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20181003 お砂糖の散つた絵本と鱗雲

お砂糖の散つた絵本と鱗雲

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松本大洋を見た。

胸がどきどきした。身体の何処か深いところから、感情のようなものが押し寄せてきて、涙が浮かんだ。周りを見渡したけれど、泣いているひとはいない。そのひとを皆いっせいに見つめているひとたちは、泣いてはいないけれど、瞳がとても輝いて見える。涙をこぼしたってきっといいのに、わたしはこういうときに感情を抑えてしまう。自分を表に見せることをためらってしまう。つまらない、本当につまらないなあと思う。

ものをつくるひとは、神様だと思う。わたしは、映画やテレビ、絵や小説、漫画など、誰かが作り上げたフィクションの世界がとても好きだ。でも、作品を見て感動しても、涙までは流せない。もちろん心は揺さぶられるのだけれど、それを純粋に楽しんでいるだけにとどまる。わたしは、作品のメイキング映像や、作者の作品についての思いを文章で読むのがとても好きだ。それにはたまらず胸が熱くなってしまう。泣く。その作品が生み出される、現場の息のようなものを感じれば、もう、たまらないのだ。

松本大洋を見た。わたしは、神様に会った。

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9月16日、TOBICHI京都で行われた、松本大洋ライブペインティングに参加した。開店前から多くのお客さんが来ていたけれど、わたしは幸福なことに、2時からのチケットをいただくことができた。

わたしの番号は立ち見だ。一列目が椅子席になっていて、その後方に立ち見のひとたちがずらりと立つ。いちばん奥手の一番目に立つ。わたしたちがスタッフのかたに案内されているところに、もうすでに大洋さんがいた。みんな座ったり列移動をしながらも、たまらず、目線は大洋さんのほうをちらちら見ているようだった。

松本大洋さんは、松本大洋さんだった。つば付きのベージュの紐付き帽子から、短髪の襟足が覗いている。澄んだ瞳に、薄い唇。白いポロシャツに、紺色のジャケットを羽織っている。黒いパンツスタイル。白いスニーカーから、白い靴下が見える。肌は白く、小柄なかただなと思った。すでにたくさんの絵に彩られた白い紙を見つめている瞳には、眼鏡。黒縁の眼鏡だった。

このひとが、シロやクロ、ペコを書いたんだ。驚きはなかった。ああ、絶対に松本大洋さんだ、と陳腐なことを思ったりもした。

わたしの立つ場所は大洋さんの画材が置かれた目の前の場所で、わたしは大洋さんも見たいんだけれど、大洋さんの空気が感じられる画材たちからも目が離せなかった。布で巻くような形の筆箱が開かれていて、ミリ単位で太さの違うペンが何本かある。平筆、面相筆。黒いインク瓶が2種類あって、一方の瓶の蓋には小さく切った紙が貼り付けてあって「濃」と書かれている。

大洋さんのジャケットのポケットには丁寧に削られたユニの鉛筆が一本入っている。画材置場にはプリントアウトされた写真が数枚重ねられている。一番上の写真はロールアップされたジーパンに羽根が生えたスニーカーが地面を強く踏みしめている。

大洋さんはスニーカーの写真を手に取った。画材置場を見て、きょろきょろと何かを探している。すかさずスタッフのかたがポケットに差された鉛筆の存在を伝える。はた、と気がつく大洋さん。

木製の脚立に乗って、白い紙のまだ白いところに鉛筆で当たりをつける。写真に目を落とし、紙を見上げる、その仕草を繰り返しながら、少しずつ形を描いていく。とても丁寧に観察してものを描くかただ。少しずつ、少しずつ、ジーパンが現れて、靴紐が現れていく。紐のあたりから羽根が描かれ、スニーカーが生まれた。黒い細いペンで丁寧になぞっていく。濃さの違う黒インクが迷いなく湿り質感を生み出す。写真も十分に力のあるものだったけれど、大洋さんの手で生み出されたその瞬間は、松本大洋の世界のひとつとしてもともとあったかのような、ことのように思う。

スニーカーを書き終えた大洋さんは、脚立を降りて、場所を移動する。紙の正面の下の方のスペースに、こどもを背負った母親の写真を握って、今度は直接黒ペンであたりを取っていく。優しい線に、優しい表情が生まれていく。片手でしっかり握られた写真を見ては、離して、見ては離して。生まれる暖かな世界。

優しい親子が生まれて、大洋さんはまた移動をする。全体を見て、すでに書かれている京都の街並みに近づき、ペンを足していく。街が、完成されていく。いまわたしたちがいる、この街が描かれていく。知っている風景を大好きなひとに表現してもらえるしあわせったらない。

わたしたちがこの空間にいることを許されるのは、15分間。その終わりを告げる小さなアラームが鳴る。静かにスタッフのかたが「そろそろ時間になりましたので」と、穏やかに声をかける。わたしたちは、一斉に大きな拍手をした。ありがとう。本当にありがとうと思って。

わたしは名残惜しくて、帰り際に大洋さんに振り返った。少しだけ目があった気がしたので、小さく「ありがとうございました」と言った。会釈をしてくださる。

大洋さん、わたし、中学生の頃から、あなたの作品がとても好きなんです。本当に、本当に、今日はとてもうれしい。これからもずっと好きです。

心の中でそんなことをたくさん想って、奇跡のような空間を後にした。

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