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富山の旅

 この記事に目をとどめていただき、ありがたうございます。一人でも見てゐてくれたら、さう思ひ筆を執つてをります。どうか、最後までお付き合ひください。

家持と越中

 今から三年前の三月の暮れに、富山を旅しました。天平十八年(746)六月に越中守となつて当地に赴任し、多くの歌を詠んだ大伴家持の故地を訪ねる旅、そして現地の鉄道に乗る旅です。なほ、家持は越中守であつた間に二百二十三首の歌を『万葉集』に残してゐます。その珠玉の歌の数々は、今なほ私どもの心打つことでありませう。

 ちなみに、この当時の家持について、『維新と興亜』に「大伴家持の美意識と苦悩」と題して書かせていただきました。そちらもお読みいただければ幸甚です。

高速バスの旅

 旅のはじまりは、高速バスです。三月二十六日。池袋から西武バスの富山方面行きに乗りました。そこそこの乗車率でした。新幹線が開通してゐても、昼間に走るバスを利用する人はそれなりにゐるんですね。安いからでせうか。
 車内ではひたすら本を読んでゐたので、特筆すべきことはありませんが、長野の辺りで浅間山がはつきりと見えました。ほんのわづかですが、信濃川も見えました。

 信濃なる 千曲の川の さざれ石も 君し踏みてば 玉と拾はむ (巻十四・三四〇〇)
 (信濃にある千曲川の小さな石でも、大好きなあなたが踏んだのならば宝石として拾ひませう)

 東歌のみならず、『万葉集』中でもつとも美しく純粋な歌。この歌が千曲川からただちに思ひ出されました。

富山到着

 昼過ぎに、富山駅に着きました。
 すぐに富山地方鉄道、富山ライトレール、路面電車の乗り潰しに出掛けました(黒部峡谷鉄道は、十年以上前に完乗してゐたので入つてゐません)。富山ライトレールは、富山港線時代に乗つてゐましたが、改めて乗車しました。LRTは好きなので、楽しいですね。
 富山ブラックラーメンを食べ、ひたすら電車電車電車です。なので、特筆すべきことはありません。

越中万葉故地巡り

 今日は本番です。三月二十七日。高岡駅から万葉線に乗ります。路面電車のやうな万葉線はドラえもんラッピングがされてゐます。さう、高岡は名作『まんが道』にもあるやうに藤子不二雄の出身地なのです。

奈呉の江

 終点の越ノ潟駅に着きました。ここは家持の歌に出て来る奈呉の江です。この時間帯は晴れてゐて雲もなく、幸ひにも立山を見ることができました。この辺りを歩いて、奈呉の海を見て、放生津八幡宮を参拝しました。家持が宇佐八幡宮から勧請したと社伝にあります。
 この地は、家持以外にも、後醍醐天皇の皇子で、

 君がため 世のため何か 惜しからむ 捨てて甲斐ある 命なりせば

の御歌を詠まれた宗良親王ゆかりの地として知られてゐます。越中での御歌。

 ふるさとの 人に見せばや たち山の 千年ふるてふ 雪のあけぼの

なほ、以下に引いてゐる歌は特にことはりがない限り、大伴家持の歌です。

万葉線 越ノ潟駅
奈呉の江
奈呉の江(うつすらと立山が見えてゐます)
奈古の海
放生津八幡宮
放生津八幡宮由来

 奈古のあたりを詠んだ歌。この歌には、越中国の言葉として「あゆのかぜ」を使つてゐます。

 東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ (巻十七・四〇一七)
 (東の風が強く吹くらしい。奈呉の海で海人が釣りしてゐる船が波に漕ぎ隠れるのが見える)

 新湊きっときと市場を冷やかした後、再び万葉線に乗り、中伏木駅で降りました。近くには射水川が流れてゐます。

射水川

射水川と二上山

 朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 歌ふ船人 (巻十九・四一五〇)
 (朝の寝床に聞いてゐると、遠くから歌が聞こえてくるよ。射水川で朝、船を漕いで歌ふ船人よ)

 向かうには二上山が見えてゐます。家持の二上山の賦が知られてゐませう。

 たまくしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋ひしき 時は来にけり (巻十七・三九八七)
 (二上山に鳴く鳥の、声の恋しい時が来たことよ)

「海ゆかば」誕生の地

 橋を渡り、少し歩けば、越中国国守館跡に着きます。ここで、あの「海ゆかば」が作られたのです。とても感慨深いものがありました。私の感慨深さ以上に、聖武天皇の宣命に大伴家を讃へられた家持の感動は大きかつたことでせう。
 「海ゆかば」が書かれてゐる長歌はとても長いのですが、敢へて引きます。ご容赦ください。

 賀陸奥国出金詔書歌一首幷短歌
 葦原の 瑞穂の国を 天降り 知らしめしける
 すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と
 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には
 山河を 広み厚みと たてまつる 御調宝は
 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大皇の
 諸人を 誘ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて
 黄金かも たのしけくあらむと 思ほして 下悩ますに
 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に
 黄金ありと 奏し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ
 天地の 神相うづなひ 皇御祖の 御霊助けて
 遠き代に かかりしことを 朕が御代に 顕してあれば
 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
 もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 
 老人も 女童児も しが願ふ 心足らひに 
 撫でたまひ 治め賜へば ここをしも あやに貴み 
 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の 
 その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官
 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 
 大皇の 辺にこそ死なめ かへり見は せじとこと立て
 ますらをの 清きその名を 古へよ 今のをつつに
 流さへる 祖の子供ぞ 大伴と 佐伯の氏は
 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず
 大皇に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ
 梓弓 手に取り持ちて 剣太刀 腰に取りはき
 朝守り 夕の守りに 大皇の 御門の守り
 我をおきて また人はあらじと いや立て 思ひし増さる 
 大皇の みことの幸の 聞けば貴み (巻十八・四〇九四)
 (この豊な国を、天より降られてお治めになつて皇祖の神の御代を重ねて、天の日嗣として治めて来られた天皇の御代御代に、統治される四方の国には、山も川も豊なので納められる宝物は数へ切れません。しかしながら、我らが天皇は多くの国民を導かれ、立派な事業をお始めになられてから、黄金がたしかにあるだらうとお考へあそばされ、心を悩ましてをられました。さうしましたところ、東北の陸奥の小田の山に黄金があることと申し上げますと、御悩みがお晴れになりました。「天地の神々も受け入れてくださり、皇祖の神々も助けてくださり、遠い御代からかうしたことをまた私の御代にもお見せしてくださつたので、わが統治する国は繁栄するだらう」と、天皇は神の御心のままにお考へになり、多くの臣下を従へ国を治められる一方、老いた人も女子も子供も、その願ひが心のままに満足するやうにさせ、治められる。そのことを私は、貴くありがたいとますます思ふのです。大伴の、遠い先祖のその名を大久米主として名乗り、朝廷に仕へて来た氏は「海に行けば水に漬かる屍、山に戦へば草の生へる屍、大皇の近くで死なう。自らの身は顧みず」と誓ひ、ますらをの清いその名を昔から今に伝へて来た一族なのです。大伴と佐伯の両氏は、祖先の誓ひにより、子孫が祖先の名を絶やさず、天皇に仕へるものとしてきた。その誓ひ通りの役目の氏です。梓弓を手に持ち、剣を腰に帯び、「朝といひ夕といひ、天皇の御門の守護をするのは我ら以外にない」と、心を奮はせる。天皇の御言葉の幸ひを聞けば貴いので)

 反歌
 ますらをの 心思ほゆ 大皇の みことの幸を 聞けば貴み (巻十八・四〇九五)
 (ますらをの心が思はれる。天皇の御言葉の幸ひを聞けば貴いので)

 大伴の 遠つ神祖の 奥津城は しるく標立て 人の知るべく (巻十八・四〇九六)
 (大伴の遠い先祖のその墓は、はつきりとしるしを立てよ。皆がわかるやうに)

 天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 黄金花咲く (巻十八・四〇九七)
 (天皇の御代が繁栄するだらうとして、東国の陸奥の山に黄金の花が咲く)

 『万葉集』中、三番目に長い長歌です(一番長いのは柿本人麻呂の高市皇子への挽歌で、二番目は巻十六に収められた竹取翁の歌です)。折りしも奈良では聖武天皇の発願により、東大寺の大仏造営の最中でした。しかし、鍍金用の金が足りません。どうしたものかと悩んでゐたその時、陸奥国小田郡(現在の宮城県遠田郡)で黄金が掘り出されたのです。これで大仏が造れる。この時に、聖武天皇の詔書が出されます。その報せを聞き、家持は「海ゆかば」を作りました。時は、天平感宝元年の五月十二日のことでした。
 信時潔の作曲で、よく知られたこの歌は、実に荘厳です。そして、日本精神の極致を、国体の精華をあらはしてゐるといへるのではないでせうか。『維新と興亜』にも少し触れてゐますので、お読みいただけたら幸甚です。また、特に素敵な「海ゆかば」の動画を貼り付けますので、ご覧ください。涙が出るほど、美しいです。

伏木中心部案内
国守館址碑
国守館址

 この「海ゆかば」の長歌に関連して、平泉澄先生は、

 先祖代々、この気象を誇りとして、武士道の精神が、愈愈鞏固になつて行つた趣は、この歌によくあらはれてゐる。それと同じ心は、大伴古慈悲が讒言によりて出雲守をやめられた時に、家持が大伴の一族をさとした歌にも明瞭にうかがはれる。その長歌には、天孫降臨以来、弓矢をとつて御仕へした名誉ある先祖の歴史を述べて、その末の句に

 うみの子の いやつぎつぎに 見る人の語りつぎてて 聞く人の かがみにせむと あたらしき 清きその名ぞ おほろかに 心思ひて むなことも おやの名断つな 大伴の 氏と名に負へる ますらをの伴

 剣刀いよよ研ぐべしいにしへゆさやけく負ひて来にしその名ぞ

とある。先祖の名を誇り、それをけがすまいとして、愈々武勇を励まうとする心、当時、特に武士といはず武士道といはないにしても、これを源平時代の武士の精神と比較するに、全く同じ心持ではないか。
平泉澄先生『先哲を仰ぐ』錦正社 所収「武士道の神髄」

と述べてをられます。同感です。

寺井とかたかごの花

 国守館跡を出てしばらく歩けば、勝興寺に至ります。ここは、国庁跡といはれてゐます。このあたりで家持は政務を執つたのでせうか。寺の裏手には井戸があり、これが、

 もののふの 八十をとめらが 汲みまがふ 寺井の上の かたかごの花 (巻十九・四一四三)
 (多くの少女たちが入り乱れて水を汲む、その寺井のほとりのかたかごの花よ)

の寺井とされてゐます。

寺井
犬養孝先生歌碑

 次に、かたかごの花を見に、高岡市万葉歴史館に向かひます。千鳥しば鳴く田舎道を歩くのは、心地が良いものです。

 しなざかる ふたかみやまに うぐひすの なくこゑきけば 古へ思ほゆ 可奈子

 この間、私の母校がセンバツ甲子園大会で試合をしてゐました。逐一確認してゐましたが、負けました。
 万葉歴史館に着き、見学しました。特に見るべきものもありませんでしたが、ちやうど咲いてゐたかたかごの花を見付けることができました。かたかごの花とはかたくりのことです。小さな花ですが、私の好きな紫色の、可憐な花です。かたかごの花は『万葉集』では家持に前の一首のみ、詠まれました。

かたかごの花(かたくり)

越中国分寺

 万葉歴史館から越中国分寺跡を見、気多神社及び大伴神社を参拝しました。ここも『万葉集』に関係があり、家持が越中国分寺にゐた国師の従僧である清見に酒と共に送つた歌があります。

 一本の なでしこ植ゑし その心 誰に見せむと 思ひそめけむ (巻十八・四〇七〇)
 (一本のなでしこを私が庭に植ゑたその心は、誰に見せようと思つたのでせう)

越中国分寺跡
越中国分寺跡

 伏木高校の脇を歩き、海に出ました。氷見線の車両が通過して行きます。雲が出て立山が見えなくなりました。

渋谿の磯

 さらに北に歩き、ついに雨晴海岸に至ります。雨晴の地名は、源義経と弁慶の故事に由来します。平泉に向かふ途中、折りしも雨が降つてきました。その時、弁慶が岩を持ち上げて雨宿りをしたといふのです。ここには義経を祀る義経神社も鎮座してゐます。なほ、義経は平泉澄先生が高く評価されてゐます。

 義経の末路、頼朝の勢威四海を圧する時、之に逆行する義経は身の置き所も無いのに、随従の人人は離散しない。吉野山に於いて危難に遭遇すれば、主人に代つて敵を防ぐのは、(佐藤)継信の弟四郎兵衛忠信である。山伏姿になつて北国に落ちる時にすら、猶離れないのは武蔵坊弁慶であり、常陸坊、伊勢三郎、片岡八郎、鷲尾十郎、亀井六郎等であり、それらの人々は、文治五年の閏四月三十日、義経三十一歳にして自害するまで、随従して運命を共にした。(中略)
 義経は稀代の名将であつて、戦術の妙、人の意表にいで、世の驚嘆する所であつた。然し義経には、兄の頼朝に代つて天下兵馬の権を我手に収めようとする野心、微塵も無かつた。その目的とするところは、腰越状に於いて自ら告白する如く、「本意、しかしながら亡魂の憤を休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲するの外、他事なし」、父義朝の敵を打つて、その恨をはらしたいと云ふに在り、つまる所は親を慕ふ孝子の情より出てゐるのである。
平泉澄先生『首丘の人 大西郷』錦正社

 義経は強い人だつただけではなく、情の人でした。だからこそ、彼と運命を共にし、黄泉の国までついて来た人たちがゐたのでせう。静御前が頼朝の前で義経を思つて歌つた、

 しづやしづ 賤のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな

『伊勢物語』を踏まえたこの歌にも義経といふ人物の情の深さを察することができませう。 

 では家持の渋谿の磯の歌を見てみませう。

 馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き磯みに 寄する波見に (巻十七・三九五四)
 (馬を連ねてサア行かうか、渋谿の清き磯に寄せる波を見に)

 渋谿の 崎の荒磯に 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ (巻十七・三九八六)
 (渋谿の崎の荒磯に寄せる波のように、しきりに古へのことが思はれる)

 磯の上の つままを見れば 根を延へて 年深からし 神さびにけり (巻十九・四一五九)
 (磯の上に立つ、つままを見ると、根をはつてゐて幾年も経つてゐるやうで神々しいことだ)

 いにしへの ひと馬並めて しぶたにの きよき磯廻を けふ見つるかも 可奈子

 雨晴海岸には道の駅雨晴があります。

ここで昼食のパスタを食べてゐたら、かつて女子校で共に学んだ生徒たちから電話がありました。
 「先生、今何してるんですかー?」
 「今は富山で史跡を訪ねてるよ。四月から埼玉の高校に勤める予定だよ」
 などと他愛のない会話をしました。一緒に学んだ子たちが卒業してからもかうして一報くれるのは、ありがたいことです。

雨晴海岸 南を望む
雨晴海岸 北を望む

布勢の水海

 雨晴駅前からバスに乗り、氷見方面に向かひます。駅に着く直前でバスを降り、しばらく西に歩いて行くと、古くは布勢の水海と呼ばれた十二町潟水郷公園に着きます。ここは、かつて家持がたびたび尋ねた場所であり、田辺福麻呂もここに来てゐます。昔はそれなりに大きい湖だつたさうですが、今では干拓されて小さな川のやうになつてゐます。

 布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや年のはに 見つつ偲はむ (巻十七・三九九二)
 (布勢の湖の沖の白波のやうに、いつも通ひ続けて、毎年見て一層偲ばう)

 如何にある 布勢の浦そも ここだくに 君が見せむと 我を留むる (巻十八・四〇三六)
 (一体、どれほどまでに美しい布勢の浦なのか。これほど、あなたが見せてくれようと、私を引き止めるとは)

 二首目は田辺福麻呂の歌です。今では、白波が立つやうな大きさはありません。しかし、現地に立つてみると、いにしへ人が訪れて宴をした姿が想像できませう。

十二町潟
十二町潟
十二町潟
犬養孝先生碑

立山を見ながら

 布勢の湖から歩いて氷見駅に帰り、高岡に帰ります。途中、松田江の長浜がチラリと見えました。高岡駅の手前である越中中川駅で降りました。駅から歩いてしばらく行くと、高岡城址に至ります。私は城にあまり興味がないので、目的地である射水神社を参拝しました。城の中には小さな動物園があります。ふくろふが本当に可愛いです。

 み越路を 統べる射水の 神々に 祈りたてまつる 旅行くわれは 可奈子

 また、高岡古城公園内には、護国神社も鎮座してゐます。欠かさず参拝し、英霊に感謝を奉告し、城を出ました。この辺りも『まんが道』に描かれてゐますし、しばらく行けば高岡大仏があります。
 高岡駅から金沢に移動し、駅前のホテルに泊まりました。

 翌日は高速バスで帰るだけですが、未乗車だつた北陸鉄道に乗り、無事に完乗しました。
 帰りはバスです。バスは片貝川を渡り、車窓に右手には立山がよく見えました。

 立山に 降りおける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし (巻十七・四〇〇一)
 (立山に降り積もる雪を夏の盛りに見ても飽きない。神のままにあるらしいことよ)

 片貝の 川の瀬清く 行く水の 絶ゆることなく あり通ひ見む (巻十七・四〇〇二)
 (片貝川の瀬の清く流れる水のやうに絶えることなく通つて見よう)

 立山を 雲なかくしそ くさまくら たびの終はりに 見つつ偲はむ 可奈子

追記
 この旅から帰つて間もなく、新元号「令和」の発表がありました。にはかに『万葉集』は注目され、本屋さんには様々な『万葉集』と関連書籍が平積みされました。しかし、かうした作られた流行もすぐに廃れるだらうと予想してゐました。結果は…読者の皆様の思つた通りでありませう。もし、ご自宅の本棚に『万葉集』が眠つてゐたら、たまには起こしてあげてください。

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。

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