見出し画像

不可解はフィクションからノンフィクションへ移っていった ~不可解とは何だったのか~

アンコールの冒頭

不可解は花譜のワンマンライブシリーズとして2019年から開催されてきたライブシリーズである。コロナ禍を挟んでバーチャルライブからリアルライブまで幅広く行われ、不可解狂では日本武道館で開催された。

その「不可解」の完結編として、バーチャルライブ「不可解参想」が、2023年3月4日に行われた。

長々とした自分語りはライブレポートではご法度と聞いたので、その違反を犯す本稿は、ライブレポートではなくあくまで雑感である。
雑感ではあるが、私が不可解をどう観測してきたのかーー古参観測者の戯れ言だと思って聞いてほしい。

花譜にとって「不可解」がどんなものだったのかを振り返っていこう。

花譜にとっての不可解とは

正直、不可解の最後はリアルで迎えたい、というのが本音だった。

俺の中で花譜はいつもリアルにいた――初期のInstagramに映る花譜は現実世界のどこかにいそうで、いなくて儚い存在だった。
渋谷の雑踏に映る少女、というのが彼女の第一印象であることに疑いはない。だから、自分の中ではバーチャル空間上にいる花譜は少し違和感を覚える(それは最初に糸が公開されたときからそうだった)。

別にここで不満を書き連ねたいわけではない。あくまで俺の中ではそうだった、という話だ。現時点の花譜は、物語的存在から田舎の少女を経て、東京の大学生へと――その実在性を変化させている。
実在する一人の少女のサクセスストーリーとして、Vtuberそのものが物語性をもつ過程を花譜も経た。

それは不可解想の花譜の物語が、神椿市のようなフィクションの物語ではなく、花譜という一人の少女の成長譚であったことが象徴しているだろう。
フィクションを纏っていた少女が冗長的なフィクションを必要としなくなり、ノンフィクションのストーリーで人を惹きつけることができるようになった。それだけ魅力的な女性へと成長した。

ライブシリーズ「不可解」とは花譜が花譜としての物語を手に入れるまでの成長譚だ。

海に化ける

振り返ると、不可解というライブシリーズもそのような過程を辿っていた。
最初の不可解には御伽噺があった。

不可解より

特に最初はこの御伽噺に惹かれてファンになる人も多かった。
少なくともファンボックスのメインコンテンツは御伽噺であったし、観測α、βの両方を揃えた人は御伽噺を目的とした人が多数だった気がする。

観測αβ

この御伽噺に関して「まだ終わってないんかよ」とか、「結局なんだったんだ」と批判的な目を向ける人はいるだろうし、俺も流石に更新はして欲しいと願っているけれど、それは本筋の話ではないのでまた別の機会に語り合おう。

とにかく、不可解1st・不可解再までの「不可解」とは一種の演劇であり、花譜にとってのフィクションだったと思う。少女降臨から始まり、御伽噺を経て、新たな歌唱用形態に至るという――ライブというよりフィクショナルな演劇的だった(もちろん今も一部その傾向はあるだろうが)。

また、花譜という存在もその要素を纏っていた。Instagramとオリジナルソングで紡がれる「恋の物語」は花譜というバーチャル存在が語っている物語だ。決して、当時中学生・高校生の少女が経験している物語ではなかった。

そして、ノンフィクションストーリーへ

一方で、この間に花譜の周辺も――そして社会情勢も大きく変化していた。

花譜一周年を迎えた「花と椿と君」の生放送では、神椿スタジオというが成立し、理芽、ヰ世界情緒、春猿火という花譜の仲間が増えた(幸祜はこの後合流することとなる)。

不可解再の直前には新型コロナウイルスが流行し、まともにライブが開ける状況ではなくなった。

これらの変化を経て迎えた2ndワンマンライブ不可解弐では、御伽噺というフィクションストーリーは鳴りを潜め、VWPが並ぶノンフィクションストーリーへと大きく舵を切ることになる。

VWPやCevio AI、ひいてはSINSEKAI STUDIOのVALISなども迎えて、大所帯のライブとなった。このことを象徴的に示すライブがある。1年10ヶ月ぶりの現地ライブとなった「不可解弐 REBUILDING」だ。
ライブ構成の副題は以下のとおりとなる。

・不可解弐 Q1:RE- 形を失った世界で僕らは –
・不可解弐 Q2:RE- 世界線は分岐する –
・不可解弐 Q3- 魔法の無い世界 –

このライブで放映された映像は「現実世界で花譜に憧れる女の子のストーリー」だった。これはコロナ禍を踏まえた"現実の世界のお話"である。

そして、不可解弐 Q1、Q2では、花譜を取り巻くゲストが多数出演し、花譜の成長譚へと物語の主軸が変化したことを見せつけられた。
ライブの締めがVWPによる合唱というところも象徴的だろう。
不可解のようなフィクションストーリーではなく、花譜のノンフィクションストーリーへと物語の主軸が移っている。

花譜ワンマンライブ「不可解弐 REBUILDING」1万字レポート 激動のコロナ禍に花咲いた魔法のライブより

不可解弐REBUILDINGの最後を飾る不可解Q3は原点回帰のライブとよく言われる。それはVWPなど他の出演者が出演しない花譜のみのライブだからだ。
ただ、原点回帰であるからフィクションに戻ったのかと問われるとそうではない。

それはライブで披露されたポエトリーリーディングに示唆されている。このポエトリーはコロナ禍に遭遇した自分自身を語る”バーチャル・シンガー花譜”としての矜持を示したものであった。

「世界は驚くほど一瞬で変わってしまって
進んでく、何もかも。
世界はどんな形だったけ?
置いてかれているのは僕だけだと思う
しがみつく場所を間違えたなら
希望も絶望も横並びの世界
魔法のない世界
夢なんて叶うわけない
魔法なんてない
そんな世界で、ぼくは生きてる
足元を泥濘ませるのはいつだってぼくの妄想のくせ
こんな歌に縋らなくたって生きていける彼らが
この歌の意味が一生わからない彼らが
羨ましいなんて絶対に言わない
わたしはかふ
うたをうたう
うたがすきだから」

花譜はコロナ禍で苦悩するアーティスト代表として、好きなことができない学生代表として世界を語った。
御伽噺で披露したような「戦争」や「タイムトラベル」などのワードはなく、Instagramで語られていた「君への恋」のような明確なフィクションもなく、今危機に立ち向かっているアーティストとしての気持ちを吐露した。
コロナという時代性をもつ一人のアーティストがそこにはいたのだった。

この時期に歌の方向性も徐々に変化している。

劇場アニメ「映画大好きポンポさん」挿入歌になった「例えば」は、花譜がクリエイティブの苦悩と葛藤と美しさを歌った歌だ。

花譜 「例えば」【オリジナルMV】

エンタメノベル文庫「キミノベル」とのタイアップ曲である「ソレカラ」は物語を描くクリエイターを応援する歌だ。

花譜 #77「ソレカラ」【オリジナルMV】

学園RPG「モナーク」の挿入歌である「世惑い子」は将来に悩む学生に向けてエールを贈る曲となっている。

花譜 #87「世惑い子」【オリジナルMV】

この時期はちょうど、Cevio AI 可不が発売された時期とも重なっており、クリエイターを鼓舞する楽曲が多くなっている。
これらの楽曲を代表するように花譜は自身の物語を語る語り手から、観測者のクリエイティブを応援するアーティストへと変化していた。
そして、これらの歌の語り手は常に高校生であり、コロナ禍という時代性を語るアーティストの花譜であった。花譜の立ち位置は現実世界の本人そのものになっていた。

コロナ禍が花譜を変えたのか、不可解1stを終えて花譜の心境に変化があったのかは定かではないが、不可解弐で花譜はノンフィクションのストリーテラーに変貌を遂げていた。

不可解参想

そして、不可解参で「不可解」シリーズは終わりを迎えた。
狂では花譜がシンガー・ソングライターになることを表明し、想ではカンザキイオリが神椿スタジオ・THINKRを辞めるという決断が発表された。
不可解シリーズは花譜のノンフィクションストーリーを主軸にしているのだから、これらの事象が発表されるのは当然のことであった。

カンザキイオリがスランプっぽいのは、組曲が始まる頃からなんとなく分かっていた。観測αβの時期と比べたら、花譜の楽曲提供も少なくなり、カンザキイオリ個人の活動も少なくなっていた。
正直私は、組曲そのものがカンザキイオリが復調するまでのつなぎだと解釈していた。

そして、最終的にカンザキイオリが選択した決断は"卒業"だった。

不可解想より

カンザキイオリの楽曲は自身の心傷を語る嗚咽の現れだと俺は思っている。
代表曲である「命に嫌われている」を始めとするその尖りが多くのファンを引き付けていたのは事実だろう。
一方で、神椿という集団は彼が創作するには、プロすぎると俺は感じていた。
タイアップ先のためにクリエイターを応援する歌を作らなければならない。
花譜を願った歌を作らなければならない。
VWPに歌を書き下ろさなければならない。

彼はその仕事を全うしていたし、プロとして一種の満足を得ていただろうけれど、心のどこかで自身の創作の熱が摩耗しているのを感じていたんだと思う。カンザキイオリらしさとは何なのかを自問自答していたのではないか。

先程述べたように花譜自身もノンフィクションのストリーテラーとなっていた。言ってしまえば、カンザキイオリが生み出すような物語を必要としなくなっていた。自分自身で花譜という物語を紡げるように成長していた。

まさにツミキさんの「トウキョウ・シャンディ・ランデヴ」が代表的だが、多くのコンポーザーの曲を受け入れる土壌が出来上がっていたと言える。

そうして、決別した2人が歌う「過去を喰らう」は最高だった。
カンザキイオリ、花譜の双方が過去を喰らい、前に進んでいく意思を見せつけられた。調和するデュエットではなく、お互いに主張し合って奏でる音楽はこの2人唯一無二のもので最高だった。この部分だけでこのライブの価値はある。

不可解想より

そして、最後に花譜はカンザキイオリに向けて歌を贈る。
「リメンバー」と名付けられたその歌は、花譜から見たカンザキイオリという大きすぎる存在へ向けた歌だった。
カンザキイオリはこれまで花譜の歌を多く書いてきた。花譜の心情を綴った歌を多く書いてきた。返歌という形で花譜が歌を返し、不可解は終わった。

こうしてみると、不可解想もしっかりと花譜のノンフィクションストーリーだったわけだ。

感想

不可解を思い返しながら、個人的な雑感を語ってみた。
思ったより長くなってしまったが……

「自立とは多くの依存先をもつこと」とよく言われる。
そもそも花譜というプロジェクトはカンザキイオリと出会ったことから始まった、とPIEDPIPERの口から語られている。カンザキイオリが原点となり、色んな人と関わっていく中で花譜が成長し、最後にカンザキイオリから離れていった。組曲シリーズを通して感じることだが、もうカンザキイオリの曲がなくても、「花譜らしさ」を感じられるようになっている。

ただ、改めて花譜×カンザキイオリは最高だったと言いたい。
花譜自身の曲にはカンザキイオリの影響を感じる箇所が節々ある。それは、花譜がカンザキイオリから大きな影響を受けた証拠だ。
最高だったよ、カンザキイオリ。今までありがとう!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?