思ひ出夜行 北陸・能登
いつもお読みいただき、ありがたうございます。鉄ヲタ女子、サウナー、断捨離マスター、そして歌人(うたびと)の玉川可奈子です。
暑い季節は好きですが、クーラーの風は苦手です。寒くて、自律神経をやられます。必然的に羽織るものが必要になるので、荷物が増えます。
一澤信三郎帆布のカバンを買つてしまひました…。
今回は、標記のとほり、北陸へ行く夜行列車を思ひ返します。どうか、最後までお付き合ひください。
寝台特急北陸
最終運転前日の乗車
寝台特急北陸の最終運転の前日。ある意味でとても有名だつた上野駅13番線ホームにゐました。
さう、北陸に乗るためです。
この日、たまたまお茶の水駅周辺にゐました。用事を済ませ、
「さういへば、北陸と能登がもう少しで廃止になる」
ことを思ひ出しました。
その日の二十時頃、御茶ノ水駅のみどりの窓口で聞いてみたら、B寝台が一席だけ空いてゐるとのことでした。キャンセルが出たのでせう。ただちに予約し、何の目的もないのに金沢まで行くことにしました。
否々、目的はあります。明後日には姿を消す寝台特急北陸に乗ることです。
さて、二十二時半を過ぎた上野駅の13番線ホーム。人だかりができてゐます。寝台特急北陸。金沢へ行くブルートレインの最後の姿を見届けようと、集まつた鉄道ファンや野次馬のやうな人の群れ。
彼らをすり抜けて、入線して来た北陸に乗り込み、指定されたB寝台下段に座りました。
夜行列車の独特のにほひがします。私は、このにほひがすごく好きです。いよいよ旅が始まる、さうした気持ちが昂ります。
手には、いつも通りの軽い荷物。トートバッグ一つに、旅に必要なものは全て詰まつてゐます。
ところで、車外もすごい人ですが、何やら車内も騒がしい。
大きなビデオカメラを持つた人。その人に指示する人。さらにそれを俯瞰する人。ガヤガヤとして落ち着きません(私は騒がしい環境が苦手です)。
さうしたら、俯瞰してゐた人が私に、
「お騒がせして申し訳ありません」
と謝罪しに来ました。彼に何をやつてゐるのか聞くと、TVの撮影ださうです。番組は衛星か何かでやつてゐるものでよく知らないものでした。私はTVを見ないので、余計わかりません。
発車間近になつて、隣のB寝台から二人の妙なおぢさんが、
「車内散策する」
と言つて後方の車両に歩き出しました。顔はよく見えませんでした。チラリと見えたその姿は、その辺にゐさうなおぢさんでした。前のB寝台の人に誰なのか聞いてみると、
「田中要次と六角精児」
といふ人ださうな。初めて名前を聞いた人でした。なほ、知り合ひの某雑誌の編集長をしてゐる人が六角精児によーく似てゐます。
この番組はいつか観てみたいものです。
両者について、鉄道好きといふことで親近感が湧きました。しかし好みでも何でもありません。私は、リチャード・ギアとか高橋一生みたいな人が好きです。前者は憧れであり、後者はタイプです。
前回紹介した私の和歌(やまとうた)の先生が、高橋一生によく似てゐます。
また、「僕らは奇跡でできている」(ウジテレビ)といふドラマで演じた姿は私の先生そのまんまです。
閑話休題、北陸に乗り、B寝台に横になると疲れてゐたのかすぐに寝てしまひました。信越本線の長岡駅で進行方向が変はりますが、それに気付かず、さらに北陸本線の車窓を見ることもなく、終点の金沢駅で目を覚ましました。
後述する急行能登と北陸の姿を見届け、帰路につきました。
帰りは、青春18きつぷの一回分を使ひ、東京まで帰りました。米原駅から東海道本線をトントコ乗り、途中下車することもありませんでした。
下呂温泉の帰りに
私が、北陸に乗つたのは、この時と、いつだつたか高山本線を完乗した帰りに、富山駅から上野駅まで乗つた時の二回だけです。
富山駅から乗つた時は、下呂温泉に入りました。当時、下呂は人間魚雷回天を開発した黒木博司少佐の出身地と知らず、アルカリ性のぬるぬるした湯を楽しむだけでした。
後に、多くの方々との魂の結び付きにより、今でも黒木少佐をお祀りする祭典(楠公回天祭)を少佐が大津島沖で殉職された九月に行つてゐることを知り、参列や献詠をさせていただきました。同じく、大津島での慰霊祭にも参列させていただきました。
その時の献詠歌を、私家集である『鶉鳴歌集』より引きませう。
瀬戸の海の たゆたふ波に 言問へば 皇国やいかにと 答へし君はも
かづきする 皇御軍の ふねにはてし とものよぶこゑ なみに聞こゆる
よぶともの こゑのはるけき せとのうみに よせ来るなみは けふもともよぶ
瀬戸の海の 磯もとどろに 寄する波 友々呼びて 割れにけるかも
なほ、黒木少佐については、以下のサイトをお読みいただけたら幸甚です。
下呂温泉は、川原に露天風呂があるのですが、流石に恥ずかしくてここでは入れません(長湯温泉のガニ湯は、正月の雪の降る中で一人、入りましたが…)。
下呂駅から富山駅までは、キハ85系のワイドビューひだで一気に駆け抜けました。
夜の富山駅。二十三時をまはつた頃。静かなホームに入線してくる北陸は、東海道本線を行く富士やはやぶさと違つた趣きがありました。どつしりと落ち着いた重厚なその姿を、今でも忘れられません。
富山駅を出発した北陸は魚津、糸魚川、直江津駅に停車して行きます。車窓はぬばたまの闇の中。私は狭いB個室の中、備へ付けの浴衣に着替へ、横になりました。この狭い空間が限りなきひさかたの天の向かふよりも、落ち着くのです。無骨で古ぼけた車内、そして例のにほひ。何ともいへません。
狭い個室内には、走行音以外は聞こえてきません。私は列車の走る音を気にしないので、個室に入つて、着替へて横になるとすぐに眠くなつてしまひます。旅の楽しさに心が昂まりつつも、列車の心地よい揺れが眠りの世界へと誘ふのでせう。
気が付いたら、大宮駅でした。
北陸の誕生と車両
その北陸ですが、昭和五十年(一九七五)三月のダイヤ改正の時に登場しました。長岡駅経由の上越線を走る初めての寝台特急でした。
手元のJTB時刻表昭和五十七年十一月号を見ると、下り列車は上野駅を21:50に発車して、高崎駅23:30着、長岡駅は通過して糸魚川駅4:30着、富山駅5:38着、高岡駅6:01着。そして、終点の金沢駅には6:39に到着しました。後の時代には、上野駅の発車時間が23時台となつて変化してゐますが、金沢駅にはおほむね6時過ぎに到着してゐます。
平成元年以降はA寝台のシングルデラックスや、B寝台の個室ソロが連結され、さらにシャワー室も置かれました。平成三年までは、九時まで寝台で休めるチェックアウトサービスも行つてゐました。その廃止は、後述する急行能登と共に、平成二十二年三月でした。
なほ、シャワー室ですが、かつて中野や高円寺にあつたコインシャワーのやうなものでした。私はコインシャワーを使つたことが一度だけありますが、北陸のシャワー室を使つたことはありません(サンライズ出雲シャワーは何度か使つたことがあります)。
急行能登
北陸が寝台特急であるのに対し、同じ時間帯で同じ路線を走つてゐた能登は座席の「急行列車」でした。さう、はまなすやきたぐにと同じ、急行です。ボンネット型の489系でした。
昭和五十七年十一月のダイヤ改正で、上野駅と福井駅間を信越本線経由で結ぶ急行越前を改称し、金沢駅まで短縮し、設定されました。古くは、昭和四十三年まで米原駅経由で運転されてをり、昭和五十年には長岡駅経由で復活しました。
前述の489系になつたのは、平成五年で、長野新幹線開業により、長岡駅経由となりました。
JTB時刻表昭和五十七年十一月号を見ると、自由席を五両連結した下り急行能登は、上野駅十四番線ホームに20:26に入線し、20:53に発車しました。高崎駅に22:21に着き、信越本線に入り、横川駅に23:3着。そして、深夜の碓氷峠を越えて、軽井沢駅には23:20に着きました。長野駅に0:47着、直江津駅2:48着。そこから能生駅、糸魚川駅、泊駅、入善駅、黒部駅、魚津駅、滑川駅と停車し、富山駅4:50着、高岡駅5:19着。終点の金沢駅には5:59に着きました。
後には、上野駅を23:33に発車し、金沢駅には6:29に到着しました。
能登は、週末パスの前身である土日きつぷの旅で大活躍しました。といふより、土日きつぷの旅では、いつも能登から始まりました。自由席に乗り、リクライニングシートを向かひ合はせにして、横になりました。検札が来て、きつぷを見てもらつたらすぐに寝ました。そして翌朝、未明の直江津駅(4:10頃)で降り、信越本線に乗り換へます。南に下るか、はたまた急行きたぐにが来るまで待つか。その時々によつて変はりますが、楽しい思ひ出です。
もしも…
ところで、最後に金沢を訪れたのは、令和元年十一月三十日。大切な教へ子の結婚式でした。昼行バスで池袋駅前から高岡駅まで行き、駅近くのスーパーホテルに泊まり、翌日金沢まで行きました。
つば甚といふ、洒落た料亭での結婚式。
とても素敵でした。葉加瀬太郎の「ひまわり」で新郎新婦が入場してくる様子を見て、羨ましく思ひました。
来賓で、しかも脚代まで出していただき、心苦しく思ひました。
万代の 契りとなせよ 諸人の 祝ふこの日を 忘ることなく
といふ歌を送り、私なりのお祝ひとしました。
なほ、当時、お付き合ひしてゐた人がゐたので、「次は私の番」と思つてゐましたが叶ひませんでした。
帰りに、北陸新幹線かがやきに乗り帰りましたが、この時、
「もしも北陸や能登があつたら…」
と思ひました。きつと、私は北陸に乗つてゐたでせう。
新幹線は、都と地方を近くしました。その速さと安全性は、わが国の技術の結晶であり、誇りとすべきものでありませう。しかし、その裏には、寝台特急が過去のものとなり、一つ、また一つと廃止されていきました。私は寝台特急の復活を望んでゐませんし、廃止は仕方のないことだと思つてゐます。ノスタルジーで経営はできませんから。ただ、過去の個性的な寝台特急は私どもの心の中で永遠に走り続けるでせう。
最後までお読みいただき、ありがたうございました。
次回は、いよいよ最終回です。最終回は、最終回にふさはしい夜行列車の思ひ出を語ります。どうか、お楽しみに。
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