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【Radical Compassion Challenge】「真ん中のすきま」で出会う(クリスタ・ティペット)

4月26日~5月5日までの10日間、タラ・ブラックによるコンパッション(思いやり、慈悲)に焦点を当てたオンラインイベント「Radical Compassion Challenge」が開催されていました。
ゲストとのインタビュー、全部は聴けなかったのですが、聴くことができたものはどれもよかったので、印象的だったことをメモも兼ねて、書き留めておきます。
(今のところ、上のイベントリンク先から動画も見られます)

今回は、ジャーナリスト、作家のクリスタ・ティペット。
ラジオやポッドキャストなどを通して、精神性や「人間であること」にかかわる様々な発信をしています。私はポッドキャストの「On Being」のホストとして彼女のことを知りました。

情報量がとっても多くてメモも長くなってしまいましたが、よかったらお読みください。

「思いやり」の根幹としての好奇心、相手に純粋な興味、関心を持つことの大切さ、意見や立場の違いを超えて、「思いやり」でつながることについて。

◎「実践していれば、そうなっていく」

「思いやり」はニュースでは英雄的な行為として取り上げられたり、思いやりがある人とない人がいるのだというようにもともとの性質だと考えられることが多いけれど、それはちがう、とクリスタ・ティペットは言います。

「思いやり」は、一人ひとりが日々の暮らしの中で実践していくことができる。こんなふうでありたい、というあり方を、実践し続けることで、最初はぎこちなくても、「実践していれば、そういう人になっていく(What we practice, we become)」のだ、と。

「思いやりを実践すれば思いやりのある人になっていくし、決めつけたりジャッジすることを実践したらそうなっていくのよね」という、ホストのタラの言葉も印象的でした。

実践し続けるしかないのだと、学べば学ぶほど私もしみじみと思います。クラスをとったり、本を読んだり、ヒーリングを受けたりしてぱっとなりたい自分になれるわけではなくて、ただ、日々、実践し続けること。

どの瞬間でも、ありたい自分であることも選べるし、そうしないことも選べる、その自由が人間でいることの大変さでもあり、醍醐味でもあるのだろうと思います。

◎「思いやり」の根幹にあるのは好奇心

たとえば身近な人に対して、たとえば政治的な立場の異なる人に対して、私たちはつい「自分は相手のことをもうすっかり知っている」と思ってしまうけれど、それを手放して、心から相手のことを「知りたい」「見たい」と思うこと。注意を向けること。思考からではない、もっと深いところからの興味、関心。

そういう好奇心が「思いやり」の核になるとティペットは言います。

そして、「こういうこと(好奇心、思いやり)は、ふりをすることは絶対できない」とも言っていました。

「そういうあり方を本気で実践しようとしている、努力しているというのはまた別の話。でも、ただ興味のあるふり、思いやっているふりをしているだけの時は、絶対にそれが伝わる」

クラニオの話でもよく出てくるのですが、施術中の所作や言葉のやりとり、どんなに「見え方」に気をつけても、それが「ふり」であれば、やっぱりかならず伝わってしまう。だから、最終的には、自分自身の内側を見つめ続けるしかないのだと思います。

◎「思いやり」は体に根づき、体にあらわれる

また、「思いやり」は身体的なもの、体であらわされる、目に見えるものであって、決して抽象的で思考にだけ基づいたものではない、とティペットは強調していました。

ありたいあり方で生きようとする時、この身体性はひとつの指標になると思います。

「思いやり」であれ、「愛」であれ、「やさしさ」であれ、そう「ある」ということは、つまり体を使って体現していくこと、実際に生きていくこと。(結局、実践しかないのね!)

そして、心と体のつながりがうまくいっていないと、外にあらわれる時にバグが出たり、何かのずれが生じたりしてくる。体と仲良くなっていくプロセスは、自分と仲良くなるプロセスでもあるのだと思います。

ティペットが紹介していた、車椅子のヨギ、マシュー・サンフォードの言葉が素敵でした。

「自分自身の体―その優美さと欠けているところすべてをひっくるめて―と、より深くつながって生きるようになったことで、すべての生命に対してより思いやりを持つようにならなかった人は見たことがない」

自らの体に深く根づいていけばいくほど、その美しさも欠点もすべてを愛することを学ぶほど、ほかの生命に対しても心が開かれていく。その感じ、私も、クラニオを学ぶなかで経験させてもらってきたように思います。

◎「私たちは欠点を恐れる。私たちは不完全さを恐れる」

「私たちの社会ではpresentable(外に出しても恥ずかしくない)であることがとても重要視されている」というティペット。アメリカについての話だけれど、日本も同じ(もしかしたら、もっとかも)だなと思います。

「私たちは欠点を恐れている。不完全さを恐れている。だから、外に見せないように一生懸命隠そうとする。欠点や不完全さで自分を定義されないように。だからこそ、傷や欠けている部分が外に現れている人に出会うと、恐ろしいと感じる」

そんなティペットの言葉に対してタラは、「親密さは、私たちそれぞれが自分の内側の震えや不安定さを見せ合うこと。傷つきやすい無防備な部分を共有し合うこと。それによって、もっと大きなスペースに自分自身を開いていくことができる」と、言っていました。

「内側の震えや不安定さを見せ合う」ことはこわいけれど、それでもハートを開き続けていく、その練習を続けていくしかないのだと改めて思いました。(やっぱり、武田鉄矢の『贈る言葉』だわ)

◎「相手の立場で素晴らしいと思うところはどこ?」

後半の主なテーマは、政治的、社会的な意見や立場の違いがより可視化されて、よりはっきりと分断が起こっているように見えるいまの世界で、どうやって自分とは相容れない考え方や立場をとる人たちとも「思いやり」を通してつながることができるか、でした。

「自分の意見をわからせるため」ではなく、「互いに理解し合うため」という共通のゴールを互いが見失わないで対話をしていくのが大切、というティペット。

そういう対話の際に自分の中に持っておくといい質問として、女性の中絶を選択する権利のための活動家で、相反する政治的立場の「橋渡し役」となってきたフランシス・キスリングの言葉を引用していました。

「相手の立場で素晴らしいと思うところはどこだろう? 自分の立場に対して、ん?と、立ち止まるところはどこだろう?」

相手を他者として見てしまって頑なになりそうな時、そう自分に問いかけると、頑なさがふっと緩み、正直なあり方があらわれてくる。「こっちが正しくて向こうが間違っている」という観点から、すっと違うところにいくことができる。

そして、そこにあるのはやはり「好奇心」なのだとティペットは言います。

相手を「自分とは異なる意見の人」という箱に押し込めるのではなく、同じ一人の人間として、お互いにびっくりさせられる準備をして向き合う。

そして、そういう対話は一人ではできない。立場や意見を超えてつながり合いたいという願いを持つ人同士が、実際に同じ空間で集まって時間を過ごすことが必要だと強調していました。

◎「前進するためには、間違ったことを言ってもいい。ばかげたことを言ってもいい」

対話についての話のなかで、すごくいいな、と思ったのがこの一言でした。

特に、自分とは違う立場や経験をしてきた人と話す時や、「公的な場」で発言する時、私たちの多くは「間違ったこと」や「ばかげたこと」を言ってしまうのではないかと恐れます。

それがこわくて何も言わないことを選んでしまったことも、私は何度もあります。

でも、ほんとうの意味で対話をするということは、「正しいこと」や「気分のいい」ことを選ぶということではない、「間違ったこと」「ばかげたこと」を言ってもいい、そこから前に進めるのだ、という二人の言葉はとても力を与えてくれるものでした。

◎「真ん中のすきま」で出会うこと

最後に、分断された世界でどうあればいいかについての話のなかで紹介されていた、これもフランシス・キスリングの言葉。

“If there isn’t the crack in the middle where there’s some people on both sides who absolutely refuse to see the other as evil, this is going to continue.”
「互いに相反する立場の間に、相手を決して悪として見ようとはしない人たちがいくらか存在していなかったら、その真ん中のすきまがなかったら、争いはこれからも続くだろう」

どんなに違っているように見えても、相容れないように見えても、その相手を悪として見ることはしない、そんな「真ん中のすきま」で出会い続けることができたらいいなと思います。

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クリスタ・ティペット。デスクの上の、資料の数!

彼女のポッドキャスト『On Being』のメアリー・オリバーとのインタビュー、とてもよかったです。

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