7月1日、病院にて。
僕らは今、大学病院の5階のエレベーターの前にいる。
薄橙のランプに照らされる数字が1、2、3……と1つずつ大きくなっていくのをぼんやりと眺めながら、さっき会ったばかりの祖父の姿を思い返していた。
・ ・ ・
7月最初の日の昼下がり。夏本番前のやや強い日差しを浴びながら、祖母と2人で病院にやってきた。4月から脳梗塞で入院している祖父に会うためである。
病院の自動ドアを1つ2つとくぐると、そこはまさにオアシス。暑さをしのぐには十分すぎる環境に、病院嫌いの僕でさえ、できるだけ長くここにいたいと思ってしまう。横の祖母も、心なしかさっきより柔らかい表情を浮かべている。
受付で事務的な手続きを済ませると、早速エレベーターに乗り込み、数字の「5」を押す。鉄の扉がゆっくりと閉じ、2人だけの空間になった。上のランプは、同じテンポを刻みながら数字に1を足していく。
エレベーターの扉が開くと、5メートルほど先に看護師が立っているのが見えた。恐らく、受付の人から無線か何かで「僕らが病棟に向っている」ことを聞き、待ち構えていたのだろう。先に降りた祖母の斜め後ろにくっついて、その人に近づいていく。
「こんにちは。○○(祖父の名前)の面会で来ました」
祖母ははっきりとした口調で告げた。
「はい、○○さんですね。そうしたら、検温カード、見せてもらってもいいですか?」
祖母は言われた通り、右手に持っていた紙を2枚、クリアファイルに入れたまま手渡した。
検温カードは、ここ2週間のうちに計測した体温と計測日が書かれたものだ。これを持っていかないと、面会の許可が下りないらしい。
「カードを忘れて病院に行ったら、祖父と面会できずに帰ってきたんだよ」
いつかの祖母がそう嘆いていたので間違いない。もちろん、遊園地なんかのパスとは違って、見せたらいいってもんじゃない。検温の数値に怪しい箇所があれば、目の前の門番に止められるはずだ。
「ありがとうございます」
看護師はカードを受け取ると、ランダムな数字の配列に勢いよく目を走らせていく。右上から左下へ。次に右上に行って、左下へ。要領よく眺めていき、ものの10秒で2枚分のデータをチェックし終えた。
「はい、お返しします」
カードを受け取る祖母の手元を見ながら、「こんなに簡単でいいんだ確認って」と、思わず苦笑いしてしまった。もっと厳重に、丁寧に、時間をかけてチェックがなされるものだと思っていたから、門番のあまりの手際のよさに拍子抜けしてしまったのだ。
ともかく、最初で最後の試練をクリアした僕らは、看護師から「タイマー」というアイテムを受け取り、面会の部屋へと向かって歩を進めた。
直進した先にある丁字路を右に曲がると、幅の広い廊下に出た。大通りの左右には、等間隔で病室が並んでいる。各部屋の前の壁に設置された2×2のポケットは、チラリと見る限り、どこもネームプレートで埋まっていた。
目的地の面会室は、まるで大学のカフェテリアのような、明るくて開放的な空間だった。さっきまでいた廊下のおどろおどろしい雰囲気と比べると、ここだけ別世界のような気さえする。
数分して、部屋の入口に祖父の姿が見えた。薄い青色の、薄手の病衣に身を包んだ彼は、真っ黒い杖をつきながら、ゆっくりと、ゆっくりと、でも確実に僕らに近づいてくる。
ようやくこのテーブルまでやってきた祖父は、「おおー久しぶりだな」と言いながら、慎重に椅子に腰を下ろした。同じタイミングで、僕はタイマーを作動させる。制限時間は10分だ。10分しかない。
「久しぶりに会ってどう?」
横に座る祖母が、開口一番、僕に感想を求めてきた。左を向くと、彼女のいたずらっぽい目と僕の目がぶつかった。
その時、目の奥に宿る「期待」を感じた。「気の利いた返答をするように」という要望の混じった期待である。その目から逃れるように、彼女から向かいに座る祖父に視線を移す。僕の目は、彼のクリっとした目と合った。
改めて祖父を眺める。およそ半年振りに会う彼の姿は、眺めれば眺めるほどに以前と違って見えた。かつてのふっくらとした頬はシュッとなって、ぷっくりと出ていたビール腹は幾分ペッコリしたように思われた。年の割にふっさりとしていた髪は少なくなり、白さも増している。左半身の麻痺の影響で、左手と左足は自由に動かせず、顔の左半分は少し引き攣っている。
目の前にいる人は、間違いなく僕の祖父だ。けれど、データの引き継ぎをして機種変したスマホを使い始めた時のような、無視できない「違和感」があった。いずれ慣れると思いつつも、すぐにも目の前の祖父を受け入れられなかった。いや、受け入れたくなかったのかもしれない。
「いやー、思ったより元気そうで良かった」
口をついて出たのは、この言葉だった。祖父の変貌への戸惑いと、驚きと、寂しさに胸が一杯だったものの、僕の理性と祖母の期待とがネガティブの感情を制して、心にない「温かそうな言葉」を創り出した。
「でしょ。最初と比べると、ずいぶん良くなったんだよ」
僕の本心を知ってか知らぬか、祖母が被せるように言う。「そうなんだ」と返すと、祖父は「うん」と頷いていろんな話をし始めた。
入院した当初のこと。リハビリを頑張っていること。高価な杖を買ったこと。杖がないと歩けないこと。左足に装具を付けていること。その装具も値が張ったこと。
話のテンポや冗談を交えた語り口調は、間違いなく祖父のものだった。そこに祖母が軽快に合いの手を挟むもんだから、まるでリビングにいるかのような錯覚に陥る。二人の家に行くと見られる、いつもの光景だ。祖父の退院後も変わらない二人と会えそうな気がして、少しばかり安堵した。
話題は、家のリフォームの件に移っていた。一週間後に控える退院に向け、急ピッチでリフォームを進めているという。近所の大工に頼んで、床の張替えや手すりの設置をやってもらっているそうだ。
「残り1分くらいだね」
目の前のタイマーを見て、僕は言う。二人は話を一時中断してタイマーを覗き込むと、すぐにリフォームの話に戻った。
それにしても二人は強い。本当に強い。現状を受け入れて、これからの生活のことに目を向けている。それに引き換え、あの頃の祖父の面影を必死に振り払おうとしている僕は、まだまだ弱い。自分が二人のどちらかと同じ立場に置かれたとして、こうも普段通りに振る舞えるだろうか。正直自信はないし、できない気もする。
ここでタイマーが0になった。荷物を持って、3人一緒に面会室を出る。そこにいた看護師にタイマーを手渡して、軽く会釈をする。相手はにこやかな表情で会釈を返してくれた。
祖父はこの後リハビリがあるらしく、リハビリルームへと向かっていった。真っ黒い杖をつきながらゆっくりゆっくりと歩くその後ろ姿は、あの頃より小さく見えるけれど、間違いなく祖父だった。
彼と別れてエレベーターに向かう道すがら、ある病室の開いた扉の向こうに、ベッドから起き上がろうとする初老の男性を認めた。祖父よりは、一回りくらい若く見える。その姿に、かつて入院をしていた祖父の姿が重なった。
祖父といっても、さっき会ったのとは違うもう一人の祖父の方だ。入院していたのは10年も前のこと。そういえば彼も脳梗塞で、入院した時期は4月だった。時々見舞いに行くと、律儀に体を起こして僕らを出迎えてくれた。そんな記憶がうっすらと残っている。
その祖父は、明日から2日間の検査入院をすることになっている。病気になって以来、毎年この時期には、再発がないかを調べるための入院をしているのだ。我が家の恒例行事である。
幸い、ここまで再発はなく、経過は良好だ。とはいえ、数年前に別の病気で肺を悪くしてからは、元気に生活できているとは言えない。ちょうど1年前に介護施設に入居してからは、まだ1度しか顔を合わせていない。別に遠くに暮らしているわけではないし、会おうと思えば会える距離にいる。でも、生まれてからずっと一緒に暮らして来た彼が「一緒に暮らせないほどに弱ってしまった」という事実を受け止めきれていない自分がいて。会いたいけど会いたくないと思ってしまう。現実を受け入れることのできない自分は、やっぱり弱いのかもしれない。
・ ・ ・
薄橙のランプが「5」を照らすのと同時に、エレベーターの扉が開いた。エレベーターに乗り込み、祖母が数字の「1」を押す。鉄の扉がゆっくりと閉じ、また2人だけの空間になった。上のランプは、同じテンポを刻みながら数字から1を引いていく。その動きが上がってきた時よりもゆっくりに思われて、なんだか居心地の悪さを感じた。その重い空気を割くように、
「そういえば、みんな入院してるよね」
と、僕は言った。言ってから空気を良くするような話題ではないことに気付いたが、もう後戻りはできない。過ぎた時間は戻せないのだから。
祖母は急な話題にびっくりすることもなく、こちらを向いて言う。
「ああ、確かにそうだね。じいも、おばあちゃんも入院してるもんね」
おばあちゃんは、この隣にいる祖母とは違うもう一人の祖母のこと。実は、彼女も今入院をしている。
入院の話を聞いたのは、6月末のことだった。LINEに珍しく祖母からのメッセージがあって、開いてみると、いつもの絵文字たっぷりの可愛らしい文面で「入院」のことが書かれていた。本人曰く、「たこつぼ心筋症」という心臓の病気らしい。ただそこまで重い病気ではないようで、1週間の入院を経て、明日退院することになっている。
彼女は、我が家から車で5分ほどのところにある市営住宅に一人で暮らしている。距離は近いけれど、月に一度会えばいい方で、頻繁に顔を合わせる間柄ではない。とはいえ、心配であることに変わりはない。一人暮らしをしている上、周りを積極的に頼るような性格でもないと来たら、これからの生活が気がかりでならなかった。
それにしても、祖父母4人のうちの3人が入院しているなんて、滅多に起こることではない。起こってほしくはなかった奇跡である。
入院してリハビリを頑張っている人。まもなく一時的な検査入院がスタートする人。入院期間がついに終わる人。
それぞれ事情は異なれど、みな一様に「入院」と向き合っている。
「本当にね。いつなるか分からないね、本当に」
僕は噛みしめるように呟いた。
これだけ身近に入院者がいると、入院が遠い存在ではなくなってくる。自分も身近な人も、元気で過ごせていることがどんなにありがたくて、奇跡的なことなのか。さっき祖父と対面したからだろうか、そのことを強く感じた。
上のランプが「1」を照らして、エレベーターは停止した。開いた扉から、祖母と一緒に足を踏み出す。
左手の少し先にある二重の自動ドアの向こうは、30分くらい前よりも青く、明るくなったように見えた。
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