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初期設定を思い出す

吉本ばななさんの『「違うこと」をしないこと』を、読み返していた。
去年の10月に出た本なので、まだ半年も経っていないのに、もう何度目かわからないくらい。あちこち持ち歩いて、お風呂にまで持ち込んでいるので、すでに表紙はひよひよです…。

初めて読んだ時、この本は節目ごとに絶対読み返したくなる本だと確信したのだけれど、半年で、どれだけ節目を迎えているのかという読み返しっぷり。
でも確かに思い返してみれば、自分の外でも内でも、すごくいろいろな変化のある半年だった。たぶん、誰にとっても、ある程度はそういう時期だったんじゃないかと思う。

渦中にいる時にはつらいとかしんどいとか考えてはいなかったけれど、実は結構はげしい荒波をくぐり抜けてくる中で、これまでもばななさんのいろいろな本がそうであったように、私はこの本をお守りみたいにしっかり胸に抱いていた。

何度も読み返す本はどれも、毎回、響くところや気になるところが違う。

今回は、ばななさんが自分の初期設定をQちゃんにしていたことに気づいたというところを読んでいた時に、はっ!と思い当たった。

私の初期設定は、猫だ!

現実的な問題解決には役立たないけれど、何となくのんきにひなたぼっこをしたり、ぼーっと能天気にそこにいるだけで、和むんじゃないでしょうか、という感じ。
大人がかわいがりたそうにしている時は適度にかわいがられて、でも一人になりたい時にぐいぐい来られるのは苦手だし、周りが忙しそうにしている時は、ひっそりと気配を消してただ観察していたり、隅っこで一人で遊んでいる、そういう子どもだった。

中学の夏休みの自由研究で猫についての本をつくって「猫が大好きで尊敬すらしている」とまで書いたりしていたし、家に数日泊めてもらった友だちから「あなたは猫みたいだった。何をするわけじゃないけど、リビングのソファーで寝ててくれたのがすごくよかった」と言われたりもしたのだけれど、猫になろうって実は自分で設定していたんだなあ、と、これまで、ばななさんのQちゃんの話も何度も読んだし、講演で聴いたこともあったのに、今回はじめて気がついた。本当に、自分のことってわからないんだ。

母も自分も猫が好きで、飼いたがっていたこともあったのかもしれない。
飼えないし、自分がなるしかない、みたいな。

私がアメリカに住んでいる間に実家に初めてやってきた猫に、「私の代わりにいてくれてありがとう。家族をほっとさせてくれてありがとう」と思ったのも、だからだったのか。

そして、今でもよく寝るし、あんまり実務的なことには役に立たないし、日なたが好きだし、動いているものをじーっと見るのが好きだし、たまにすごく一人でどこかに引っ込んで隠れたくなる。
基本姿勢がぐでぐで過ぎて、コンタクトインプロビゼーションをやった時に、「君はゆるすぎる」と言われたこともある(もうちょっと、しゃんとして自分で支えろ!みたいな)。
それもこれも、すべて猫だったからなんだ!設定どおりだったんだ!と、ものすごく腑に落ちたし、ばななさんが書いているみたいに、なんだ、その自分でよかったんだ!と、ほっとした。

設定は変えることはできる。でも、変えたいという気持ちが全然起こらないので、とりあえずは猫のまま生きていくのだと思う。

猫は猫でも、ちょっとセクシーな、とか、野性味あふれる素早いハンター!みたいな感じでは全然なくて、日の当たるところで腹を見せてだらーっとしていたり、無理やり箱に入っているような、怠惰な感じの猫なのが残念だけれど。そういう設定にしているから仕方ない。

ああ、でもこれからは、もうちょっと自分で獲物をとったり、ネズミを追いかけたり、遊ぶのに忙しい猫になってもいいかもしれない。

自分で決めたのだということがはっきりしたら、こうなりたかったようになってるんだなあと嬉しくなったし、これからどんな設定にするのも自由なんだということも心から納得できたので、とても気が楽になった。

ほんとうに、すべては自分で決めているのだ、と思う。

だからこそ、自分にとって「違うこと」ではない設定をすることが一番大事なのだし、同時に、すごく違う設定をしちゃってそこからもどってくるのも生きる醍醐味の一つのような気がするから、ただただ、自分の設定って何だろう?とチェックし続けるのが大切なのだと思う。

ずれていたって、いいのだ。
何度でも設定をし直すことだってできるのだから!

だいぶ減ってきたし、回復するスピードも速くなってきたけれど、今でも時々、ああ、違う方にいっちゃったなあと落ち込むことがある。そんな時も、「設定やり直し!」ってすればいいんだ!
そう思うと、希望がわいてくる。

実家の庭にやってくる外猫。
一応ノラなのに、くつろぎ過ぎ。

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