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3.11渋谷で帰宅困難者になった僕が見た景色

3.11東日本大震災が起きたあの日、僕は渋谷のオフィスビルで勤務中だった。10年前の地震が起きたあの時、僕はどうしていたっけ。気になって自分が歩いた道を改めてGoogleマップで確認してみた。おそらく以下のルートで帰ったと思われる。

帰宅マップcapture4466

スタート地点は渋谷駅。途中、池袋駅を経由してゴールは板橋区にある大山駅だ。Googleマップでみると徒歩で2時間17分の距離。しかし、当時はスマホを持っていなく、電話もメールもつながらない中、板橋区の自宅にいる妻に見せるため道中で写真を撮っていた。その時の写真データの時間と照らし合わせると、実際はこの倍以上の時間がかかっていた事が分かった。

久しぶりに当時の写真が出てきたので、それを確認しながら道のりを振り返ってみようと思う。

1. 地震発生時の渋谷の様子

地震が起きた直後の様子をお話しすると、僕はシステムサポートの仕事をしていて、お客様と通話中だった。揺れが始まった際、直感的に大きいと感じたが、

僕「揺れてますね」
お客様「はい。結構長いですね」

話の途中で電話をお互い切るにきれず。そのうちおさまるだろうと思ったが、どんどん揺れが大きくなっていった。さすがに、これはまずいと感じ、

僕「あとでかけなおしますね!」
お客様「そうっスね。ちょっとヤバそうだし、また後にしましょう!」

電話を切った僕は、机の下に避難。
幸い僕がいた職場は個人情報を扱っていたためプライバシーマーク(Pマーク)の取得を目指していた。その際、セキュリティの一環で職場に余計なものは置かない「クリアデスク」を実践していたおかげで、机や廊下、職場内がスッキリしていて物が散らばるなどの被害はなかった。職場のセキュリティを高めた事が防災にも役立った。

揺れが収まった後、僕はチームの防災担当で、かつ、非常階段がすぐ近くにあったため出入りできるように非常用カギ(カギを壊して開けるタイプ)を開けて、いつでも外に出れるようにしておいたのだが、

『大地震でもないのに勝手に開けるんじゃない!危ないだろう!』

と防火・防災管理者である上司に怒られ、なんと全員エレベーターで外に避難の指示。まだ状況が把握できていなかったので、無難な指示を出されたのだと思う。そして、エレベーターが動いていたため、そのまま普通に外に出た。

< 防災メモ >
本来、地震が起きた場合エレベーターは絶対に使ってはいけない!止まって中に閉じ込められる危険があるためだ。万一乗ってる最中に地震が来た場合は、すべてのボタンを押し、止まった階層で降りて階段で避難してほしい。

※最近のエレベーターは、自動で最寄り階に緊急停止するようにはなっているが古いエレベーターの場合は注意してください

ちなみに、この時の渋谷区の震度は5弱。
後で大規模な災害を知った上司は僕にメッチャメチャ謝罪する&缶コーヒーをおごってもらった。正直、あの時にエレベーターにみんな閉じ込められなくて良かった。

ちなみに、外に出たら他のビルからも大量に人が出ていて、道路が人であふれかえっていた。(2011年3月11日 15時32分 撮影)

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2. ビルから脱出。しかし、一人足りない

最初にやったのが点呼。
チームごとに点呼して全員いるかの確認をした。しかし、一人足りなくてちょっとした騒ぎになる。しかも、いなくなった人物は、僕に色々と仕事を教えてくださった恩義ある先輩。僕はびっくりして直属のリーダーに話し、先輩を知っている数人で付近を探しに行った。すると、公衆電話に並んでいる先輩を発見。

僕「先輩!なにしてんスか!みんな、探していますよ!」
先輩「ごめん、実家の両親が心配で電話をしようとしていたんだ...。」

そうだったんですね。
この時、回線が込み合って規制が入り携帯電話は一切つながらなかった。そのため公衆電話に向かったとの事。しかし、携帯電話の普及で公衆電話が減っていたため長蛇の行列ができていた。

冷や汗をかいたが無事でよかったと胸をなでおろし、先輩を連れ戻し点呼完了。道路を挟んだ向かいのビルにいた人達からも連絡が入り全員の安否確認が取れた。

ちなみに向かいのビルを僕は自分の職場の窓から眺めていて、ぐにゃぐにゃに揺れているのを見ていて恐ろしく、あっちにいなくて良かったーと思っていた。そのことを向こうのチームの人に話したら、

「君のいた本社ビルは折れそうなぐらい揺れていて、あっちにいなくて良かったーと思ったよ。」

そう話しており、お互い微妙な気持ちで苦笑いをすることに。また、高速道が渋谷を通っているのだが、この時、車が1台も走っていなく事態の異常さを改めて感じた。

いったん、職場に戻ったところ電話はつながらないが、インターネットは無事で状況を知ることができた。そして、社長の判断で今日の仕事は休止。全員、帰宅してよいとの指示が出た。帰るときに、備蓄の水とイスにつけてあったウエストポーチ型の防災セットを持ち帰るように言われた。

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※ちなみに僕はこの防災セットに助けられたので、10年たった今も中身を入れ替えて非常時に使えるように保管しております。

3. 帰宅するために駅に向かう

帰宅しようとみんなで駅に向かったが、普段であれば5分で着く道のりが1時間近くかかった。なぜかというと、渋谷駅周辺がこのようになっていたからである。(2011年3月11日 18時35分 撮影)

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駅周辺が大混乱。ゆっくりと歩く人の群れ。つねに満員電車状態で移動。
そしてバス乗り場に向かった人達は、もう長蛇の列と道路の渋滞で、正直、乗れたとしてもその後どうなるか分からないと思った。

やっとの思いで渋谷駅に着いたが、ものすごい人だかり。そして電車は山手線をはじめ、全ての電車が止まってしまったとここで初めて知る。遠方から来ていた仲間は、帰るのをあきらめ会社に泊まる事にして戻っていった。(会社は夜勤の人もいたため、毛布などの設備や非常用の備蓄は充実していたので大丈夫だった)

4. スタート地点。渋谷駅に到着

みんなと別れ、ようやくスタート地点の渋谷駅ハチ公前に到着。
この時、僕も自宅にいる妻や埼玉の実家にいる両親の様子が気になって仕方なかったが電話が通じないため連絡できずにいた。また、携帯もガラケーだったためiモードのメールも届かず。しかし、インターネットはつながっていたので、スマホでTwitterなどの連絡手段がある方がとても羨ましかった。

寒いのだけど、異常にのどが渇き、またお腹も空いたので何度かコンビニに寄ったが、食料品はすべて空っぽ。自販機もチェックしていたが、こちらもすべて売り切れ。おでん缶が売っている自販機が途中にあり、いつもは誰も買っていないのに、この日はすべて売り切れだった。

寒くて使い捨てカイロも欲しかったが、それも売ってない。
困ったなと思い職場の防災セットを開けたら何枚か使い捨てカイロが入っていた。ありがたく使わせてもらった。また、お水も職場で貰っていたのと、カンパンも入っていてこれもありがたかった。ちょっとだけカンパンを食べながらみんなと一緒にゾロゾロと歩いていた。

途中で人が避けていた場所がありなんだろうと思ったら、ビルのガラスが割れていたようで、警察官の方が交通整理をしていた。片付け業者の方、警察の方、みんなのために本当にご苦労様です。(2011年3月11日 18時40分 撮影)

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5. 明治通り沿いをひたすら池袋に向かって歩く

この時期は花粉がすごい飛んでいる。僕は花粉症のためマスクを持っていて、それをつけて歩いていた。すごい寒い夜だったのだがマスクのおかげで寒さをしのげた。

明治通りに向かうと、みんな同じ考えのようで両脇にすごい人の群れだ。(2011年3月11日 20時36分 撮影)

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そして、道路もすごい渋滞。(2011年3月11日 20時55分 撮影)

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途中、道路沿いの施設で親切な方が臨時の休憩所を作ってくださっていた。みんなそこで、温かいお茶をもらっていた様子だった。僕も気づいたら持っていたペットボトルの水が無くなっていたので、こちらでお茶をいただいた。これは、とてもありがたかった。いつの時代もどんな時も素敵な人たちはいる。人のぬくもりを肌で感じた時だった。ちなみに他の人たちはトイレに困っていて、そこでお手洗いを借りていた様子だった。街道沿いはあまりお店がなかったので、特に女性の方は本当に困っていたようで、この施設はありがたかったと思う。

「本当にありがとうございました」と深くお礼を述べて、再び池袋に向かって歩き始めた。

明治通りを歩いていくと、途中に川が見えてきた。神田川だ。近くにビックカメラの看板が出ていて「おおぉー!何か役立つものが買えるかな?」と考えていたらビックカメラの本部ビルで店舗ではなく少しがっかり。それでも、神田川を風に吹かれながら駅に向かって歩いて行った。そして、神田川を渡ればもうすぐ池袋だという事が分かった。

6. 池袋駅に到着

ようやく池袋駅に着いた。この時にすでに足がパンパンだったが、見慣れた景色についたので安心感もあった。とりあえず、駅に入ってみようと思った。するといつもは電車の乗り降りで人の流れが止まらない階段がこのような状態になっていた。(2011年3月11日 21時19分 撮影)

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みんな疲れて階段で座り込んでしまっている。ただ、真ん中は人が通るので開けている。きちんと並んで座り静かにしているのが日本人らしい。

さらに駅構内に入り自販機で何か売っていないかなと探したがすべて売り切れ。でも、この状態を見て、それもしょうがないのかなと思った。(2011年3月11日 21時20分 撮影)

座り込みDSC00290

この光景を見て電車が動いてるとか、そういう状態ではないという事がすぐ分かった。まず防災用のサバイバルシート(写真中央にある銀色のシート)を出してる人が何人かいたので、これはここに泊まり込む準備をしていると思った。みんな携帯の電池を気にしてか何もしていなく、ただそこにいた人が多かった。とても寒かったので寒さをしのぐために駅にいたと思われる。池袋駅も電車は動かしていなかったが、たしか帰宅難民の方のために、駅を開放していたようだった。ありがたい措置だ。

駅に留まって電車を待つか、もう少し歩いて帰るか悩んだが、これは動かないだろうと感じ駅構内から外に出た。外も相変わらず駅に向かって人だかりができていて警察官の方が交通整理などをしていた。(2011年3月11日 21時24分 撮影)

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タクシー乗り場も念のためチェックしたが凄い行列。あまりに多いので、相乗りをしている方も多かったように思える。ただ、前にあげた写真の通り、大きな道路はすでに渋滞をしていてまともに動くのか微妙に思えた。よって、僕は池袋駅から板橋(大山駅)まで歩いて帰ろうと決めた。

7. ゴール地点。池袋駅から板橋の自宅へ

池袋周辺にはよく自転車で遊びに来ていたため道を覚えていた。夜も更けてまっくらな道だったがスムーズに歩けた。さすがにみんな池袋で力尽きたようで、ここからは一人で歩いていた。途中でいくつか交番を通り過ぎたが、誰もいなく、これは恐らく交通整理などで出払っていたと思われた。

池袋から30分ほど歩いて、自宅のマンションに22時頃に到着。家のドアをあけたら妻が出てきて「えっ!?帰ってきたの!?」と心底びっくりされた。妻はテレビを見ていて「遠距離の方は会社に泊まりましょう」という案内が見ていたようで、僕が何も連絡しなかったため今日は泊まりかなと思ったらしい。また、板橋のほうが渋谷より揺れたようで(震度5強)本棚が崩れてCDとか本が散乱していて大変だった。

ただ、ちょうど震災の日は金曜日。明日は休みだったため帰れてよかったと思う。その日に入ったお風呂が、いつも以上に気持ちよく感じた。とにかく寒くて寒くて体が冷え切っていたからだ。

会社に泊まり込んでいた人は無事なのかなと思いながらその日は休んだ。ただ、シフト業務の方もいるため電車が動けば土日に出勤している人もいると思い少し心配になる。

8. 月曜に出勤。職場の様子

月曜日には、ほぼ通常通りに電車も動くようになっており、普通に出勤することができた。すると、震災対応で土日に泊まり込んでいた方が毛布にくるまって寝ていた。普段は帰るのだが疲れ切っていた様子だった。

後で話を聞いたのだが、コンビニのシステムサポートを担当していたチームは24時間対応のため休めずひっきりなしの対応していたとのこと。電話はダメでもメールでの問い合わせが多く一晩中の対応していたとの事。

そして、最もすごかったのが地下鉄のシステムサポートをしていたチームだ。通常、システムサポートに一般のお客様が電話をかけてくることはめったにない。それは駅員さんが、ほぼその場で対応してくれるのでサポートまでには電話をかけてこないからだ。だから、我々はシステムの保守をしながらおまけで電話でのサポートもしていた。

普段の月平均でかかってくる地下鉄のサポート電話は『多くて10件』。ほぼ道案内の電話だ。しかし、震災からその後の3日間(3/11~3/13)の間にかかってきた電話の件数は『3000件』を超えてしまったとの事...。

これを会議の時、担当チームがエクセルのグラフで表示してくれたのだが、とんでないグラフが表示されて一同圧倒されすぎて苦笑いしてしまった。しかも、道案内のようなほのぼの系の電話ではなく、ほぼクレームらしく「今すぐ地下鉄を動かせ!」とか「動かさないと駅を爆破するぞ!」などひどいものが多く大混乱だったらしい。通常、駅を爆破しますなどの脅迫電話が来たらすぐに警察に録音を提出し連絡するのだが、もうそれどころじゃなかったらしく、とにかく数をさばいて対応したとのこと。本当につらく大変な業務だったと思う。御疲れ様でした。

9. 写真で振り返ってみたから分かったこと

写真を見ながら当時を振り返ると、都心部で交通インフラがストップするととんでもない事が起き、多くの方が帰宅難民として都内を彷徨うことになると身にしみてわかった。ただ、それでもお茶を出してくださる方々がいたり、自販機を無料で開放している場所もあったりと、人の温かみを感じることも多々あり個人的に嬉しかった。

また、これを機会に通勤に使う靴をウォーキング対応の物に変えて通勤をするようにした。震災時、街を歩いている中にハイヒールやパンプスの方がいて、とにかく辛そうで気の毒だった。歩きにくい靴で長時間の徒歩はきついと思う。そして、一番大事なのがマスクで花粉症でたまたま僕は持っていたが、これは寒さも防げるので必ずカバンに入れるようにしている。また、使い捨てカイロがあってすごい助かり、これも非常用ポーチに今も数枚入れている。

そして自分の中で防災意識がかなり高まり、防火・防災管理者の資格を取り、次の職場で総務部のリーダーになったため、防災訓練を体調の悪い人以外は消防署の指示の元、必ず職員全員に参加にしてみなさんの防災意識を高めるようにした。とにかく、防災で大事なのは避難経路を絶対に知っていることだ。これを知らないと万一の場合は生き延びられない。そして知っていれば慌てることはない。大きなビルであれば、館内放送も流れるので聞いてすぐに対応できるはずだ。

あの時からもう10年もたったというのが信じられない。時がたつのは本当に早いなと思う。僕もあの震災で多くのことを体験した。体に染みついた体験は忘れることはなく、写真をみれば当時のことが克明に蘇る。写真を撮っておいて本当に良かったと思う。

また当時は歩いて帰ったが、その判断が正しかったのか未だにに分からないでいる。ただ震災後の帰り道、特に夜の暗闇で見にくい状況の中で落下物などがあったので危ないと思った。帰るかどうか迷った場合、職場で待機してかまわないという事であれば、無理せず安全第一で留まる事も大切だと思う。

当時の東京都の帰宅困難者の数は352万人。僕はそのうちの一人になった。
しかし願わくば、もうあのような出来事が起きないことが一番だ。そう思いながら、今日も僕はいつもの日常を生きていく。

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