「キミはいつも火の中から出てくるの?」

「ちがいまああす。火の中や水の中、手帳の栞からの場合もありまああす。しかしまあ、火の中はオーソドックスです。お二人さんは典型的なお二人さんでええす」

「ふふ。私達オーソドックスなんだってさ。もちろんそれは知ってたけどね。改めて言われると、ちょっと悔しいかも」

「いいんじゃないかな。僕らは僕らで、楽しい5年間を過ごせてるんじゃない?」


 僕は手元に置いておいた薪のストックを焚火に差し込んだ。大きな薪たちには完全に火が回り、白んでいる部分が多くなった。炎は大きく揺らいでいるが、中央部分の熱は安定感を増している。その炎を見ていると、僕はたくさんの事を思い出せた。

「春には桜も見に行ったし、夏には川に足を浸けに行った。秋には勉強もしたし、たくさんの音楽も聴いた。冬は寒いからコタツで過ごすことが多かったし、その分沢山セックスもしたな」

「またそういうことを言う。私はいつも途中まで真面目に聞いてるんだよ。まあ、でも、君が最後には変なことを言うのも分かってるんだけどな。聞いちゃう方もやめられないんだから」

「だって事実じゃないか。手をつなぐとこからキスしてセックスするまで。僕は君とすべてを初めての経験として行ったんだ。これは僕にはどうやっても変えることができないし、忘れることができない事実なんだよ」

 コビトは僕らの話を聞いているのか、聞いていないのか、じっと黙ったまま炎の方を見続けている。先ほど差し込んだ薪のせいか、また炎が大きくなっている。例えば、僕が記念写真を燃やす時の焚火も、同じように勢いを強めるものかもしれないな、と僕は思った。


「いいわ。たまには思い出話でもしましょう。あなたの記憶力はこういう時間を埋める時に使えるものね」

「そうだね。思い出は思い出としておくのも必要だけど、記憶の中のお互いの感情を交換すべきタイミングもあると思う」

「じゃあ、あなたが私の連絡先を聞いてきたときの話からね」

 彼女はそう言うと、僕を嬉しそうに見つめてくる。言葉の空白を作り、僕が喋りだすのを待っている。こうなると僕は彼女には逆らえない。

 僕は、僕ら二人の長い話をした。


 僕と彼女は話を続けながら、焚火に薪をくべ続けた。彼女は火箸を使って灰の溜まっていく部分を調整し、僕は順を追って炎の位置が偏らないように薪を入れる。

 口では僕と彼女の話を際限なく続けているのに、手はお互いの動きを考慮し合い、自然に動かせる。何も気にしなくていい。偶然に少し火の粉が飛んだときは、「ごめんね」と言えばいいのだ。それだけで僕たちはうまくいっていた。


 こうして、僕たちは焚火の前でしばらくの時間を過ごした。時計なんて見ずに、過ぎ行く時間を丁寧に過ごしたのだ。


 コビトが話さなくなって、僕と彼女が話続けて、どれくらい経っただろうか。手元の薪も底を尽いた。あとは自然に任せて、炎が揺らいでいるのを見ているしかない。家に戻って薪のストックを補充する方法もあったのだが、僕がそれをするとずるになる気がしていた。

「薪、なくなっちゃったね。どうしようか。何を燃やしたらいい? 服とか? それはさすがにまずいよね。」

「ああ、うん、それなら、もう一つ木片があるな。いや、元木片か」

 僕は、黙り込んでいたコビトに目をやる。

「ちがいまあああす。ちがいませんけど、ちがいまあああす」

「嫌がってるじゃないの」

「嫌がってるけど、完全には否定しなかったな。もしかして、最後はコビトを燃やすのが正解かもしれないな」

 あえて焚火の方を見つめ直しコビトの言葉を誘ったが、黙りこくったまま何も言葉を返してこなかった。火の燃やし方についてヒントは与えられないということだ。ヒントが与えられたら、コビトの言う〈ずる〉に当たるかもしれないので当然といえば当然だろう。

「コビトさんは燃やさないであげたいな。喋り方は少しヘンだけど、一緒に話を聞いてくれるコビトさんは私達の仲間だよ。なんだか、燃やさない方がいい気がしてるの」

 彼女の納得の感情を持った言葉だ。僕は抗えない。抗ったことが、今まで無いのだ。

「そうか。実はコビトを燃やすかどうかが、13月に行けるかどうかの重要なポイントだと僕は感じてるんだ。コビトを燃やさなければ、僕らの火が消える。コビトを燃やすと、僕らの大切なモノが一つなくなる。これってかなり難しい選択だと、僕は思うんだけれど」

 目の前の焚き火は明らかに勢力を弱め始めた。炎としてのピークを越え、自然の持つ終息の時間に身を任せ始めている。

「そう思うなら、あなたが考えて、あなたの思うようにすればいいよ」

 そう言って彼女は立ち上がる。

「ところで、残念なお知らせがあるの」

 彼女は背筋を伸ばして、こちらを向く。

「明日からも実習があるから、私はそろそろ帰らなくちゃならないの。友達が迎えに来てくれるし、さすがに〈13月になるまで待ってて〉とは言えないし。あなたと13月を迎えるためには一緒にいるべきなのかも知れないけど、時間が私を待ってくれない時もあるの」

「知ってるよ。それは分かってた。君が行かなきゃならいことは分かってたから、この火はまだ消えないと思う」

「私はね、13月ってちょっと素敵だなって、思ってるんだよ。君とそこに行ってみたいとも、思ってるんだよ」

「それも知ってるよ。だから、行けばいい。大丈夫だよ、あとは僕がやるから。これから僕が見ることを、また全部話して教えるよ。そのための無駄な記憶力だからね」

 僕らは、デートの別れ際に、それほど長い時間を要さなくなっていた。「またね」と言えば、それは本当の「また会おうね」であることを、お互いにきちんと分かっていた。

「ありがとう。またね」

 彼女は立ち上がる。何度か手を振り、すっかり暗くなったキャンプ場の街灯を辿りながら、歩いていった。僕も同じように手を振って、彼女が一人で進む足取りを、ただただ見ていた。



 彼女が去ったあとも、薪の炎はまだ消えていないし、コビトも消えなかった。つまり、13月に行けるチャンスとして、彼女の選択は正しかったということだろう。彼女は別の場所で彼女の責任を果たし、あとは僕がこの火の責任を持つのだ。

 チャンスはピンチで、ピンチはチャンス。

 コビトを燃やすべきか、燃やさないべきか、僕は悩んでいた。

 焚火は明らかに高さを落としつつある。しかし、ここからが案外長いのだ。太く大きな薪たちは優秀な炭になり、高温で白んでいる。確かな熱が奥にあることが分かる。


 この焚火には僕が火をつけた。

 ならば、僕はこの焚火の行く末を、責任を持って見届けなければならない。この火が小さくなったら、持ち帰ってもいいのかもしれないが、それも違う。この場所で、今燃えている現実の炎が意味を持つのだ。


 コビトを投げ入れ、この火を燃やし続けるのか、コビトを大切にし、火を燃やし続けることをやめるか。

 しばらく、僕はその堂々巡りの思考回路の中にいた。どちらの答えも行き着く先は分かっている気もするが、正確な説明がつかない。両立させる方法も思いつかない。僕は僕の意思で選ばなければ、次の行動ができないのだ。

「アナタは諦めが悪いでええす」

「そう。僕は諦めが悪い。諦めずに考えて考えて、そして選択しなければ気が済まないんだよ。だって、何がどうなったか、僕はこの口で彼女に話さなければならないからね」

 目の前の火は、時間と共に焚火とは呼べない代物になっていく。炎と呼べる明かりは見当たらず、辺りの闇に吸い込まれそうな大きさだ。先ほどまでは火に照らされ暖かかった顔も、風の冷たさに晒され始める。しかし、量は少なくとも奥に熱源はある。優秀な白い炭が、熱源として支えてくれている。


 僕は座り直しもせず、キャンプチェアの上から動かなかった。

「13月に行けなくてよいのですか? 火が消えてしまいそうです。彼女も興味を持っていましたよ」

「それはよく知ってるよ。でもね、僕は僕が付けた火の行く末を最後まで見届けることにした。消えるまで責任を持ってね。ここで見ることにしたよ。それに、僕が一人で管理したって、僕はこの火をどんな色に変えてしまうか分からないからね。それを後から聞いた彼女はがっかりするかもしれない。彼女が立ち上がるという選択をしたのなら、僕は火が消えるのをきちんと見届けるという選択をする。今の僕には、これしか彼女に説明できるやり方が思い浮かばないんだ」

「火が消えてしまったら、ワタシとまた会えるかは分かりませんよ? 次は化け物かもしれませんし、そもそもアナタの前に出てこれる保証はありません」

「いいんだよ。今回はこのタイミングを教えてくれただけで十分だ。コビトさんに会えない人もいると思うと、僕はラッキーな部類だと思うしね。まあ、もし死ぬまでにまた会えたら、もちろん嬉しい。また同じように沢山話をするから、その時はよろしくな」


 コビトはもう、僕に話しかけなくなった。そこに座っているだけだった。コビトの形をしているのに、ただの木片に戻ってしまったかのようにとても静かに。

 僕もコビトと同じように話す事を止めた。


 僕はその後、時間をかけて火が自然のままに消えるのを待った。半分眠りながら、ついには、その火が消える瞬間を見届けた。

 自然が作り出した消えゆく時間は、彼女に似て優しく、そしてとても美しかった。火が消えるという現象は、とても寒く冷たいだけのものではないことを僕は初めて知った。

 火は、きちんと自然に消える。僕が火をつけて燃やした二人の焚火は、手を加えなければ自然に消える。目の前でその事実を見ることによって、僕はそれを正確に認識した。これが僕の選択で、僕の責任のとり方の一つだ。最後の煙の一欠片の匂いが、寒い空気に溶けるまで、僕はそれを暗闇の中で見ることができた。


 僕の気づかぬうちにコビトは姿を替えており、燃えていない木片だけが僕の足元に残った。僕はそれを拾い上げ、その場を去った。


 それからしばらく、僕と彼女は連絡を取らなかった。

 翌月、彼女から電話がかかってきた。

 部屋の壁のカレンダーは1月だった。

 持ち帰った木片を見ながら『これが僕との彼女の5年間』なんて、思ってみたりもしたけど、案外ちっぽけでいいかもしれない。大きな絵画なんかだったら、部屋に飾るのが大変だし、他人に説明するのも煩わしい。僕と彼女だけが知っている火の暖かさは、二人だけが知っていればいい。

 必要な時が来たら、この木片を一人で燃やしてみるのもいいかもしれない。高く燃え上がらなくとも、少しは僕の手を暖めてくれる炎になるのかもしれないのだから。




9月7日(6人目の恋人)


 彼女は眠るとき、いつもペンギンと一緒に眠る。

 彼女はペンギンが住む小さな島で生活の多くの時間を過ごす。島には、犬と猫と、ニワトリに鷹と、あとは大きな亀も住んでいる。彼女が言うにはその他にもたくさんの動物がいるらしいが、種類が多過ぎて僕には覚えきれなかった。


 彼女は16歳の頃から、島で眠るようになった。

 彼女が生まれた街は海に面している。街から地続きに小さな島がある。街と島は、足を濡らせば歩けるほどの陸繋砂州で繋がっているだけだ。歩いて渡るのに5分もかからないし、潮の満ち引きに関係なく、その道は通ることができる。

 必要なモノがあれば家や街で調達すればよいし、世界を飛び回る仕事をしている彼女の母は、彼女のその暮らし方を容認していた。彼女が家で寝ようが、島で寝ようが、数百キロ・数千キロの移動をする彼女の母からすれば、場所としての大差はなかったのだろう。その母が、彼女のために土地を購入し、小さなハウスも建てたらしい。


 また、動物をたくさん買い与えたのも彼女の母だった。娘と過ごせない時間の埋め合わせとして、動物を買い与えたと想像できる。もちろん、彼女自身もその事情は把握していたし、動物と過ごす時間は本当に心から好きだったので、母のその行為に関しては素直に喜んだ。そうすれば、明日も彼女はたくさんの動物と眠れるのだから。

 したがって、彼女は彼女の意思で、その島で眠っていることになる。

「人と話すより、動物と話す方が楽しいの。」と彼女は常々言っていた。灰皿が宙を舞ったり、料理が床に散乱したり、時には首を絞められたりする生活を数年経験したらしく、それを聞けば納得のいく意見かもしれない。だから、その島には彼女以外の人間は足を踏み入れないし、彼女自身も人を連れて島に入ることはしなかった。彼女の母でさえも、それは同様だった。そういった生活を彼女は3年間続けている。


 一方で彼女はネットアイドルをしている。

 島には、わざわざ電気やインターネット回線が引いてあり、彼女は一部のオタクには有名なネットアイドルだった。僕も彼女のファンの一人であり、彼女がネット生放送をする度に、常連として視聴していた(彼女は『ぺったんこバージン女学生』という大学5年生だった僕の好みに、どストレートな名前で活動していた)。

 彼女はファンとの交流も積極的に行っており、個人的なやり取りもしてくれる。基本的にはSNS上のダイレクトメールや、多少の無料通話アプリを介してのやり取りが主だった。

「おはよー。今日は犬のチャーリーと海で泳いだよ!」(水着の写真付き)

 といった類のやり取りを、ファンの一人との個人的な会話の体で、記号的に同時に複数人のファンに対して行っていた。ネット生放送や公開されている以外の情報を得られると、個人的に何かを与えてくれたとファンは喜ぶ。そして、個人情報を秘匿化させることで『秘密の共有』による優越感を得られる。したがって、彼女のこのやり方は、SNSが普及途上であった当時、中々バレなかったようだ。


 ただし、本当の秘密の共有をしているのは、この僕だった。

 きっかけは僕が飼っている猫が体調を崩し、彼女に相談してみたら、とても親身になって聞いてくれた事からだっだ。親密に人と話すことを拒否しているのかと思っていたが、そんなことは無かった。あれは恐らく彼女が、何かの免罪符として言っていただけのセリフだったのかもしれない。

 個人的な相談をきっかけにして、彼女と僕は急激に距離を詰めた。

 世間と隔絶された(ネットアイドルにおいても、一定の距離から内には決してファンを近づけさせなかった)生活を送っていると、その一歩先に踏み入った個人の登場は劇薬となり得る。


 2か月間ほど、僕は彼女と親密なやり取りを続けた。そして、とうとう僕は彼女の島に渡った。渡ったその日に共に一夜を過ごした。彼女が妙齢の雄の人間と過ごす初めての夜だった。彼女と僕だけの秘密が、二人の間で共有された。

 その後、何度も僕は彼女の島に足を運んだ。彼女が知らなった新しい遊びをし、僕が習っている勉強の話もしたし、僕が就職してからは仕事の話もした。彼女は、動物看護師になりたいと言った。ネットアイドルをやめ、動物たちも住むべき家に連れて帰ると言った。


 何度か彼女の島に通ううちに、彼女が島で過ごす時間が減っていることに気づいた。また、僕がこの島に立ち入ったことで、僕以外にもこの島に来るようになった人がいるようだ。彼女の島での様子から、その痕跡を僕は見て取れた。とても小さなことだったのだけれど、例えば犬のリードの色が変わっていることだとか。


 ある朝、僕は彼女と手を繋いで島を出た。

 海水で足を濡らしながら島を渡って、彼女が戻った街には、幾人かの人が彼女を迎えていた。彼女は誰かに向けて個人的な手を振った。

「おーい。帰ってきたよー!」

 個人的に手を振られた青年は、髪をピンク色に染め、台風が肩から殴りつけて来たかのように斜めに絵の具が飛び散ったデザインのTシャツを着ていた。

「俺、こいつと結婚するって昔から決めてたんで、よろしくっす!」

 と台風のTシャツの青年は僕に言った。僕はそんな秘密は知らないので、濡らしたままの足を拭きもせずに、裸足で車を運転し、家路に着いた。


 彼女は最初の夜、僕を迎え入れた瞬間に泣いていた。

 あの涙だけは、ずっと二人だけの秘密だと僕は信じている。大きな湖に落とした赤い染料ひとしずくのようなものなのだとしても。




38月98日(7人目の恋人)


「神聖な白蛇を見て、蛇嫌いを克服しよう」

そう言われた僕は彼女と、神聖な白蛇を見ることになった。

 神聖な白蛇を見るためには、神聖な箱に300円をチャリンチャリンと落としてから列に並ばなければならない。箱には100円玉を3枚きっちり入れなければならない。両替をする機械や窓口が近くに見当たらなかったので、同じ敷地内にあるソフトクリーム屋で千円札を崩した。彼女は自分の財布から取り出した100円玉を握りしめ、僕がソフトクリームを買うのを嬉々として待っていた。


 神聖な白蛇を見るのに、ソフトクリームを右手に持ってはいてはまずいと僕は思ったので、列に並ぶ前に食べ切らなければならない。

「おいしい? 何味? 冷たい? 全部食べれる? 歯は痛くない?」

 ソフトクリームの白い渦巻と、神聖な白蛇のとぐろは何かの対比なのか? と考えてみたが僕には何も思いつかなかった。そして、ソフトクリームが食道を通り、隣の気管支が急激に冷やされたことで、僕は激しくむせた。

「大丈夫? 何か飲む? 倒れそう? 息が苦しい? しんどくない?」

 神聖な白蛇を見るための列が前に進む。観光に来た高齢の夫婦や、子連れの親子が目に付く。カップルで並んでいるのは偶然にも僕たちぐらいだった。列に並ぶ人たちの年齢を勝手に予想し計算してみると、僕らはこの列の平均年齢に位置しているようだ。

「列、進んだから、行こう」

 数歩ずつ進む列に並びながら、ソフトクリームのコーン部分に辿り着いた僕は、口の中の水分を持っていかれつつも、溶け合う生クリーム部分と絡み合うコーンの味を楽しんだ。

「怖い? 白い蛇みたことある? 何が嫌いなの? 触るのも見るのも無理?」


 数分後、300円と引き換えに、神聖な白蛇を見たが、やっぱり蛇は怖かった。

 小学生の頃、草むらに潜む蛇に足を噛まれた記憶があり、僕はそれ以来蛇を苦手としている。白い蛇をソフトクリームみたいに食べるのは無理だな、と思った。


 僕は記憶力には自信があるが、彼女の名前は一番初めに忘れた。住んでいる街への行き方も忘れた。誕生日も忘れた。セックスの感触も忘れた。初めて交わした言葉も忘れた。さようならの言葉も忘れた。

 僕は自分が蛇に噛まれた瞬間の映像を、今もはっきりと覚えている。千の言葉を尽くして語れるほどに。




6月20日(8人目の恋人)


 僕は彼女を利用した。夜の街で突然ナンパして連れて帰った。


 そして。 


 彼女は背が低かった。悪くないなと僕は思った。


 彼女はブスではなかった。悪くないなと僕は思った。


 彼女は温泉が好きだった。悪くないなと僕は思った。


 彼女は看護師を目指していた。悪くないなと僕は思った。


 彼女は弟と同じ病気を持っている。悪くないなと僕は思った。


 彼女は煙草を吸っていた。悪くないなと僕は思った。


 彼女は夜のバイトをやめた。悪くないなと僕は思った。


 彼女は半年後に煙草をやめた。悪くないなと僕は思った。


 彼女は怒らない。悪くないなと僕は思った。


 彼女は料理が上手だ。悪くないなと僕は思った。


 彼女はカープファンになった。悪くないなと僕は思った。


 彼女は一緒に寝てくれる。悪くないなと僕は思った。


 彼女は猫が好きだった。悪くないなと僕は思った。


 彼女は猫アレルギーだった。これは大変だ! と僕は思った。


 僕の実家にはメス猫が暮らしていた。

 猫は、僕が小学校3年生の頃に実家の木小屋で生まれ、16年間を生きた。僕は高校生から寮生活をするため実家を出た。つまり、僕が実家で生活したのは15年間だけだ。したがって、その猫は僕より1年間多く、あの家で生活をしたことになる。

 山あいの町の、敷地だけ大きな日本家屋だったので屋内猫ではなかった。活動的なメス猫で、よく家の周りの草むらを走り回った。彼女は毎日好きな時間に散歩に出かけ、決まった時間に家族とご飯を食べ、夜は家族の誰かと眠った。朝方にはまた散歩に出かけた。

 時には車に轢かれて後ろ足と尻尾を骨折したり、散歩に出たっきり10日間も帰ってこなかったりする場合もあった。それでも彼女は、命が尽きる日まで、家を離れなかった。毛並みはボロボロで血だらけになろうが、自分自身の足で歩いて家族のもとに帰ってきた。ボロボロになってまで、意地でも、必死にでも、是が非でも、家に帰ってくる彼女を見る度に、僕は何度も泣きそうになった。彼女は彼女なりに、精一杯僕たちの家族だったんだな、と思う。


 彼女は僕が落ち込んでいる夜には一緒に寝てくれた。2時間くらい一緒に眠って、僕が元通りになると、彼女は僕の部屋を出て行った。

 人間に囲まれ、猫らしい気苦労も多かったのかもしれない。もちろん、彼女が大事な家族だったことは、ウチの誰もが認めている。


 彼女が亡くなる1か月前のこと。

 猫アレルギーの彼女が、16歳になる僕んちのお婆ちゃん猫を、どうしても見たいと言った。僕は猫アレルギーの彼女を実家に連れ帰った。毛むくじゃらだったお婆ちゃん猫はものの見事に体毛をまき散らし、猫アレルギーの彼女は首がかゆくなり、鼻水をダラダラ流していた。

 それでも、「会えてよかった」と彼女はとても喜んでいた。


 1回だけ、彼女と彼女は会った。


 1か月後、彼女の墓ができた。 


 1年後、僕は彼女と別れていた。


 もう1度、僕は彼女と会うことになる。




6月30日(9人目の恋人)



 毎日朝から晩まで外回りの営業をするのは、想像していたよりも疲れることだった。

「人と話すことが大好きで、リーダーシップもあり、数字を分析するのが得意です」

 と言っただけで、簡単に営業の仕事に就くことができた。実際のところ、営業の仕事は僕に合っていたと思うし、仕事に慣れてくるとルーチンワークのように商談ができるようになってくる。商談相手や取扱商品は毎度変わるし、もちろん一筋縄では行かない場合もあるが、それも含めて、習慣のように”売り方”は刷り込まれていった。


 ただ一方で、暑い日も寒い日も、スーツ姿で運転と商談とアフターフォローを順不同で繰り返し続けるのはとても疲れることだった。業種や職種には不満は無いが、長時間の労働は単純に人を疲弊させる。疲労はストレスと共に蓄積し、体内の至る所に充満し続ける。


 僕はガス抜きとして、一人で遊園地を訪れるのが習慣だった。

 特にどこの遊園地に行くなんて、事前に計画は立てない。その時に行きたい遊園地があれば、そこへ行った。大きくて有名な遊園地もあったし、お化け屋敷がとんでもなく怖くて、それだけのために行くような遊園地もある。オーソドックスな古き良き遊園地にも行った。全て一人で。それが僕なりのガス抜きの方法だった。



 地元にほど近い距離にあるため、いつでも行けるだろうと鷹をくくっていた遊園地に向かうと、小さな街の遊園地だけあってずいぶんに寂れている。

 がらがらの駐車場から遠目に様子を見る。チケットカウンターの周りに人気は無い。これはこれで好都合だなと思い、僕は歩を進めた。


 チケットカウンターには、僕の前に訪れた客なんていないはずなのに、きっちりと受付嬢が座っている。遊園地のオリジナルキャラクターのワッペンが胸についた白いポロシャツを着ている。それがここのスタッフ用のユニフォームらしい。この遊園地のオリジナルキャラクターは、おでこの広いふざけた顔のサルだった。そのサルのふざけた顔とは対照的に、彼女は無表情で座っていた。

 僕の顔を見るなり、受付嬢が「あなたはかっこいいので、タダで入っていいよ」と言う。これも好都合だなと思ったので、僕は料金を支払わず彼女からチケットを受け取った。

 疲れていたし、早いところ遊園地に入ってしまったから、彼女が僕に無料での入場を許した理由を含め、多くの事は考えないことにした。


 彼女はチケットを渡すなり、チケットカウンターの小部屋の奥にあるカーテンの向こう側に消えていった。僕の次に来る客の事など全く想定していないような、自然な動きで席をたったため違和感を覚えなかった。

 僕はチケットを手にしていたものの、入場ゲートにはスタッフが立っていない。チケットの半券をもぎられることなく、そのまま無人の入場ゲートを進んだ。



 相応の数のアトラクションはあるが、歓声や叫び声は聞こえない。僕以外の客はゼロなのかもしれない。アトラクションが稼働する電動音や、ジェットコースターが滑走する音だけは遠くから聞こえていた。その音から察するに、遊園地自体は休園日ではない。

 歓声のないアトラクションの音を聞いているだけでは、特に興味をそそられなかったので、僕はこの遊園地をぐるっと歩くことにした。


 ひとしきり歩いて、遊園地の中央広場らしき所にたどり着いた。そこには、チケットカウンターの奥に消えた彼女が立っていた。それも、サルのポロシャツではなく、私服姿の彼女だった。

 先ほどまで括っていた髪を下ろし、女の子らしい少し袖のひらひらとした薄いブルーのシャツを着ていた。長めのスカートは風になびいており、僕を手招きしているように見えた。

 人気のない遊園地の真ん中で、ただ立っている彼女に興味がわいたので、僕は彼女の方へ歩いて行った。


 カウンターのガラス越しでなく、直接間近で彼女を見ると、整った顔立ちをしていた。やや主張のあるおでこと頬が、彼女のチャームポイントだとすぐに分かった。立ち姿はとてもスタイルが良く、人間の手で描かれた絵画というよりは、機械が削り出した部品のように計算された美しい曲線を感じた。

「一緒に遊びましょう。あなたは私のタイプだから」

 誰もいないところで女の子に誘われると、断れないものである。

 僕は彼女とデートをすることにした。


 他にスタッフの姿は目に付かなかったし、彼女一人がこの遊園地を回しているのではないかと思えた。だから僕は、周りの目を気にする必要性も感じなかった。そして、女性の誘いを二つ返事で受けるような男の僕は、私服姿に着替えた彼女とデートをワクワクするものだと捉えていた。


 コーヒーカップ、ゴーカート、小さなジェットコースター、メリーゴーランド、お決まりのアトラクションを巡った。

 それぞれのアトラクションに二人で乗るたびに、彼女は手にした携帯のカメラで写真を撮った。

 しかも被写体として、僕の身体の一部を映り込ませるようにして写真を撮った。コーヒーカップの中央部分を回す手だったり、メリーゴーランドにまたがる足だったり、次のアトラクションに移動する際は歩く二人の陰だったり。なぜか僕の全貌と顔が映らないように、彼女は器用に撮影した。


 写真を撮った後は、ひとしきり携帯を触り、どこかへ写真を送信しているか、投稿しているようだった。


 その間も彼女は無表情を貫いた。楽しいのか、怖いのか、何を考えているのか分からない。実彼女なりの表情の変化があって、僕にはそれが読み取れていないだけかもしれなかった。ただ、僕の選ぶアトラクションには文句も言わずついて来るので、終盤は気にも留めず、そのままにしておいた。

 ひとしきりアトラクションを回り終えた後は、お土産ショップに向かう。

 陳列棚には、サルのオリジナルキャラクターのキーホルダーやぬいぐるみが並んでいた。客が僕しかいないのに、何も買わないのも憚られる。ふざけたサルの顔がノック部分に乗っているボールペンが目に付いたので、手に取ってレジへ向かった。


 なんとレジには男性のスタッフがいた。彼女がチケットカウンターで着ていたのとは違う色のスタッフ用のユニフォームを着ている。黒いポロシャツだ。服の色の違いに、偉い人の雰囲気を感じた。ただ、この男性スタッフにも表情を感じない。二人の人間の表情が読めない事実にたじろいでしまい、僕はボールペンをレジカウンターの上に置き、用件だけ告げた。

「これ、買います」

 黒いポロシャツの男は表情を崩さずに、口だけを動かした。

「俺は知っていたぞ。お前は俺に黙って、料金を払わずこの遊園地で遊んだだろう?」

「いや、それは彼女が……」

「俺はこの遊園地の経営者だ。お前は出入禁止だ。二度とこの遊園地に来るな」

 営業の仕事をしている僕が一番恐れる言葉だった。

 人生初の出禁を言い渡された。


 不安な気持ちで横を見ると、先ほどまで一緒にいたはずの彼女が消えている。僕はレジに置いたボールペンをどうすることも出来ず、その場を去るしかなかった。僕は何も手に持たず、何も言えず、がらんとした駐車場へ向かった。


 帰り際、チケットカウンターの方を遠目に確認すると、スタッフ用のユニフォームに身を包んだ彼女が、無表情で座っていた。

 黒いシャツの男が経営するこの遊園地に、僕は二度と入れない。




6月20日(10人目の恋人)



「私達、最近セックスしなくなったね」

 僕は彼女と別れることになった。半同棲の生活を終える荷物を車に乗せた彼女は、目に涙をたくさん溜めていた。彼女は運転席に乗り込み、お互いに触れることは無く、窓だけを開けて、僕に声を掛ける。

「あなたは最低な人だけれど、この1年はとても楽しかった。ありがとう。私は一人で生きるために、きちんと資格を取るよ。さよなら」

「僕が最低な人だということはずっと分かってる。だから、これでいいんでしょう。何も間違っていない。とにかく、最低な人に時間を使ってくれてありがとう。それじゃ、さよなら」

 彼女の目は、表面上は最低な人を見る目には見えなかった。しかし、瞳に溜めた涙のカーテンの奥には、最低な男を映す黒い瞳孔が、彼女の前身のパーツで一番深い黒色を持っているのを僕は知っている。

「もし、私の作るご飯が食べたくなったら呼んでもいいよ。味噌汁ぐらいは作るから。またね」

 そう言って、彼女はパワーウインドウを閉め、ブレーキから足を離した。ゆっくりと、クリープ現象で前進を始めた車は、彼女の踏むアクセルで加速していった。


 僕は交際相手と別れる瞬間に慣れていた。

 車の姿が見えなくなっても、彼女が次の瞬間に消えることはないと知っていた。僕は自分の部屋に戻り、一つだけになった歯ブラシを使ってから、一人用のベッドで眠った。



 そして。

 結論から言う。

 半年後、僕は彼女を呼んでしまった。

 40度の高熱を出して、死ぬかと思ったからだ。

 お察しの通り、僕は短絡的な人間だ。自分に都合の良い言葉を真に受けるのは、昔から得意だった。


 僕が彼女を呼んだ3か月後から、元々は半同棲生活だった関係が、同棲生活に変わった。彼女は目的の資格を取り、僕の住む街に就職した。


 同棲生活では、彼女とオセロをした。

 小学生ぐらいから誰でも楽しめるアレだ。僕は元々、盤上のゲームが好きだったし、将棋やチェスのように駒の動かし方を知らない彼女とも気軽に楽しめる。

 僕はチョコレート菓子の『ダース』でもホワイトチョコの白い箱を選ぶし、『エリーゼ』もホワイトチョコの白い包装の方を選ぶ。したがって、オセロでも毎度、白を選ぶようにしている。


 本気を出した僕はとても強いのだけれど、序盤は様子を見る。

「ほらあ。めっちゃひっくり返せるじゃん。黒ばっかり」

 彼女は得意げに、複数枚のオセロを黒にひっくり返しながら言った。序盤でどうなろうと、キーとなる位置にこちらが置けるかどうかなので、僕は焦らない。

「そうだね。でもまだ大丈夫だ。僕はコツを知ってるから」

「そうやって何か企むのやめてくれない? 何かやるなら、私に黙って分からないようにして欲しいわね。私は純粋にオセロを楽しみたいだけなんだから」

 焦ってはいないが、適度に自分の駒の白も盤上に作っておく。後々、こちらが有利となる場所に自然に配置させるためだ。そして、相手方には自分の意思で置ける位置を増やしておく。

「はい。じゃあ、次はここでいいわ」

 彼女は出し抜けに、枚数の少ない選択肢を選んだ。予想していない行動が、ちょっとめんどうくさかったが、何度も続きはしないだろう。

「じゃあ、僕はここだ。ほら、一気に白が増えた」

「えー。そんなにたくさん。ずるい」

「何もずるくない。ルールに従っているだけだ」

 ルールに従いながら、相手に分からないように作戦を遂行するのは悪いことではない。僕はあえて、白を増やして彼女の選択肢を広げたのだ。

「はい。じゃあ、私はここ。」

 まただ。また変なところに置きやがった。そんなことをされると僕の作戦が破綻していく。


「はい」パチンパチン。

「はい。じゃあ私はここ」パチン。

 おい。またかよ。変なところに置くな。いや、むしろそこは僕が置きたかった場所なんだけど。


「はい」パチンパチン。

「はい。じゃあ私はここ」パチンパチンパチンパチン。

 いや。なんでだよ。そう来たらこう来るだろ。僕の予想していない行動で一人歩きするな。


「はい」パチンパチンパチン。

「はい。じゃあ私はここね」パチンパチンパチンパチンパチンパチン

 待て。待て待て。違うだろ。これはむしろ、僕の方の選択肢がどんどん無くなって来ているだけではないか。


「はい」パチン。

「はい。じゃあ私はここにするわ」パチンパチンパチンパチン。

 ああ。だめだ。これはいけない。予想外の行動のために思考停止していたツケが一気に回ってきている。


「はい」パチンパチン。

「はい。私はこれでいいわ」パチンパチンパチン。

 そうですね。そういうことですよね。もう何も考えません。


「はい」パチン。

「はい。私はここに置きます」パチンパチンパチンパチンパチンパチン。

 終わりました。僕の負けです。


 気づくと、盤上は彼女の黒い駒で埋め尽くされていた。

 そして、彼女は言った。

「いつ頃入籍する?」

 僕に与えられた選択肢は時期だけで、入籍の可否について返事をする権利が無い気がした。ルールに従って、僕は返事をした。

「ああ。3月ぐらいでいいんじゃないかな」


 僕たちは同じ部屋で2年間を暮らした。元々僕一人が住んでいた部屋だったが、クローゼットと押し入れの8割を彼女が使い、僕の荷物は扉一つ分のクローゼットに収まっていた。


 オセロの駒は、黒の裏側は白だ。

 僕は駒の白い部分を、全部引き剥がしておいてやった。

 もう彼女とオセロをする必要はない。




白い部屋、乾杯の音


 何もない。白い床と白い天井。いくら遠くを見渡しても壁は見当たらない。空間に大勢の人が集められている。五百人? 一万人? もしかすると数百万人かもしれない。ざっと見ても計数できない程の人だ。僕の視力が及ぶ限りの遠くを見渡しても人の頭しか見えない。ひと、人、ヒト。老若男女、多様な人々。一つだけ共通点を見つけるとするのなら、皆が成人を迎えている年齢であろうことぐらいだ。妻もこの人の海の中にいるのだろうか? それすら確認のしようがない程の人の数だった(僕は妻を探そうともしていなかった)。

 空間に飛ばされる前の僕は、仕事を終え妻と二人で夕食の席についていた。僕の家には冷蔵庫にアルコール類をキープしておく習慣がない。ただ偶然に、言いようのない理由により、帰りがけのコンビニで僕は缶ビールを買った。毎日、自分なりに、まっとうに働いていると、そういう日が年に数回はあるのだ。

 結婚生活は5年が経過し、会話も性交渉もなくなった妻と乾杯する。僕と妻の手腕は乾杯の動作をしているが、空虚な音だけが響く。もはや単なる社会的儀式に過ぎない。僕にとってその音はもう心地よく感じられないのだ。

――「コツン」。

 そして、僕の意識は消失した。


 意識が戻った時、僕は白い空間に立っていた。何もない、白い床と白い天井、無数の人々。あまりに唐突な出来ごとで、僕には状況を受け入れる以外の選択肢がなかった。久々のビールをあじわう間もなく、とにかく僕は白い空間に立たされていたのだ。


【『赤いりんご』を描いてください。】

 唐突に、白い天井に一つの”お題”が表示された。黒く無機質な文字で、何かの重要な試験問題のように。無数の人々が今すぐ解かなければならない問いとして、整然と表示された。

 僕の片手には、いつの間にかスケッチブックが携えられている。もう一方の手には色鉛筆が与えられていた。僕は当然のことのように、頭に思いつく『赤いりんご』をスケッチブックの最初の1ページに描き始めた。

 他の人々も同様に、スケッチブックを携え、思い思いの『赤いりんご』を描き進めていった。『瑞々しさのある採れたての赤いりんご』を描く人。『デフォルメされた可愛くて赤いりんご』を描く人。『適当な円とヘタを描いただけの赤いりんご』を描く人。

 自分の絵を描き上げた僕は、周りの様子を見ようと、顔を上げた。

 人が減っている。明らかに減っている。空間にいる人の数が減っている。先ほどまで僕の左隣にいたタクシー運転手風の男や、目の前にいた露出の多い服の女性(僕がここに着いたときに自然に目に入ったからよく覚えている)。僕が目にしていたはずの人がそこにはいない。空間から、人が消えている。

 更に周りの様子を観察してみる。絵を描き上げると同時に、「ふっ」と小さな音を立てて、人が消えていく様子が確認できた。あるいは、消えたのではなく別の空間に飛ばされたのかもしれないが。

 もちろん、消えずに残っている人も大勢おり、僕は少しだけほっとした。ひとしきり経って、絵を描いている皆の状況が静まり、人が消える現象も止まった。残る人が残り、消える人が消えていった。場が落ち着きを取り戻した。

 僕たちはこの空間で、絵を描かなければならない。描いた絵によってはそっくりそのまま消えてしまう。それが事実だった。


【『かわいい猫』を描いてください。】

 次のお題が表示された。幸い僕は猫が好きだったので、すぐに絵に取り掛かった。描き終わった僕は再び顔を上げる。

 また人が消え、減っていく。最初にいた人の数の半分、いや、もっと減っているかもしれない。空間の人口密度が落ちていっているのは明らかだった。何かの実験なのか、試練なのか。僕が選別されている状況にあるのは間違いなさそうだ。


【『きれいな音のする風鈴』を描いてください。】

 また、次のお題が表示された。音を絵にすることが抽象的過ぎて僕は混乱したが、なんとか自分の思う『きれいな音のする風鈴』の絵を描き上げた。

 また減る。人が減る。最初と比べて圧倒的に人が少なくなっている状況に、僕は恐怖を覚える。何かを間違ったら僕も消えてしまうのかもしれない。予測不能な状況は人を不安にさせる。

 いたたまれなくなった僕は、消えずにいた近くの女性に声をかけた。本当にただ近くにいた、僕の妻ではない女性に。

「なんですかね? これ」

「わかりません。でも、とにかくやるしかないんでしょうね。たぶん」

 そう言って彼女は白い天井を見上げ直した。

 女性は僕と近い年齢であるようだった。服装からは何を職業としている人なのか分からない。左手の薬指には、結婚指輪の跡だけが残っている。職業柄、指輪を外しているのかもしれない。ショートカットにしている僕の妻と違い、長い髪を後ろで束ねていた。また顔のつくりは端正で、僕はその女性に対して「美しいな」と思った。ただ、彼女の表情にはどこか疲れのようなものが見て取れた。

 異常ともいえる空間で、人と会話できた事実に僕は単純にほっとするばかりだった。


【『良い匂いのする花』を描いてください。】

 今度は匂いか。しかも品種を限定していない花ときた。先ほどより難しい気がする。僕は頭を悩ませが、何かの使命感に追われながら自分の思う絵を描き進めた。

 僕より先に『良い匂いのする花』の絵を描き終えた隣の女性は、周りを見渡しながら呟いた。

「また消えてる」

 僕も自分の絵を描き終え、周りを見渡した。彼女の言った通り、先ほどより更に人の数が減っている。訳が分からない状況に愕然としながら、ふと、隣に立つ女性に目をやる。スケッチブックから覗いて見えた女性の絵は、今描き上げた僕の絵にどこか似ている。


【『懐かしい風景』を描いてください。】

 いい加減にして欲しい。抽象的すぎて何も浮かんでこない。

 しかし、描かなければ自分も消えてしまう気がした。隣では先ほどの女性が、僕と同じように困った顔をしている。幾分かあって、彼女は色鉛筆を手に握りしめ、彼女の意思で描き始めた。

 彼女がどんな絵を描くのか気になったが、僕も僕の絵を描かなければならない。白い天井ばかりの宙を見上げながら、僕の中の原風景をなんとかひねり出す。僕も自分の絵を描きすすめる。

「あれ? あなたもそういう感じなの?」

 彼女が自分の描いた絵を見せてきた。

 僕はただただ驚くしかなかった。彼女と僕のスケッチブックには、そっくり同じ構図の『懐かしい風景』の絵が描かれていたのだ。僕も彼女に絵を掲げ、僕と彼女は苦笑いを返し合った。

 彼女の背後には、相変わらず消え続ける人の様子が確認できた。


【『おいしい晩御飯』を描いてください。】

 表示されてすぐ、彼女が話しかけてきた。

「私、結婚して仕事もしてるんだけど、晩御飯を作るのは私の役目なのね。正直、ちょっと面倒くさいと思ってるんだよね。さっきだって、(今日はお酒を飲みながら作っちゃえ)って、缶ビールの口を開けたところだったのになあ」

「僕もちょうど、ビールで乾杯しようとした瞬間だった。そんで、晩御飯を食べようと思ってたんだ」

「あはは。同じだね。今は目の前にしてた晩御飯じゃなくて、『おいしい晩御飯』を描かなきゃね。んー、でもこれ以上は描き終えるまでの秘密かな」

 言い終えると、彼女は自分の絵に取り掛かった。僕たちは僕たちの絵を描かなければならない。カンニングや”ずる”は許されない。言い得ぬ使命感と恐怖、それと同時に、なぜか小さな楽しさも感じる。僕も僕なりの『おいしい晩御飯』の絵を描いた。

 僕と彼女は、描き上げた『おいしい晩御飯』の絵を見せ合った。二つの絵は、やはりよく似ている。そして、もちろん彼女は僕の前から消えていかなかった。

「あはは。やっぱり同じの描いてる」

 絵を見せ合った二人は思わず声を出して笑っていた。そんな二人をよそに、遠くではまだ人が消え続けていた。(そのときの僕は、妻が同じ空間にいるかもしれないという想像をすることすら忘れていた。)


【『素敵な食卓』を描いてください。】

【『美しい空』を描いてください。】

【『宇宙』を描いてください。】

・・・・・・


 僕と彼女は数々のお題に対する絵を描いた。合間合間に当たり障りない程度の個人的な会話をした。何かの確認のように。しかし、絵を描き終える度に周りの人の数は減る。最初を思えば、恐ろしく人数が減っている。遠くの人たちの存在が、確認できない程にまばらだ。むしろ、まばら以下の数かもしれない。だが、恐怖の感情は不思議と薄らいでいっていた。

 お題が与えられるたびに、僕は横にいる彼女と答え合わせをし「ほらね」と絵を見せ合った。どれも一様に似ている絵を二人は描き続けた。”ずる”をすることなく。

 だから、彼女も僕の前から消えなかったし、僕が消えてどこかに飛ばされもることもなかった。いつの間にか次のお題が表示されることが楽しみにさえ感じていた。ふと、純粋な疑問と数的な想像にかられ、僕は言った。

「僕らは今の時点で何個の絵を描いたんだろう。その度になんらかの選択がなされて人が消えている。そしたら、僕ら二人がこうして残っていることは、すごい確率だよ。三分の一でも、一万分の一でもない。もっと宇宙的で、びっくりするぐらいの確率だ。日常生活では簡単に目にすることができないくらいの、天文学的な確率だ」

「天文学的って、実際にどのくらいの数字か私は知らないけど。素敵なことだってのは私も分かるよ。だって、今の私は楽しいもん。最初は人がどんどん消えてって、怖いな、って思ってたけど、今は楽しい。たぶん、この後もあなたは消えないって、私にはなんとなく分かる気がする」


 合間で交わした会話で、彼女は夫と共働きの兼業主婦をしており、なし崩し的に家事のほとんどを自分がやっていると言っていた。僕はちょっと掃除と洗濯が好きなだけの、しがないサラリーマンだ。二人が残されている理由は何なのだろう。天文学的な確率が成立する僕たち二人は、特徴のある人間とは到底思えない。

「ねえ。次も同じのが描けたら、私達ってもっと天文学的になれる?」

「どうだろう。正直もうかなり天文学的確率だからね。次があろうがなかろうが」

 言えて妙であるが、更に天文学的な確率が成り立つ確信があった。人など、ほぼいなくなったこの空間で。


【『おいしいビール』を描いてください。】

 僕と彼女はすらすらと「おいしいビール」の絵を描き始める。何も言葉を交わすことなく、無言のままに描き進めた。お互いにどんな絵を描くのかは描いている途中で、いや、描き始める前から分かっていた。もはや二人にとっては簡単で当然の事実でしかなかった。

 よく冷やされたジョッキは白く曇り始めている。ジョッキに注がれる僕と彼女の思う美しい色のビールを描く。きめ細やかな白い泡。ビールが注がれた部分のジョッキの外側には、ほどよく水滴がついている。時間が経過すると、水滴は隣り合った水滴と合わさり、それぞれに大きさを変えていく。

 絵を同時に描き終えた僕と彼女は、笑いを奥に含ませた顔を見合わせる。そして、お互いの描いた絵を見せ合う。お互いに見えるように、目の前で2つのスケッチブックを並べて掲げる。

 二人は声を合わせる。

「乾杯」

『おいしいビール』の描かれた二つのスケッチブックの肩を二人で重ね合わせた。スケッチブックの端がぶつかり、擦れ合い、初めて聞く音を立てた。小さな音の反動で転げ回ってしまうくらいに二人は笑い合った。

 ひとしきり笑い合ったあと周りを見渡す。空間には、確認できる限り僕たち二人しか残されていなかった。二人のスケッチブックに描かれたすべての絵は一つ一つが本当にそっくりだった。スケッチブックを二人で見ながら、僕は意識を失った。


 ──「コツン」。

 聞き慣れた音。見慣れた風景。僕の妻が目の前にいる。

 さっきまでの空間が、現実か幻想かは分からない。しかし、僕は先ほどの音をよく覚えている。天文学的な乾杯の音。スケッチブックの肩が触れ合うだけの、ただ紙の擦れる音だが、僕は美しい音だと感じた。だから僕は再び聞いてみたいと思う。この先の人生で、また同じようなことが起こった時、僕と一緒に最後まで残っているのは、妻か彼女か、あるいは他の誰かか、僕には予想もつかないが。その時は天文学的に笑って、また乾杯をしよう。

 僕は手元にあるビールジョッキをもう一度持ち上げる。




取り戻してゆく女たち


 血の繋がっている親族の死を、実の父が死んで以来に経験する。しかし、二十年前の記憶は遠い。

 覚えているのは、火葬のためのボタンを押す際に

「私がこの血を繋がなければならない。既に母も死んでいるのだ。だから、私が、がんばらなければならない。私が――」

 と決意したことだけだった。一人娘ならではの感覚だったのかもしれないが、私の意志は固く、父の葬儀から数年の間、私は一滴も涙を流さなかった。


 帝王切開で息子を産んで、やっと泣いた。

 そして、息子が結婚するまでの二十数年を見届けて、もう一度泣いた。

 それからの数年はどこか安堵の心を持って暮らしたが、息子の死は突然で、数年がほんのわずかな時間に感じた。あるいは、私が年を取り過ぎただけなのかもしれない。

「母さん、これ返すよ」と入院前の息子が、私に小さな木箱を渡してきた。忘れもしない、息子の臍の緒の入った木箱だった。死期を悟ったかのように渡された木箱は、私の記憶にあるよりもずいぶんと軽く感じられた。

 息子が誕生日を迎えるはずだった直前の雪の日、葬儀の最中に私は涙を流さなかった。

 考えていたのは「私が長い時間を掛けて、がんばって繋いだはずの血が途切れてしまう」ということだけで、参列者から向けられるお悔やみの言葉に対して、気の利いた言葉を返す余裕はなかった。

 そして、血族の死は私自身の死を強く連想させた。息子の死に顔を見ていると、自身が棺の中に入っているかのように錯覚してしまい、直視するのに耐えなかった。


 唯一、私ができたことと言えば、未亡人となった義理の娘――いや、もう“彼女”と呼ぼう――彼女に対して、お詫びの言葉を述べることだけだった。

「色々とごめんね。あなたには迷惑をかけたと思うの」

「いえ、大丈夫です。彼は変なところで用意周到でしたから。自分の部屋を片付けることはしなかったのに、葬儀の段取りは何もかも終わっています。私は喪主として立ちますが、彼は彼なりに棺の中で葬儀に参列するつもりらしいので。誰の葬儀なのかと言われれば、彼の葬儀なんですけど、まるで彼自身が喪主みたいで──」

「葬儀は確かにそうかもしれないけど、手続きとか、大変だったら相談してね」

「はい。それもおかしな話なんですけど大丈夫です。彼は自分が亡くなった後の手順ですら、私のために残しておいてくれたので。私、苦手だったんですよ、書類とか手続きとか。一緒に暮らし始めてからは任せっきりだったので。正直、ほっとしている部分があるんです。ちょっと変かもしれないし、失礼かもしれませんが。これが正直な気持ちです」

「確かに、変な話と言えば変な話ね」

「ええ」


 息子が私に任せたのは、実家の遺品整理だけだった。

 部屋は寮生活を始めた高校生の頃からずっとそのままにしてあり、息子は引っ越しを繰り返す度に、いくつかの段ボール箱を追加していった。おかげで、足の踏み場は部屋の半分も無くなっていた。



 葬儀から数日後、部屋の整理をしていると、一人の女性が訪ねてきた。

「この度はとても悲しいことで。あの、私、彼と、その──」

「知っているのね、息子のことを」

「はい。特別に仲がよかったわけじゃないんですけど、一度だけ、一緒にビールを――いえ、乾杯をしたことがあって」

 息子はアルコールを常日頃から飲む人間ではない。そんな息子が酒を酌み交わした女性であれば、無為に扱うべきではないだろう。

「上がっていく?」

「はい。あの、失礼を承知でお願いしたいことがあるんですけど――彼の使っていたビールジョッキとか、ありますか? あの、遺品をいただくなんて、とても失礼なことだとは思うんですが、私には必要なことなんです」

 悔やみの言葉を伝えた先の目的がはっきりしているとは驚きだった。しかし、そもそも息子はビールジョッキなんて持っているのだろうか、という疑問が先立つ。

「あなたの思うモノがあればいいのだけれど、よかったら一緒に探してみる?」

「はい。よろしくお願いします」

「どうぞ。あがって」


 階段を上がると、南向きの窓から太陽光が鋭角に差し込んでいた。しかし、フローリングはスリッパ越しでも冷たいことが分かる。

「段ボール、多いでしょう?」

「確かに、多いですね。でも、あの、たぶん私これも分かってて来たので」

「どれから開ける? あなたと息子が会っていた時期が分かれば、段ボールの種類と位置からあらかた予想は付くと思うの」

 彼女は、高いところでは三段に積まれている段ボールの山をぐるりと見回し、古くなった折りたたみベッドの下までも視線を移動させている。まるで息子がどこに何を置いていたか、見るだけで透かして分かっているかのようだった。

「あの、今さらなんですけど、階段を上がってすぐの踊り場に冷蔵庫がありましたよね?」

「あれはね、数年前に息子が冷蔵庫を買い換えたときに〈まだ耐用年数までいってないから〉とか言って持って帰ってきてたの」

「あの――あの冷蔵庫の中です。ごめんなさい。部屋までお連れいただいたのに。私、気づいてたんですけど言い出せなくて。でも、この部屋の段ボールの中には彼のビールジョッキはないんです」

「謝らなくて大丈夫よ」

 口ではそう言ったが、内心(すぐに謝るところが息子に似ているな)と思った。それだけではない、彼女からは息子と同じような匂いというか性分を感じるのだ。

 ただ、初対面の彼女に掛ける言葉として適切ではない気がした。故人となった息子に似ていると言われて喜ぶ女性などいないだろう。私だって、おそらく半分ほどしか似ていないのだから。

 あるいは、彼女には〈似ている〉と言わせない意思のようなものを感じたのかもしれない。言葉の運びには辿々しい部分があったが、この家に来て一度たりとも、彼女の瞳は私を哀れみの表情で見なかったのだから。


「その、お部屋にお連れいただけたことは私にとってよかったことです。私は彼のことを確認しておく必要があったので。あの、ありがとうございました。お元気で」

 と私に告げた彼女は、ビールジョッキを助手席に寝かせてから車を発進させて帰路についた。冷蔵庫に電源が入っていなかったため、ビールジョッキは冷やされていなかった。

 彼女がどこで暮らしているのか、これから先の人生を過ごすのか知らない私には、ビールジョッキが再度冷やされるかどうかを知ることができない。


 名も知らぬ女性の来訪によって、私は段ボールの山を片付けるのに、どこから手を付ければよいか分からなくなった。いや、数日の間で私がやったのは、段ボールの場所を置き換えるばかりで、息子が捨てるべきと考えていたモノの判断がつかなかっただけだろう。

 また、慶弔休暇の最終日に訪ねてきた彼女が「お義母さん、私にはこれが必要なんです」と、駒の壊れているオセロを持ち帰ったことで、遺品整理を進めるべきかどうか、私を更に悩ませることとなった。

 正直なところ、私が息子の所有物――元所有物に対して、依存しているのも事実だった。年をとればとるほど、自分の意思の依存先がどこにあるかは都度都度に分かるようになる。

 しかし、結局人間が迷っているのは、依存を自覚するかどうかではなく、依存先に対する自身の行動の向きなのだろうと思う。

「あなたはもうここには来なくて大丈夫よ。未亡人がどうとかじゃなくて、あなたにはあなたの人生がまだまだあるのだから」と私は彼女に伝え、以来、彼女はこの家に現れることはなくなった。 



 見知らぬ女性の来訪を始まりとしたかのように、三年の月日をかけて、更に別の女性たちが息子の部屋を訪ねてきた。

 女性たちは一様に、息子の遺品からひとつだけモノを持ち帰ることを求めた。

 ある女性は遊園地チケットの半券、ある女性は乾き尽くして今にも形が崩れそうな蛇の抜け殻、また別の女性は日焼けしきって黄ばんでしまったペンギンのぬいぐるみを持って帰った。  

「彼はブラジャーを持っていたはずなんですけど」と言い出した女性には面食らったが、積まれた段ボールの中には、形の崩れきったブラジャーが確かにあった。

 表紙の色褪せたCD――使いかけの消しゴム――バランスをどう維持しているのかさえ分からないプラモデルのジャングルジム――端のすり切れたネクタイ――黒ずんだ血液跡の残るハンカチ――


 息子が交際した女性の人数と大体の期間は把握していると思っていたが、記憶とは人数的にズレがあった。確かに、数年単位で実家に帰ってこない期間もあったし、不思議ではない。

 ただ、私には気になっていることが別にある。

 彼女たちが去ったあと、息子の部屋のカレンダーに変化があったのだ。特定の日付に○印が付いている。最初にカレンダーの印に気づいた時は息子の生前のメモだと思って見過ごしていたが、二度、三度と様子が変われば気づくものだ。

「気味が悪い」というのが初めの印象ではあったが、相談する近親者もおらず、堪え切れなくなった私は訪問してきた女性に確認をとった。

「私の誕生日? 聞いてどうするんですか?」

「深い意味はないのよ。息子はね、女性の誕生日を覚えるのが得意だったから。なんとなく、私の個人的な確認だと思って、教えてくれると嬉しいのだけれど」

「それは、まあ、構わないですけど――」 

 翌朝、メモと照らし合わせて息子の部屋のカレンダーを確認すると、確かに印が付いていた。しかし、もう一つ不思議なことがあった。来訪する女性の人数と、付された○印の数が明らかに一致しないのだ。

 来訪する女性が交際した女性の全てではなく、更に息子に関わった全ての女性の誕生日に〇印が付いていくのかと考えてみたが、どうにも数が多すぎる。他の線を考えて、次に来訪した女性には別の確認も加えた。

「彼と付き合い始めた日ですか? しばらく前のことですから、正確ではないかもしれませんけど、いいですか?」

「ええ。大丈夫よ。できれば、他にもあなたとウチの息子が祝っていたような日があれば、教えて欲しいの」

 私の予想は正しかった。

 どの女性についても同様の法則が成り立ち、カレンダーは○印で埋め尽くされてゆく。


 しかし、最後にもう一つ疑問が残る――いや、疑問というか、当然ような気はしていのだけれど。

 10月17日、この日だけはどうしても埋まらなかった。彼女だけは3年経っても、4年経っても現れない。交際期間が長かった彼女のことは私もよく知っており、誕生日もはっきりと覚えていたから間違いない。

 彼女を待ち、年数が経つに連れて、息子の部屋の片付けは進んだ。依存からの解放には時間がかかったが、壁にかかったカレンダーと、段ボール一つ分を除いた部屋のフローリングは全て更地とすることができた。 

 しかし、もう彼女は来ないかもしれない。私も老いた。

 残された時間が分からない。それこそ、私は私の身辺を用意周到に片付けておかなければならない時期に来ていることも自覚している。

 彼女と息子が別れて以来、息子はぱったりと彼女の話をしなくなったので、その後の動静も全く知らない。あてはない。


 年を越したら、息子に関する全てを処分しよう。私は決意した。血を繋ぐことができなくなった私の固い決意だ。

 思い立った私は息子から返された臍の緒が入った木箱を段ボールの底に落とした。木と木がぶつかる「コンッ」という音が私一人だけの部屋に響いた。私はひとり。本当に、私はたったひとりきりになったのだ。

「おかあさん! おかあさん!」

 私に娘はいない。

「ねえ、おかあさんってば!」

 階下に息を切らした彼女が立っていた。彼女を最後に見て何十年経っていようが、その分だけ老いていようが、私は考える間もなく判断することが出来た。

 居間に彼女を招き入れ、私は自ら本題に入った。彼女に渡す息子の遺品は分かっているのだ。

「これでしょう?」

「はい。ありがとうございます」

「持って帰るの?」

「はい。コビトさん――いえ、元コビトさんは役割を終えたので」

「そうね。確かにコビトに見えなくもないわね。この辺とか、なんだか顔みたい」

 彼女が突然来訪した理由を問う気力もなかった。私は息子の代わりに何かの役割を果たせたのだろうと、安堵の気持ちしかなかった。

「おかあさん。お願いがあります」

「お願い? もう渡すべきものは渡したでしょう? いえ、渡すというか返したの。息子は――私たちはあなたに返さなければならなかったから。役割を終えたモノを」

「それは感謝しています。でも、私はこれが無ければ生きていけないわけではありません。ただ、役割を終えたモノの確認の意味として、私は彼の所に顔を出すことがあったというだけですよ。私が思ったときに確認をしたんです。それが偶然に、彼の死以降に訪れただけのことなんですから。

 今はまた別の、私からのお願いがあるんです」

 もう私たちに対しての目的などないだろう。受け渡しは終わったのだ。

「おかあさん。猫を、猫を飼いませんか?」

「猫?」

「そうです。猫です。好きでしたよね? 彼もおかあさんも」

「猫は――好きよ」

「なら飼いましょう。いえ、一緒に暮らして下さい。猫と暮らして下さい」

 彼女によると拾い猫を飼い始めたら、去勢する前に子猫を産んだのだそうだ。彼女の子供に託す手もあったが、如何せん子猫を連れるには遠過ぎる場所に住んでいるらしい。また、彼女は夫と二人で暮らしているそうで(二匹くらいなら)と思っていたが、どうにも生まれた子猫の数が多すぎた、と。

「でもね。私は先が短いから」

「そうとは限りません。誰が決めたのですか?」

「時間だけの問題じゃないの。もう役割は終えたのよ。私と、私の息子は」

「私はおかあさんに役割を与えに来たんじゃないんです。猫と暮らしてください。ただ、ただそれだけです。もし何かあったら、連絡していただいても構いません。私が来ます。だから、おかあさんの許す限りの時間でいいので、どうか猫と暮らしてください」

 半ば強引な物言いではあったが、彼女の目は真剣そのものだった。猫のためでも、彼女自身ためでもない。

 その目を見ながら、私は息子が彼女に与えたものはなんだったのだろうかと考えてみた。まず、遺伝子ではない。物理的なものは消耗しいずれ消えてしまう。ならば記憶か――違う、彼女と一緒に記憶も消えてしまうのだから。

 では、息子は何を与えられ、何を与えたのか。

 いや、そもそも息子は何かを与えたのだろうか。私は息子に何を与えたのだろうか。消えてしまったモノ以外を息子に与えることができていたのだろうか――

「来月、連れてきますね」

「まだ返事はしていないんだけれど」

「じゃあ、〈私は猫と暮らさない〉って、拒否してください。きっぱりと」

「そうね。どうだろう。猫と暮らしたい気持ちはあるけれど、そうね」

「拒否してください」

 彼女の表情は変わらない。哀れみの表情ではない。真剣な表情を維持しているだけだ。しかし、彼女が子猫を託すのがなぜ私でなければならないのだろう。

 もし息子が同じ状況であったら、何と答えるだろう。明確な拒否の意思を示せるだろうか。私には分かる。息子は恐らくできない。「んん」とか「ああ」とか言いながら、翌月には子猫を連れて暮らすのだろう。あるいは子猫でなくとも、息子が拒否する対象は非常に少ないように思える。

 私に半分だけ似ている息子の意思。彼ができなかった拒否の意思の開示を私がするべきなのだろうか。

「おかあさん! 聞いてるんですか? 私にはおかあさんの返事が必要なんですよ」

 怒りの口調ではないが、明確な意思の表示が求められている。

 私が意思を明確にしなければならない。息子と私の二人の意思を――違う、私の意思を開示しなければならない。

「拒否は――しない。拒否しない。けれど、許可するわ。きちんと許可します。私は猫と暮らす。大丈夫よ。連れてきて」

「よかったあ」

 へなへなと崩れ落ちてしまうかのように彼女は表情を崩した。しかし、握りしめていた木片が床に落ちることはなかった。


 数日後、久方ぶりに晴れたので、空気を入れ替えようと、フローリング全てが見渡せるようになった息子の部屋の窓を開け放った。年末に吹き荒れていた12月の風の冷たさなんてなかったかのように、心地よい風が部屋に流れ込む。

 壁にかかっていたカレンダーが風で煽られる。1月から順に捲れ上がったカレンダーは13回ほど音を立てて、「猫を迎える準備をしなくちゃ」と私に知らせてくれた。







(完)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。