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【イベントレポ】早稲田でしあワセダ②

みなさんこんばんは。SOGI研メンバーの令です🍂

かなり間があいてしまいましたが、前回投稿した僕の早稲田出張見聞録、第2弾を書きたいと思います!

今回の早稲田の旅で、僕はあるトークセッションを見学させていただきました。12月6日に開催された、「監督と研究者で考えるこれからの映画とLGBTQ+」という企画です。

本イベントには映画「片袖の魚」を手掛けた金沢市出身の東海林毅監督、早稲田大学学術院准教授の岩川ありさ先生、そして金沢大学人間社会学域准教授であり、SOGI研教員メンバーの久保豊先生が登壇されていました。

今回のノートでは、僕がイベントを視聴して感じた早稲田大学の学生、金沢大学とは異なる会場の雰囲気や、先生方のお話を聞いての正直な感想を書いていこうと思います。

イベントの概要については早稲田大学GSセンターの記事に詳細が書かれているので、チェックしてみてください。

「WASEDA ALLY WEEKS」早稲田大学スチューデントダイバーシティーセンター GSセンター
https://www.waseda.jp/inst/gscenter/news/2022/09/29/6087/
「監督と研究者で考えるこれからの映画とLGBTQ+」金沢大学SDC GSセンター
https://www.waseda.jp/inst/gscenter/news/2022/09/29/6087/


早稲田大学の学生、会場の雰囲気

まず驚いたのが、会場の広さと、その広い会場のほとんどを埋め尽くす参加者の多さです。平日の19時スタートということで、そんなに人が集まるのだろうかと考えていましたが、本当にたくさんの学生が集まっていました(オンラインも含め300人ほどいたようです)。正直、金大では立地の問題や学生の意識の高さの問題で、現状考えにくいことだと思います。

そして、イベントがはじまってからも熱心にメモを取り、真剣に何かを得ようとしている参加者が多く、なんだか感動してしまいました。僕は大学でクィア映画に関する授業を履修していますが、授業として受けるのとはまた異なる雰囲気があります。この会場にいるみんながこの話を、この方たちの話を聞きたいと思って自主的に集まっている場というのは、すごく明るいエネルギーに満ち溢れていて、良いなと思ってしまいました。

あとはなんといってもGSセンターの学生メンバーの方が司会をされていて、すごく輝いていた!!ただただ台本を読んで進行するだけじゃなくて、自分の考えも織り交ぜながら話を膨らませていて、何より本人のクィア映画に対する熱を感じました。やっぱ本当に好きなものの話をしてる人たちは、見てる人も一緒に惹きこんでしまうくらいワクワクドキドキして見えて、素晴らしかった~。ぜひ金沢でも出来たらよいですね。


トークセッションの概要

まず全体としては、アライとして映画を「つくること」「みること」という、製作者と視聴者の両サイドからクィア映画について考える内容で、これはゲストに映画監督と映画研究者を迎える豪華な場で議論するのに素晴らしいトピックですよね。非常に面白かった!!

「つくること」に焦点を当てる時間では、トランスジェンダー役の当事者俳優起用に関する考え方、俳優自身のセクシュアリティについてどのように配慮すべきかなどのお話がありました。前者は映画「片袖の魚」で当事者キャスティングをされた東海林監督が、自作のスライドで当事者キャスティングの重要性について講義してくださいました。

「みること」に着目した時間では、クィア映画をみるにあたり、アライになにができるかについて議論されていました。SNSで感想シェアすること、拡散することでより多くの人に見てもらえるなどのご意見がありましたね。僕も少しずつですが、「この映画のここが良かった!」をインスタグラムやツイッターでつぶやくようにしています。


個人的な感想、考えたこと

ここからは僕がこのトークセッションを通して考えたことについて書きます。

まず、当事者キャスティングについて。

僕の考えとしては、当事者キャスティングについて「?」が残ってしまいました。僕自身のトランスジェンダーに対する考え方も影響していると思います。

僕が映画を撮るなら、トランスジェンダー役は男性でも、女性でも、ノンバイナリーでも、Xジェンダーでも、Aジェンダ―でも、誰でもやって良いと思います。前提として僕は人の性別を自分で判断しないことを心がけていて、性別の概念はなるべくもたないようにしています。だから僕はその役がこの性別だから同じ性別を起用するという考え方より、キャラクターの身長はこのくらいで、体の骨感、目鼻立ちのイメージはこんな感じ。すれ違えばこんな香りがしそうで、のどからはこんな声が出てほしい、っていう人間のイメージから配役したいんです。だから極論、女性を自認する人が男性の役をしても、その人のイメージがピッタリで、本人のやりたい意思が確認できればそれがベストだと思っています。そもそも僕の映画に「男性役」「女性役」は存在しませんが。

トランスジェンダーの方はトランスジェンダーの役しかできないのでしょうか……?もちろんトランスジェンダーであることを理由に雇用の機会を奪われてしまう現状は必ず解決しなくてはなりません。ナンセンスです。ですが、トランスジェンダーの方もジェンダーアイデンティティ以外に多くの魅力的な能力、個性を持っているわけで、本人がトランスジェンダー役だけしかしたくないという場合でなければ、性別に縛られる必要はないのではないかと考えます。

講義の中では、例えば男性俳優がトランスジェンダーを演じた場合、その男性俳優に対する視聴者の先入観があるので、ストーリーに入り込むことができない、トランスジェンダーの方が演じた方がすんなり話に入れる、というようなお話もありました。これで言うと、トランスジェンダーの方がシスジェンダー役を演じた時に違和感が出るということにならないでしょうか?僕は俳優の役に入る前のアイデンティティを役に入れ込んでどうこう言うのは本末転倒というか、ずるいと思います。俳優自身と役のキャラクターは全く別の人物なので、そこは全く気になりません。

このトピックに関してはまだまだ議論すべきだと思います。僕は映画撮影の専門的知識を持ち合わせていないので、実際にどんな配慮が必要なのか、役者さんが自身のセクシュアリティと役のセクシュアリティについてどのように考えているのか、わかっていないことが多いです。どんな状況で、どんなメッセージ性をもたせる映画にするのかによっても、考え方は変わってくるかもしれません。ぜひみなさんの考えを教えていただきたいです。


あとは、単純に様々な内容のクィア映画がもっとたくさん制作されて、より多くの人々に見られるようになれば良いですよね。

毎年いくつかのクィア映画が反響を得て話題になったり、ドラマが映画化されたりしていますよね。でもそんな中で聞こえたのが、「やっぱりあの俳優さんすごいね。演技がとてもリアルで、そんな人にしか見えなかった。」という声。僕はこの言葉をすんなり受け入れられませんでした。そんな人にしか見えなかったって、自分の中の勝手な当事者像に当てはめちゃってますよね。同性愛者はこんな話し方で、こんな身なりをする、という偏見を植え付けてしまうのは、クィア作品の本望ではありません。そもそもそんな見方をしてしまうのが悲しいことなのですが、、だから、様々なバックグラウンドを持ついろんなキャラクターのクィアが登場する映画が多くの人の目に映ればなと願っています。

それで、いつかは「ゲイ映画」とか「レズビアン映画」って呼ばれなくなればな、というのが僕の勝手な願いです。一人の人間と一人の人間の、恋愛だけではないもっと強い絆とか、青春時代の輝きとか何気ない日々の尊さとか、言葉にならない感情がワーッて出てくるものを、その一言でまとめられるのは僕としては悲しいです。それって異性愛も同性愛も変わらないものだと思うしさ、

あとあと、もっといろんなセクシュアリティ、ジェンダーアイデンティティをもつキャラクターの出てくる映画作品を、もっとみせてくださーい!アロマンティック、アセクシュアル、ノンバイナリー、Xジェンダーとか、、主人公じゃなくて全然良いし、そのセクシュアリティ自体をトピックにしなくて良いから、そのへんの日常にサラッと登場させてほしい!

映画の話をしていると、僕ならこんな話を撮りたいなーとか、こんなキャラクターがでてきてほしいなーとか、考えちゃいますよね。これを友達と話してみたりするのも、クィア映画の未来にとって大切なことなのかも。みる側でいながら、つくる側ならどうするかを考える。おお、なんかワクワクしてきたぞ。


長くなってしまいましたが、僕が春休みにクィア映画についてたくさん考えるきっかけをくれたこのイベントで、とても貴重な経験をさせていただきました。ありがとう早稲田!!僕は金沢でもめげずにほどほどに頑張るよ!

P.S. 2024年4月22日(月)の僕より

この記事を執筆してから1年以上が経過しました。いまの僕は、トランス役をトランス当事者が演じることに大きな大きな意味があることを理解しています。

これを書いた頃の僕はセーファースペースで自分の理想ばかり見ていて、現実の世界でどれだけトランス当事者たちが虐げられてきたか、存在を排除されてきたかを全く把握できていませんでした。

トランス役をトランス当事者が演じることを声を大にして説いてきてくださった人々に対して、自分の言葉はあまりにも未熟で無自覚で暴力的だったと反省しています。

「トランス役をトランス当事者に」という考えに疑問を投げるのではなく、そんな当然のことが当たり前に実現されていない現状を批判的に見つめるべきだったと反省しています。

「ゲイ映画」「レズビアン映画」という言葉に関しても、当事者たちが奪われていた言葉を取り戻すためにどれだけ辛い思いをしてきたか。それを知りもせずに「なくなればいい」と安易に発言してしまいました。無知だった自分自身に心底腹が立ちます。

恥ずかしい気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいですが、それでもこのnoteを書いたことに後悔はしていません。これからも本を読んで、人と話して、映画を観て、学び考え続けたいと思います。









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