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WSD同期ちょなんに聴く、ワークショップと自身の在り方(後編)

これは、WSD Advent Calendar 2022 の7日目 の投稿です。

 その存在を知っていても、自分も書こう!という所まで熱が高まらないのがアドベントカレンダー。今年、参加することに決めたのはWSD同期(29期)のちょなんに声をかけてもらったから。

ちょなん
「かなちゃん!今年のWSDアドベントカレンダーの記事を、対談形式にしたいのだけど、よければ今月30分くらいお時間いただけない?」

かな
「おけ!インタビュー形式で2本書く、という手もあるね。ひとりだと書こうと思わないのに、二人だと俄然やる気になる自分が不思議だ笑」

 一人ではイマイチ乗らない書き物も、二人なら楽しい!ということで、今年は、ちょなんのインタビューと私が感じたことをお届けします。
 ですが、二人の関係から書き始めたら思いのほか長くなってしまったので、二人の関係を軸に学びを振り返った話を前編として切り出し、ここでは後編としてちょなんへのインタビューをお届けします。

 インタビューは、ちょなん ➡ かな、そのあとに かな ➡ ちょなん の順。この後の文章は、ちょなんにインタビューされた直後の私が、それを踏まえてちょなんに「聞いてみたくなったこと」を問いかける所から始まります。気になる人は、先にちょなんから私へのインタビューを読んでみてください。

そして、二人がほぼ語ったままなので、理解しようと「読む」より、脳内で音声を再生して「流し聞きする感じ」で読むのがおすすめです。
それでは、どうぞー!

※ インタビュー内の「・・・」や「。」「、」や 太字、改行などは、私の主観で追加しています。雰囲気の再現や視認性を考えて。
※ 会話の中で「話をきく」ことに関して「聞く」と「聴く」のニュアンスが混在しています。書き起こすにあたり、便宜上、大半を「聞く」と表記していますが、聞く/聴くの両方の可能性があることを踏まえて読んでもらえるとうれしいです。

ちょなんにとってワークショップってなんだ?

かな: いまね、一番聞いてみたいなと思ってるのは、ちょなんにとってワークショップって何なんだ?ってこと。今ちょなんに「かなちゃんにとってのワークショップって "本" と一緒だよね」って言われて。だとすると私、けっこう独自のワークショップの定義なのか?って思って。

ちょなん:そうなのかな。なんか、僕はどちらかというと、本の中にワークショップとの共通点が詰まってるのかなとは思ったけど。
僕にとってワークショップは・・・・なんだろうな・・・

かな: その話、聞いてみてもいい? 聞かれたらむずかしい?

ちょなん: なんか入り口の "問い" が大きいなと思ってる。

かな: 逆に、そう聞かれたときになにが思い浮かぶ?

ちょなん: ワークショップとはなにか・・・・・
 どうしても、誰かに、身近な人に「ワークショップ」を説明するときの言葉とかが出てきちゃいそうになるんだけど。
 でも、僕にとってのワークショップ。僕にとってのワークショップ・・・

ちょなん: あー、そう。ちょっと前に考えてたこと。
 自分が対話型鑑賞みたいな場作りをなぜやってるのかっていうのを俯瞰して捉えたときに、僕が作ってるワークショップの場は、なんだろうな「理想的なコミュニケーションの場の試験場」というか。
 
これは去年ぐらいに考えたことかな。

かな: へーーー!!!(驚)

ワークショップは「理想的なコミュニケーションの試験場」

ちょなん: 会社の中って、なかなか、その窮屈な社会性というか「会議って言ったらとりあえず議論するような人が多い」とか、みんなが対話をわかってくれない中とかで、よく「ワークショップの場は非日常です」とか「非現実です」みたいな言葉とかあると思うんだけど、このワークショップっていう、特殊な、非日常的な場で、自分が欲する理想とするコミュニケーションの場をテストしてる感じはあるんですよ。

ちょなん: 自分のプロジェクトであったりとか、自分のチームであったりとか、コミュニケーションを取りながら「一緒にプロジェクトを進めるメンバー」っていうのは仕事の中で生じることがあると思うけど、どうしても議論であったりとか、まとめよう、まとめようっていうことが多くなって。
 プロジェクトの中では表現できないような対話中心の場であったりとか、対話する時間が十分とれませんみたいなことであったりとか・・・
ワークショップの世界の中では「話す人より、聞く人の方が主役です」みたいな話だったりとか、自分として大事にしたいものであったりとか・・・
なんだろうな、そういう自分が欲する理想的なコミュニケーションの場であったりをワークショップで表現してるのかな、っていうのは考えたことがあった。

「理想的なコミュニケーションの場」とは?

かな: それって、なんというか・・・どう表現するんだろう。
 さっきの具体的な話だと
「自分のプロジェクトメンバーがいます。いつもはコンテンツに向かって、やる・やらないとか、それはAにするかBするか、みたいな具体的な話になって、お互いの対話をするっていう感じじゃないよねっていう人たちに、理想的な場としてのワークショップを提供する」
ってことだと思うんだけど、どうもっていくの?どう表現するの?
 何かコンテンツを用意して、とか、例えばゲーム的にやってもらうみたいなやり方をする。とか、そういうこと?

ちょなん: まあそうだね。今の話につながりそうなのだと、僕だと、映画であったりとか、アート作品っていうものを使っています。映画であったりとかアート作品っていうのを鑑賞してから対話するとか、鑑賞しながら対話するみたいなことをやってるんだけれども。
 そうね、 脱線っていうか、遠くならないように話すけど、元々その「理想的な」って言ってるところに近いもので・・・僕も元々IT系の企業の中で仕事してて、すごく違和感があったのが、1人1人が感じてることとか思ってることっていうのを出す場があまりにもないように思えて。仕事の中で。
 ググったら出てくるようなものとか、エビデンスがあるようなものであったりとか、根拠みたいな求められるような議論のような。そういう自由に話せないコミュニケーションの場の方が圧倒的に多いように感じられて。
 まず、一人ひとりが感じてることであったりとか、一人ひとりの言葉づかいであったり、本来の自分の声であったり言葉だったりを、まず何か出してもらう場がすごく必要だな、と思って最初ワークショップを始めたっていうのがある。

ちょなん:  さっきの映画とかアートの話にちょっとつなげると、映画作品もアート作品もすごいなって思うのが、やっぱりあれだよね。映画とかだったら、映画を見て涙するみたいな。体にけっこう反応がある。それこそ、その追体験というか、その主人公になりきって考えてみたいなことであったりとか。アート作品もなにか、こうなんだろう、訴えかけてくるようであったりとか。悲しい気持ちになったりとか、何か明るい気持ちになったりみたいなことであったりとか。すごく、この、心を揺さぶってくるような作品が世の中には映画もアートも多くて。
 この「なにを感じたか」っていうのを口にしてもらおうとすると、そこでやっと "その人らしい感覚" であったりとか、言葉っていうのが出てくる気がしていて。体で感じてるものとか、心で感じてるものを口にしてもらうって、なにかそれ自体がすごく、なんて言ったらいいんだろう・・・。その人らしさっていったら・・・人によってもちろん言葉にできるできないはあるんだと思うけど、少なくとも感じてるものを表に出そうとしてくれてるってのはすごいことだなと思うんだけど。こういう機会が IT企業やシステム屋さんの中だとあんまりないので、それと対称的にと言ったらあれだけど、もうちょっと、なにか心を動かしながら、それについて語り合う場とかが作りたくて、映画であったりとか、鑑賞であったりの対話の場っていうのを作ってきたっていうのはありますかね。

かな: なるほど。さっき言ったくれた「理想とするコミュニケーション」は、どういう感じなのかなって思ったけど、その人らしい言葉でしゃべる、それが交感できる、というのをひとまず理想として目指してるのかなって今の話から思った。

ちょなん: あといくつか出てきそうだけど・・・そうだな・・・
 理想って言ってるのは・・・哲学対話で使うグランドルールみたいなやつもよく使うんだけど、 何を話してもいいとか、まとめなくてもいいです、みたいな。よく会議でNGとされるようなことをグランドルールにしてるのが、なんかすごくいいなと思うんだけど、要は対話をしましょうという話で。企業の中で、やっぱり圧倒的に対話の機会だったりとか、対話をする機会だったりとかっていうことが、そもそも意識されてない。対話と議論の区別がついてないみたいなところがある中で、まず対話をするっていうこと自体がすごく非日常的なことな気がするし、自分が大事に思っている場につながるかな、というところで対話の場を作ってるっていうのもある。

ちょなん: あとは理想とする、ってなかで言うと、僕はワークショップファシリテーションにするときって、基本的には、最初の始まったばっかりの序盤はファシリテーターとして働きかけて。対話やリズムを作っていくみたいなことや、聞くこと、問いかけることっていうのは「お作法を示す」みたいなこととして序盤はやるんだけれども、その終盤や後半では「存在を薄くする」というか。最近の感覚だとその「ファシリテーターのバトン」を他の人に渡す、みたいな、ファシリテーション自体を参加者に委ねるみたいなことを結構意識してやっている。

かな: F2LOモデルみたいな。
(追記:WSDで習うファシリテーションに関する用語。詳細は検索してね)

ちょなん: うん。このあたり、会社でいうとプロジェクトリーダーやチームリーダーっていう人が最初は音頭をとるんだけど、メンバーに少しずつ権限移譲していって、みんながリーダーです、みたいな。みんなマネージャーですみたいな、セルフマネジメントの世界にもっていくのとけっこう近しいかなと思ってて。
 ファシリテーターが介入し続ける場っていうのは、要はマイクロマネジメントしてるチームみたいなものにけっこう近い気がしていて、ファシリテーターが離れても、参加者であったりメンバーひとりひとりが自分たちで考える場を作っていくっていうのが僕は理想だと思ってるので、そういった理想のチームであったりとか、コミュニケーションっていうのを結構ワークショップで作ってるなっていうのはよく考えてることかな。

それは "ちょなんらしい" 在り方なのか?

かな: なんか、ここまで聞いて「その人らしくそこにいてくれる」っていうのがちょなんにとってけっこう大事なことなんだな、って感じながら話を聞いたけど、うん・・・ちょなん自身は、自分が会社の中にいて、自分らしくいられてる、と思う?あと、自分らしくいるために何かしてることってあるのかな?
 なんでそれを聞いてみたいなと思ったかっていうと、ちょなんは、一緒になにかやるときにあんまり自分をグイグイ出してくる方じゃないじゃん?
私はわりと「私はそれはさ!」っていうのを言う方だけど、ちょなんは別にそういうことないよね。静かに待っててくれて、みんなが、こうなんだろう。ひとしきり盛り上がった後に「それってこういうことだよね。こうしてみるとよさそう」とか「こういう事例があるよ」っていう、決して押しつけない、選択肢を示すっていうような関わり方をしてることが多いなっていう風に私は思っていて。
 なんか、それはちょなんらしくある ”在り方” なのか?それとも何か普段からそういうことを意識しているのか、どっちなのかなって思って。どっちでもないのかもしれないけど。どう?

ちょなん: その辺、なんか最近わりと捉え方が変わったなって思うのが、なんだろう。
 それこそ耳偏の聞く(聴く)じゃないけど、よく言われる「話す役割」と「聞く役割」でいったら、なんか、どうしても話してる人の方が「何か主張してる」とか「その場を作ってる」っていう考えに至りやすい気がするんだけど、僕は、聞く側も十分主張してるなと思っていて。それは「何を聞いてるか」とか、「どこを深掘るか」っていうので、明らかに意図があって聞いてるし、そこに対して何か「ふんふん。すごい面白いね」とかって、すごくそれに対してリアクションして、みたいなことであったりとか。
 僕は、コミュニケーションを取りながら、聞くっていう形でけっこう自分の好きなことを聞いてるし、そこに対してなにかを加えて自分の話をしている、みたいなことで。なんだろうな・・嫌なのは、そのAさんの意見を、「いや、それちょっと違うんで」って言って自分の意見をかぶせるのはあんま好きじゃなくて。Aさんのを「それすごくいいっすね」って受け入れてから、"Yesアンド" みたいな話で。「そこ、すごくいいすけど、さらにこうしたらもっと良くなるんじゃないですか」みたいな、一緒に何かを作ってくみたいなものの方が多分好みに合ってるから。
 なんか、そうだな、聞くことに徹しすぎて主張が足りてないような気がしてたんだけれども、なんか、わりと聞く中で主張してるような気が最近はしている。聞くのが好きっていうのもあるんだと思うけど。

かな: なるほど。

ちょなん: "聞く" ことによって「何か、誰かを引き立てたい」とか「誰かにスポットライトを当てたい」なんて、なんかこういう言葉づかいすると、演出家ですか!?みたいな話だったりもするじゃん。

かな: なるほどねー。だから、ちょなんにとって聞いてる自分は、無理をしてないってことだよね。黙ってられないのに一生懸命黙ってるっていうわけではなくて。聞いてていろいろ考えてる自分がノーマルモードです、みたいな。

ちょなん: そうそうそう。なんかね。そう。なんかそこがね・・・・

かな: それでちょなんらしいの?

ちょなん: あと元々、内的傾聴って言ったらあれだけど、人の話を聞いて、頭の中でずっと何か脳内検索してるようなタイプだったから。なんか、ひとこと言われたものに対して10個ぐらいURLを出し返す、みたいなことを昔はよくやっちゃってた。基本的にはそういうタイプなんで話しながらも頭の中にポコポコポコっていろんなものを連想するっていうのが続いてるんだけれども、それにとらわれたりしてもなにか、あんまり最近は価値とか意味を感じてないので、それを結構片っ端から捨てる、手放すみたいなことを最近はたくさんしていて。たまにそれを求められることがあるけれども、押し殺してるわけじゃないんだけどね・・・そう・・

かな: 無理してるわけではない?

ちょなん:  無理にはなってないかな。

かな: なるほど。もう少し聞いてみたいと思ったのは、その「脳内検索してる」は、連想されるものがパッて出てくるってこと?

ちょなん: あ、そう。話しながら出てきた概念みたいなものと結びつけて「これと似てるな」っていうのが結構、たくさん出て来てしまいがちなところがあって、昔はもう、それにとらわれて、話しながら、どっかお余所の世界に旅立つ、みたいなタイプだったから。

かな: なんで価値を感じなくなった、手放せるようになったの?

ちょなん: それこそ、傾聴のトレーニングといったらあれだけど、Search Inside Yourself ってプログラムのマインドフルリスニングとかと出会って、みたいなところからかな。なんか、人の話を聞かずに自分の話ばっかり頭の中でたくさん聞いてたな、みたいなことを自覚してから、会議とかミーティングにも集中しやすくなってる、っていうのはありましたね。

かな: それは、もっと人の話を聞いた方がいいな、って思ったってこと?
聞けてなかったなって思ったってことは、聞いた方がいいなと思ったってことかなって思ったんだけど。

ちょなん: そうだね。だって、脳内検索して出てくるものなんてさ、自分が全部知ってるものだからね。なんか、そんな、自分が「知ってるもの」よりも、目の前の人が話してくれてる「なんか知らないもの」の方が面白いっていうことに気づけたのかもしれない。脳内検索ばっかりしてても、ヒットしてるもの全部が知ってることだから、それにとらわれてると面白くないよねっていう。それを面白いと思ってた時期であったりとか、それが個性だと思ってた時期もあった気がするけど。

 なんか今話しててすごい整理された気がする。面白くなかった気がする。面白くないって思ったから、なんかそれを手放してるのかもなっていう。自分にとって。相手にとっては価値があるケースはあるけど、もちろん相手が知らないことであったりとかでも「ただの情報」だから、どちらかっていうと、この場でね、相手の話を聞くであったり、この場で生まれるものの方がよっぽど尊いって言ったらあれだけど・・・味わい深い。この場で生まれてるしって。

2018年ごろのちょなんはどうだった?

かな: なるほど。「脳内検索をしてたちょなん」は、わかるなと思った。わかるなって言ったらあれだけど。WSDにいた頃はそうだったよね?たぶん。

ちょなん: どうだろう。でも、さっきのマインドフルリスニングに出会ったのが2017年だから、集中傾聴とかマインドフルリスニングはわりと習慣化はしてた気がする。2018年だと。もしかしたら「情報の話を出す」は、バランスを見て、必要なときに出すだったりとか、話し終わった後に出すとかは意識してたかもしれない。

かな: なるほど。なんで私がそう思ったかっていうと、私たちWSDのとき一緒に朝活とかやってたじゃん。WSD終わってからも何回か2人でモーニングやったりしてたけど。そのときに、ちょなんはいろいろ教えてくれるけど、ちょなん自身はどう思ってるんだろうなーって思うことは度々あったんだよね。(追記:この辺りの経緯については、本記事の前編をご覧ください)

ちょなん: そうなんだ。

かな: うん。なんか、いつもいろんなこと教えてくれて「それこういうのがあるよ」とか、「誰々さんこういうこと言ってるよ」って教えてもらってたんだけど、そういえばちょなん自身がどう思ってるか聞かなかったなーって、その場では気にならないんだけど、後から思ったときに聞かなかったなって思ったことが結構あって。
 そのイメージがあって、でも今年、A社で一緒に仕事するようになって、二人で話したりしたときに、あーなんか私が知ってるちょなんとちょっと違うな、変わったなって思ったんだ。より自己開示の度合いが高いというか、どう思ってるかっていうことを「けっこう言ってくれてるな、前も言ってくれてて聞いてなかっただけだったのかな」とかって思ってたのを今思い出した。二人プロジェクトだったっていうのもあるかもしれないけど。

ちょなん: A社に関わり始めて、感じてることとか気になったことを口にすることをより強く意識したっていうのは確かで、その分、情報を手放したっていうか。頭の中にポコポコ情報が出てきちゃってるけど、それを何か手放す機会は昔より増えてるといえば増えてるかもしれない。やっぱり、心を動かしたりとかするときに情報が邪魔になると言ったらあれだけど。頭の中にやっぱりわいちゃうけど、ちょっと寄せといて、と。

かな: なるほど、なるほど。そうだねA社はそれが許される環境だよね。企業内においては「お前が思ってることはいいんだわ」って言われることの方が大概な気がする。

ちょなん: そうだね。確かに感じてることとか思ったこととか違和感みたいな話とかすると「なんすか、脱線ですか?」みたいな。

かな: A社で「GoGo脱線!」みたいなのが許される環境にあって、より強化されたみたいな。私もA社と関わるようになって、それはあるなーって今思ったよ。たしかに。

ちょなん: システムの中の世界でよく出てくるよね。「感情的になることはよくありません」みたいな。議論の場とかで「ちょっと感情的になっちゃってごめんなさいね」みたいな。

かな: そう。感情のままにキレるのはどうかと思うけど、でもカチンときたときはそれをストレートに表現してもいい気がするよね。「この人そんなに頭にくるぐらい嫌なことだったんだ」っていうのは怒って初めて伝わる気がする。「ごめん。そんなやだったんだね」って。

ちょなん: いや、大事だよね、怒るとか。それこそ、世の中の負を解消しよう、みたいなのも怒りがないとそれを「なんとかしてやろう」と思わないでしょ、みたいなこととか。

かな: そうだよね。パワーって言うかエネルギーだよね。

ここまで話してみてどうでした?

かな: ということで、これをどうまとめようかなというのはさておき、めっちゃ面白かった。ちょなんと私、けっこう共通点はあって、たぶん目指してる世界は一緒だけど、アプローチ方法が違うなって感じました。ここまでしゃべってみてどうでしたか?

ちょなん: さっきの脳内検索の話じゃないけど、基本的に子供の頃からめちゃめちゃ飽きっぽいので、なにか自分が「わかった」と見なしてるものとかって、なんか・・・なんだろうな。やっぱり、より面白い方向に行きたいっていうのがあるから面白くないと手放すようなところがあるな。
 あと、最近考えてたのが、「組織開発」や「プロセスワーク」とか「WSD」とかに共通するのが、多くの人にこれは「非常識」じゃないですか。「常識」の中にないじゃないですか、そんなもの。

かな: マイノリティだよね。 

ちょなん: うん。このマイノリティ、「非常識」のものを、どう常識に持っていくか、みたいなところに結構やりごたえを感じる。10年ぐらいのスパンで考えたら少しずつ「常識」にパラダイムシフトにして行くんだろうけど、自分としてもこの非常識を常識に持ってくっていく・・・難しそう、やり方どうやるの、とか、悩みながらやるみたいなものが好きっていうのはあるかもしれないし、よくわからないのもに心ひかれるっていうのがなにかかあるんだろうなって思う。
 心っていうか、僕の中だと、エンジニアやって仕事してるときに心を殺しながら仕事するみたいなことやっちゃってた時期があるから、今も感情をちょっと押し殺しちゃう、みたいな。映画を見ててなんか泣きそうだけど、なんかちょっとこられてしまう自分がいるみたいな。泣いてしまえばいいじゃない、みたいなことだけど。ちょっとなにか我慢してしまうとか、他の感情を抑えちゃうみたいなところがあるから、感情っていうのが何か自分の中ですごく難しいと思ってる。だからこそ扱いたいっていうのがあるかもね。よくわかってないし、プロセスワークなんてめちゃめちゃ心の世界じゃん。カウンセリングとか。最近、なんかよくわからない方を選びがちな気がするね。

かな: ありがとうございました。いや、まだ聞きたいことがあるんだけど。
 なんでその非常識を常識に持っていきたいのかな、とか。大変なところに挑むその心は?みたいな。

ちょなん: もちろん全てのマイノリティがマジョリティになればいいとか思ってるわけじゃないんだけど・・・例えば、WSDも、社会構成主義みたいなものも知っていて、その恩恵を受けてきた世代とそうじゃない世代が分かれていて。その中で「みんな、ちょっと常識をアップデートしないと疲れませんか?」みたいなもの。我々にとっては自明的なもの「こっちの方が良くない?」っていうものが、非常識扱いされてのを常識に持っていけたらいいなって思う。まぁ、あれかもね。マイノリティとしても自分が生きやすくなるように、が一番大事かもしれないけど。

かな: それはわかる。なるほど。あっという間に時間だね。どうまとめるか考えて、またインタビューさせてもらうかも。

ちょなん: おかわり?笑

かな: そう!おかわりインタビュー笑。ということで今日はありがとうございました。

前後編を通して最後に

 書き起こして最初に思ったのは、自分への突っ込み。興味の赴くままに聞き進め過ぎだろ!インタビューのセオリーとしては、もう少し「こう受けとりました」を丁寧に相手に返すような進め方を心掛けるべきなのではないだろうか。完全に自分の理解のもと、自分が聞きたいと思っていることを聞いているインタビュー。言葉にはしてないけど、顔面とジェスチャー、体で相当のリアクションを返しながら聞いている自信はあるけど、もう少し言葉でも返そう自分。下手すれば「質問攻め」になっているのではあるまいか。
 という自分のインタビュースキルの拙さは後でたっぷり反省するとして、ここまで踏み込んで話してくれたちょなんには感謝しかない。ありがとう。逡巡し、言葉を選びながら自分の想いを言葉にしてくれたちょなんの誠実さが読んだ人にも伝わるといいと思う(届け!)。

 「ちょなんにとってのワークショップ」は、私には思いもよらないものだったけど、でも二人が場に対して願っていることは似ていて、違うアプローチ方法があることが発見だった。WSDで学んだ「他者を通して自己理解を深める」自明性というのは、こういう時間の積み重ねだと改めて思う。そして、前編でも触れた私の中のちょなんのイメージの変化も、このインタビューで裏側をのぞけたようで大いに腑に落ちるものだった。「生きることは変わること」私が大事にしたいのはこういうことだな、と、前編に引き続き、改めて思った。

 今回、これを書き始めてからなかなか終わりが見えなくて大変だったけど、言語化することで気付くことも多く、書きあげられてよかったと思う。改めてアドベントカレンダーに誘ってくれたちょなんには感謝。そして、ここまで読んでくれたあなたにも感謝。ありがとうございました。

これは、WSD Advent Calendar 2022 の7日目 の投稿です。
私がちょなんにインタビューしてもらった記事は1日目に投稿されています。


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