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思ひ出夜行 きたぐに

 いつもお読みいただき、ありがたうございます。旅とサウナ、そして和歌(やまとうた)と鉄道をこよなく愛し、伝統を重んずる玉川可奈子(サブカルクソ女疑惑)です。
 某月某日、三月に紀勢本線を走るWest Express銀河の指定席券を買ふために、朝からみどりの窓口に並んだのですが、ダメでした。一ヶ月前の十時打ちでも取れないんですね…。
 残念な気持ちを抑へつつ、本稿を書きました。

 今回は、前回予告した通り、夜行快速列車ではなく夜行「急行」列車になります。と言ひつつも、夜行快速列車要素も多少あります。どうかご了承ください。
 なほ、画像は相変はらずWikipediaからの転載です。

好きな車両583系

583系

 私の好きな車両はキハ120系、14系客車、キハ185系などがありますが、特に好きなのが583系でした。私が今より若い頃、唯一583系を定期運用してゐたのが、新潟と大阪を結ぶ急行きたぐにでした。
 きたぐには、元々、昭和四十三年(一九六八)十月に大阪駅と青森駅間で運行された客車を用ゐた夜行急行でした。昭和五十七年十一月に、区間を短縮し大阪駅・新潟駅間になりました。
 そして、私の好きな583系に移行したのが昭和六十年(一九八五)三月のことでした。

 「佐渡おけさ」のヘッドマークが風情があつて好きです。

きたぐに ヘッドマーク

 583系を好きな理由は、その無骨な外観にもありますが、内装が最大の理由です。私が乗つたことがあるのは、B寝台と自由席だけですが、どちらも好きです。
 自由席はボックス席ですが、足元が広めで、背もたれも座り心地がよく、373系のセミコンパーメントシートと似てゐるやうに感じました。
 B寝台はまさに「うなぎの寝床」といふか、穴倉といふか、狭いです。三段式で、下段は広く感じますが、上段や中段は本当に狭い。しかし、

 「だがそれがいい(にや)」(前田慶次風)。

 胎内回帰とでも言ひませうか。私は狭いところが落ち着くのです。猫もさうでせう。しかし、これを言ふと閉所恐怖症の方もをられるので、一概にさうとも言へませんね。

 いはゆるパン下、パンタグラフの下のB寝台は少し広めで人気もあるのですが、そこよりも最上段が好きでした(上まで上がるのが面倒ですが)。しかし、値段の高さが気になるところです。下段は6,300円、上段と中段は5,250円でした。

 ちなみに、後述しますが、魔改造された車両が北陸本線で運用されてゐました。

きたぐにの思ひ出

 私がきたぐにに乗つた思ひ出としてハツキリと覚えてゐるのは、次の三回です。他にもあるのですが、どうも正確さに欠けてゐて自信がありません。

 初めての乗車は平成十九年の四月末頃。この日はとある会社を退職した翌日でした。
 新宿駅から快速フェアーウェイ号(485系)に乗り、黒磯駅に行き、バスに乗り換へて那須温泉の鹿の湯に入りました。熱々で白妙に濁る湯がとても印象的な湯で、風情ある湯屋でした。

 黒磯駅に戻り、そこからさらに東北本線を北上し、福島駅へ。そこから福島交通に乗り飯坂温泉のさはこの湯に行きました。さらに福島駅から奥羽本線で米沢駅に出て、夜の米坂線に乗り坂町駅、そして新潟駅に出ました。
 なほ、この時の米坂線の車内で、以前勤めてゐた職場の方(年下のアルバイト)からメールで告白されました。返事は…、秘密です。

 この時、新潟駅から敦賀駅まできたぐにに乗りました。B寝台の三段目、上段でした。ゴールデンウィークの直前でしたが、車内はスカスカで、私の車両にはまつたく人がをらず、とても静かでした。
 疲れてゐたのか、ベッドに横になつてすぐに寝てしまひました。起きた時は福井駅を出たあたりでした。小さな窓から、真つ暗な外をしばらく眺めてゐました。
 四時頃、敦賀駅で降りました。しばらく駅で待ち、小浜線に乗り換へました。そして、鳥取の姉さんの家に行きました。

B寝台 下段
B寝台 上段
B寝台 パン下

 なほ、鳥取駅からは、因美線、姫新線を経由して姫路駅に至り、山陽、東海道本線を大阪駅に向かひ、急行銀河(B寝台)に乗り帰りました。
 乗車券は、東京都区内発東京都区内行で、経由は東北・奥羽・米坂・羽越・白新・信越・北陸・小浜・舞鶴・山陰・因美・姫新・山陽・東海道でした。このやうな一筆書ききつぷを作つて旅をすることをこの時期に好んでしてゐました。

583系 きたぐに

 二度目の乗車は、平成二十一年の夏。この時、面白い旅行をしました。
 東京から、ムーンライトながらで京都に出て観光し、大阪で泊まりました。翌日は大阪を観光しました。海遊館などを訪ねました。天保山にも登り、自由軒のカレーも食べました。不思議な味でした。

 そして、その日の夜にきたぐにに乗りました。自由席ですが、それなりに混んでゐました。前の席に座つてをられた、夫婦の方と親しくなり、大阪駅から京都駅あたりまで小さな声で談笑してゐたことを今でも覚えてゐます。しばらくして寝てしまひました。

自由席

 この時、私は柏崎駅で降り、普通列車で新潟駅まで行きましたが、列車を降りる頃には車内も空いてゐました。新潟駅から、きらきらうえつ号に乗り、羽越本線を北上し、さらに秋田駅まで行き、横手で焼きそばを食べました。そして一関で泊まりました。その翌日は平泉を観光し、あとはのんびり帰りました。

 それ以降は、土日きつぷ(現在の週末パス)で金曜日の夜の上野駅から急行能登に乗り、翌朝の直江津駅から新潟駅まできたぐにの自由席を利用したこともありました。車窓左手に見える夜明けの日本海、親不知の海が素敵でした。
 この時も、車内はとても空いてゐました。新津駅から新潟駅まで、快速列車となるのですが、特に乗客が増えるやうなことはありませんでした。この時だけでせうか。

ムーンライト東京

 583系を用ゐた「ムーンライト」。それが、ムーンライト東京、松島、仙台でした。平成十五年(二〇〇三)七月、これは私が大学四年生の頃でした。就職活動も終へ、某東証一部上場企業(かなりのブラック企業)から内定をもらひ、呑気にしてゐた時期です。
 当時、時刻表を眺めてゐたら、「ムーンライト東京(ゴロンとシート)」と書かれてゐる列車を発見しました。実際は、ゴロンとシートではありませんでした。指定席券を得るため、早稲田大学に通ふ鉄ヲタの知人と朝のみどりの窓口巡りをしましたが、結果的に二人とも確保できませんでした。
 ※念の為、記しておきますが、その早稲田大学に通ふ鉄ヲタは、バイト先で知り合つた人で、特別な関係ではありません。電車のことで話しが合つただけの仲です。

 列車名が示すやうに、舞浜駅経由で京葉線、武蔵野線、東北本線を下り仙台駅に至る夜行列車でした。
 後に、ムーンライト仙台、またはムーンライト松島として運用しました。私は、上野駅からムーンライト松島に乗りました。

 大学卒業後、一度、郡山駅からムーンライト東京に乗つた時、車内はスカスカでした。他の乗客がさうしてゐたやうに、ボックス席を引き出してベッドにして寝てゐたこともありました。東京駅に着いても爆睡してをり、車掌に起こされました。懐かしい思ひ出です。この旅の概要は次回、述べることでせう。
 この時の旅は、ムーンライトながら、ムーンライト九州二回、そしてムーンライト東京の四つのムーンライトを使ひ、鹿児島から福島まで幅広く移動しました。

419系となつて運行

 余つた583系は後に通勤型車両である419系などに改造(魔改造)されました。車内は583系のボックス席を活かしつつ通勤型へ改造したものでした。広いボックス席と、一部分が通勤型車両に改造されました。ベッドが収納されてゐるスペースも残されてゐました。
 先頭部は、583系のそれでした。しかし、長い編成の583系を無理やり短い編成にしたものですから、その俤すらない食パンのやうなものもありました。これはこれで嫌ひではありませんでした。

 そして、気が付いたら消えてゐました。
 ある年に福井県勝山市の先生の御宅を訪問した際、北陸本線で419系を全く見ませんでした。「嗚呼、廃止になつたのだナア」と思ひました。

419系
魔改造された583系

 きたぐには、平成二十四年(二〇一二)三月に定期運転を終へました。
 583系のやうな列車は、高度経済成長といふ時代性が産んだ産物でせう。昼間は座席特急として利用し、夜は寝台列車にする。大車輪の活躍ですね。しかし、もうそれは歴史の一頁として記録されるのみでせう。その一頁のほんのわづかでも覗くことができた私は、ある意味で幸せでした。

 最後までお読みいただき、ありがたうございました。次回は、九州方面を旅した際に利用した夜行快速列車を回想しませう。どうか、お楽しみに。

 追記
 最近、ひどい首の痛みに苦しんでゐます。寝てゐても辛く、寝返りをするだけで激痛が走ります。首の痛みに伴ふ偏頭痛もあります。どうにかならないものでせうか…。
 また、宣伝になりますが、『維新と興亜』第十七号に「いにしへのうたびと 九 山部赤人と笠金村 上」を書かせていただきました。ご一読いただけたら幸甚です。『維新と興亜』誌は、号を重ねるごとに内容が充実してきてゐます。

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