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平泉澄先生『芭蕉の俤』覚書 その二

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。

 前回、平泉澄先生の『芭蕉の俤』(錦正社)について書いてをります。今回は、前回の西行に続き、実方について見て行きます。実方は藤原実方のことで、平安時代屈指のイケメンです。「百人一首」にも「さしも知らじな 燃ゆる思ひを」の歌が入つてをり、よく知られてゐます。なほ、私が高校生のころ、この「百人一首」の歌が好きで、かういふ歌を異性からもらひたかつたものでした。

 『芭蕉の俤』の「第二 実方」の内容を見てみませう。

実方の墓

 実方の墓は、宮城県名取郡愛島村鹽手にあるといふ。西行はこれを見て感慨に勝へず、
   朽ちもせぬ その名ばかりを とどめおきて
         枯野の薄 かたみにぞ見る
と歌つた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 JR東日本、東北本線の名取駅からタクシーで五分ばかりのところに実方の墓があります。ひつそりとしてをり、訪れる人も少なさうです。後世の人が植ゑたであらう、「かたみのすすき」が墓に向かふ途中にあります。
 なほ、「仙台の旅」は、私が実方の墓を訪ねた時のことにも触れてゐます。

実方の墓
かたみのすすき

実方の評判

 実方は、評判の高い人物でした。どのやうな評判だつたのでせうか。以下をご覧ください。

 一条天皇の御代には、名誉の歌人が多かつたが、実方は殊に評判が高かつた。大江匡房は其の著、続本朝往生伝に於いて、一条天皇の御代、すべての方面に才人傑士の多かつた事を説いて、和歌には則ち道信、実方、長能、輔親、式部、衛門、曽禰好忠と、七人を挙げてゐる。その歌は、実方の歌集も伝はり、また拾遺集、後拾遺集より詞花、千載、新古今その他、歴代の勅撰集に数多く収められてゐるが、今日之を読みかへして見ると、必ずしもよい歌と思はれないものが多く、其の名、頗る其の実に過ぐる感じがする。蓋し実方の当意即妙、言ひかけられては即座に歌ひかへし、多情多恨、流れて滞らざる歌才が、当時の好尚にかなつたのであり、更にその基調を探れば、容姿殊に優美であり、舞踊頗る巧みであつて、夢にも見るべき風流の貴公子ぶりが、宮廷にもてはやされたものであらう。
 雪の降つた朝の事である。弘徽殿の北おもてで出逢つた道長から(建治本実方中将集による)
   あしのかみ ひざよりしもの さゆるかな
と呼びかけられた。実方は直ちに答へた。
   こしのわたりに 雪や降るらむ
これなどは、まさに当意即妙といつてよいであらう。かやうな才は、当時もてはやす所であつた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 即座に歌を詠み返す才能は天性のものといつて良いでせう。まさに、彼は天才の一人でした。
 私も和歌(やまとうた)を嗜んでゐますが、当意即妙なる歌、即座に返すのは難しい。

 きかぬ気の清少納言さへ、実方の舞姿だけは、永久に忘れる事が出来ないとして、枕草子の、「なほ世にめでたきもの」の条に、臨時の祭をあげて、「少将といひける人の、年ごとに舞人にて、めでたきものにおもひしみけるに、」といひ、そのなくなつた事を嘆いて、「せちに物おもひいれじと思へど、なほこのめでたきことをこそ、更にえ思ひ捨つまじけれ」と云つてゐる。ところで清少納言集を見ると、彼女は遠くから実方の美しい舞姿を眺めてゐただけでは無く、親しく歌の贈答をしてゐるのである。即ち中宮が粟田殿におはしました頃、実方の中将がまゐつて、清少納言に向ひ、世間普通の態度で話しかけたので、彼女はつとそばへ寄つて、「忘れ給ひにけりな」と云つて立去つた。そこで実方より
   忘れずよ 又忘れずよ かはらやの
         下たく烟 下むせびつつ
といふ歌を送つて来たので、彼女は
   あしのやの したたく烟 つれなくて
         たえざりけるも 何によりてぞ
と反したといふのである。して見ると両人の間にはよほど親しい恋愛関係があつたに相違ひない。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 実方の慌てぶりが伝はりますね。清少納言は抜群の才女ですし、実方も天才。二人は、お似合にのやうに感じます。しかし、お似合ひの二人はなかなか続かないものなのは、今もむかしもさう変はらないものですね。

 以下の話しは、有名な事件に触れてゐます。諸説ありますが、お読みください。

 撰集抄によると、ある年の春、殿上人うちそろつて東山へ花見に出かけたところ、俄に心なき雨に降られて大騒ぎになつた中に、ひとり実方の中将のみは、少しもあわてず、桜の木の下に立ち寄つて、
   桜狩 雨は降り来ぬ 同じくは
         濡るとも 花のかげに かくれむ
と詠じつつ、漏りくる雨に、さながら濡れて装束をしぼつた。この話は、当時風流の佳話として人々にもてはやされ、翌日大納言斉信から主上にも奏上したところ、蔵人頭藤原行成これを批評して、「歌は面白し、実方はをこなり」と云つたといふ。「をこ」はいふまでもない、馬鹿の義である。
 桜狩の歌は拾遺集に見えるが、しかしそれには、題しらず、読人しらずとあつて、この歌にまつはる因縁は秘められてゐるが、それは恐らくこの歌から生じた波紋のあまりに大きかつた為にわざとおぼろげに記すをよしとしたのであらう。
 その重大なる波紋を記して、上に述べた撰集抄の記事と首尾一貫するものは、古事談である。実方は桜狩の一件によつて、深く行成にふくむところがあつた。間もなく両人は殿上で出会つた。出会ひがしらに実方は、いきなり行成の冠をたたき落し、小庭に投げ捨てて立去つた。行成は少しも騒がず、しづかに主殿司を呼んで之を拾はせ、砂を払つて之を著、「さてさて乱暴な公達だわい」とつぶやいた。之を小蔀より御覧になつた主上は、行成は召仕ふべき者だと思召されて蔵人頭に補せられ、実方は「歌枕見てまゐれ」とて、陸奥守に任ぜられた。
 事は桜狩の歌より起つて、遂に実方の陸奥追放とまで発展した。但し追はれたとは云ふものの、陸奥守に任ぜられ、堂々たる地方長官としての下向である。しかも其の時の仰せが「歌枕見てまゐれ」とある。面白く美しい話といつてよい。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 実方が陸奥守に任じられたのは、長徳元年正月十三日、そしてその赴任は秋の末である九月二十七日のことでした。このとき、

 三船の才をうたはれた四條大納言公任は、当時三十歳、官は参議、左兵衛督であつたが、実方とは平素親しい交友であつたので、歌を添へて下鞍を贈つた事が、拾遺集や公任、実方の家集に見えてゐる。歌にいふ、
   あづまぢの このしたくらく なりゆかば
          みやこの月を こひざらめやは
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

と歌ひ、別れを惜しんだのでした。なほ、実方の陸奥行きについて、諸説あるところです。

 光源氏のモデルとしては、栄花に道長を考へ、左遷に伊周や隆家を聯想したにしても、やはり光少将重家によつて其の名を考へ、実方の中将によつて其の人を作つたところが多からうと推せられる。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 『源氏物語』の主人公、光源氏は実方もモデルにしたといふ説です。興味深いものです。

実方の死

 実方はやんごとなき公達であつた為に、陸奥の武士共、大に之を尊敬し、その待遇は従前の国司と異なつて、夜昼怠らず奉仕したとは、今昔物語の伝ふるところである。また五月の節句に、陸奥ではあやめをふく風習が無かつたところ、実方は、「さみだれの頃など、軒のしづくも、あやめによりてこそ、今すこし見るにも聞くにも、心すむことなれば、はや葺け」と命じたので、あさかの沼のはなかつみを以て之に代用し、爾来陸奥では菰をふく事になつたとは、今鏡の説くところである。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社
 かやうに国でも重んぜられ、京でも待たれてゐたのに、漸く任期を終らうとする時分になつて、実方は不慮の最期を遂げた。それは名取郡笠島の道祖神の前を通る時に、人諫めて、この神は霊験あらたかにして賞罰分明なり、下馬して再拝して通り給へといふを聞入れず、下品の女神に対して下馬する必要はないと、推して通つた為に、神罰をうけて変死したといふので、くはしくは源平盛衰記に見えてゐる。
 実方のなくなつたのは、長徳四年のくれであつたが、帰りを待ちわびてゐた京の人々は驚き悲しんだ。殊に女房達は大騒ぎであつた。やがて殿上に飛んで来て台盤に居り、飯を食ふ雀を見て、これは都恋しさに、実方の中将が雀になつて来たのだと云ひ出した事が、今鏡に見えてゐる。間もなく賀茂では、橋本に祠を立てて、実方を祀つた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 陸奥に赴任後、実方は優れた統治を行なひ、京都のみならず現地でも大切にされました。しかし、彼は道祖神に対し非礼を行なつたことで神罰を蒙り、亡くなりました。

 実方辺境に死して後百八十九年、文治二年の秋のくれ、西行は霜がれのすすきを分けて、野中に実方の墓に詣でた。この世の栄辱を放下して、富貴求むるところなく、武威恐るる所なき西行の目にも、是の時、涙があつた。
平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社

 西行は、実方を慕ひ、両者を慕つたのが芭蕉でした。芭蕉は、実方の墓を拝むことはできませんでしたが、遠く実方の俤を偲んだことは『おくのほそ道』に書かれてゐます。

 次回は「第三 木曾」について見て参りませう。(続)

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