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子どもに病気が遺伝してもしなくても、産み育てていこうと決意した理由

結婚2年目の27歳。進行性の難病、顔面肩甲上腕型筋ジストロフィー(以下、FSHD)による全身の筋力低下により、20歳より電動車椅子ユーザー。2020年秋、初の妊娠が分かり、5月に出産予定(無事出産しました!)。
妊娠・出産・子育てについては、病気の進行や子どもへの遺伝など、覚悟が必要なことがいくつかありましたが、長い間悩んで決めました。その過程についてご紹介します。

私の病気は約50%の確率で子どもに遺伝する

私は顔面肩甲上腕型筋ジストロフィーという病気を持っている。この病気は、片方の親が病気だった場合、約50%の確率で子どもに遺伝すると言われている。(※以下、FSHDと略す。これは英名facio-scapulohumeral muscular dystrophyの略。)

FSHDは常染色体顕性遺伝(過去の言い方をすると常染色体"優性"遺伝)の遺伝形式を取る。

「常染色体」の異常なので、男女で遺伝形式が変わることはない。
また、顕性遺伝なので、遺伝すると必ず発症する。遺伝子異常はあるものの発症しない「保因者」は基本的に存在しない。(症状の現れ方が軽微で一生病気に気づかない人はいる。)

ちなみに、よく「筋ジスは男児のみが発症する病気でしょ?」と聞かれるが、それは「デュシェンヌ型筋ジストロフィー」や「ベッカー型筋ジストロフィー」など一部の「性染色体」異常による筋ジスに限った話で、FSHDには当てはまらない。

筋ジストロフィーには様々な型があり、その発症メカニズムは型によって全く異なる。そのため、FSHDはFSHDとしてのみ遺伝する。他の型の筋ジスとして遺伝することはない。

FSHDは、10代で車椅子ユーザーになる重度の人から、一生病気に気がつかない軽度の人まで症状の現れ方は様々である。親と子の症状の重さに関連性はないとされており、子どもに遺伝していたとしても、どの程度の症状が現れるかは今のところ分からない。(ちなみに私はFSHDの中では症状が重度。患者会に行くと車椅子ユーザーの方が少数派。)


子どもに病気が遺伝したとしても産もうと思った理由

1948年から1996年まで存在した旧優生保護法では、遺伝性疾患のある障害者は半ば強制的に不妊手術を受けさせられていた歴史がある。

法律がなくなった今でも、「障害のない子を選んで産みなさい」という圧力は残っており、約50%という高い確率で遺伝する疾患のある私に「子どもが可哀想」「産まない方がいい」という声があるのも事実。

そんな中で、どのように考え、子どもを持つことを決めたのかまとめてみた。


「病気がある=可哀想」を否定し続けた母の姿勢

人生の「幸せ」や「不幸」の定義は人によって違うし、本人のみによって決められるものなので、出生前からその子の人生を語ることはできない。

障害の有無に関係なく、私と夫は親として、どうすればその子が幸せに生きていけるかを考え、その幸せを強く願い、子育てに奮闘していくのみだ。

ただ一つ、この「病気を持って生まれる可能性がある」という事実に関して、生まれた子が「可哀想だ」とか「不幸だ」とレッテルを貼り、「生まれるべきでない」の発する人たちからは絶対に守っていこうと思う。

私の母がそうであったように。

私は今の人生をそこそこ幸せだと感じているが、これは私の人生に特別に何か素晴らしいことがあったからというわけではなく、私の母が「病気=可哀想」「障害=不幸」だという価値観をずっと否定し続けてきたからだと思う。

10歳で病気が分かったとき、親戚は私を可哀想と言った。車椅子に乗ったとき、母のママ友は私を見て可哀想と言った。

母は一貫してそのことに怒り、否定し続けてきた。「可哀想という言葉は何の解決にもならない」というのが母の口癖だった。

高校2年生のとき、「障害者手帳を取ろう」と提案したのは母だった。

そう提案する母の声は、まるで名案を思いついたときのように明るかったことをよく覚えている。

母に当時のことを聞くと、娘が障害者手帳を取ることには全く抵抗がなかったそうだ。

それには母の原体験があったそう。

母には病気治療の後遺症により発声がうまくできない従兄弟がいた。彼の母親は「私の子どもは障害者じゃない」と受け入れず、障害者手帳を取らなかった。

高校生のときまでは良かったものの、その後の大学進学や就職の際に、障害者としての支援を受けずにやっていくのは難しく、本人の選択肢が狭まってしまったとのことだった。

それを身近で見ていたこともあり、私が高校生のときに、「これからの選択肢を増やすため」に障害者手帳を取ることを勧めたという。

母は私が病気であることや、障害者手帳を持っていることを、近所の人や友人に全く隠さなかった。

そして、病気を積極的に周囲に伝えていくことを私に促し、母自身も学校の先生とよくやりとりをしていた。

学生時代、私の病気の症状は、パッと見では分からないほど軽度だった。

学校生活において「できないこと」を明確に伝えることで、健常の子どもと同じ「ものさし」で評価されることを避け、私がコンプレックスを抱かないようにしてくれていたのだと思う。

環境を確実に整えつつも、むやみに病気にレッテルを貼らなかった。母のそのあっけらかんとした態度は、障害者として生きることは不幸なことではないと私に思わせてくれた。

この姿勢こそが、私のその後の人生の選択肢を大きく広げてくれた。

障害者であることを肯定して生きると、情報の入り方が変わってくると私は思う。

公的制度の他、障害者と健常者の間にある機会格差を埋めるための取り組みは、民間企業でも多く行われている。

高校や大学の先生方はそういった情報を多く提供してくれた。もし、私が障害者であることを隠したり否定していたら、障害者向けの情報を私に伝えることを躊躇しただろう。

我が家は決して裕福な家庭ではなかったが、障害者向けの奨学金制度によって、大学進学や留学など、何かをしたいと思ったときにチャンスを掴むことができた。

もちろん、私と子どもは別人格で、歩む人生は違う。他の家庭と同じように、子どもが辛いと思うときは寄り添い、気持ちを尊重し、一緒に歩んでいくしかない。

ただ、病気の遺伝があったとしても、その子が幸せに生きる道は確実にある。その子の人生は「可哀想だ」「不幸だ」と周りから決めつけられるものではない。障害があるからという理由で出生を否定されるものでもない。

私の母のように、障害や病気の有無に関係なく、子どもにコンプレックスを与える社会の偏見から子どもを守り、子どもの選択肢を増やしていける親でありたいと思う。


ロールモデルはたくさんいる

私は大学生ぐらいから患者会に定期的に参加して、同じ病気を持つ多くの方に出会ってきた。初めて患者会に参加したときのこと、今でも鮮明に覚えている。好きな仕事をしていたり、結婚したり、子どもがいたり、病気や障害に関する活動をしていたり、それぞれの方向で人生を充実させている方にたくさん出会えた。この病気を持って生きることは決して暗いことではないと思えた。

自分より年上で症状の進行している人と会って、自分の将来の姿に不安になると思いきや、逆にものすごく安心した。症状が進んでも生活面での解決策は多くあり、人生を楽しんでいけることを知ることができた。

病気とうまく付き合っていくノウハウはたくさんある。私はそれを子どもに伝えていける。

そう言えるのは自分の経験のみならず、同じ病気を持つロールモデルとなる方と繋がれているからだ。


様々な問題の原因が、病気にあるわけではない

病気というのは、様々な社会の問題の原因だと決めつけられやすい。

「病気が原因でいじめれる」「病気だから働けない」「病気のせいで人生がうまくいかない」などなど。

「だから産まない方がいい」と人が私に言うとき、その問題の原因が「病気そのもの」にあるのか「社会のあり方」にあるのかを私はいつも考える。

いじめは自分と違いのある他者を排除するという集団にある問題だし、働けないのは障害者就労の問題だし、人生がうまくいかないのは何故なのか要素の分解が必要なのでは、と思う。

これは自戒も込めて思うのだが、「病気のせいで…」というのは周囲も本人も飲み込みやすい理由付けなのである。その裏にある社会の問題や、障害や病気が関係ない自身の課題を見えづらくしてしまう。

「遺伝するなら産まない方がいい」という言葉の裏側には、様々な問題の安易な理由付けに、病気が使われやすいことを忘れたくない。


障害者を取り巻く環境は変わっていく

障害者を取り巻く環境は刻一刻と変わっている。例えば働くことについて。

私は祖母から「そんな体じゃ働けない」とずっと言われてきたが、特に不自由もなく就活を済ませ、工夫しながら正社員で働いている。

ここ数年でも、コロナ禍によりリモートワークが浸透し、頭脳労働において私のような身体障害の有無は関係ないと感じることが多くなった。

オリヒメなどのテクノロジーを活用した身体拡張技術により、寝たきりでも働くことのできる時代が近づいている。

今ある障害者のイメージはどんどん過去のものとなり、時代は変わっていくのだと思う。

もちろん、まだまだ全ての障害者が働きやすい環境ではないし、バリアフリーや就労の問題は山積みだが、少なくとも私の子どもが生きる数十年先は今よりもっと便利になり、できることは増えているだろう。

変化の多い時代の中で、障害者を取り巻く環境が日々改善されていく様相を、当事者の目線で感じられることを、私は面白いと思って生きてきた。

まだまだ変化は始まったばかり。私たちの次の世代ではもっとダイナミックな変化があるだろう。病気のある子どもが生きていくこれからの人生は、もっと発見に溢れているのではないかと思う。


どんな道を選んでも「幸せ」と「後悔」はあるだろう

私たちの選んだ道が子どもにとって良かったか悪かったか、生まれた子どもが幸せか不幸か、0か100かで決められる単純なものではない。今までの人生、自分で選択してきたことだって、全て、いつどんな時でも100%幸せだったかというとそんなことはない。

親として後悔するときも、子どもに恨まれるときもあるかもしれない。でも、それでもいいと思う。後悔しても、恨まれても、子どもに向き合い一緒に乗り越えていくことは人生の糧になるかもしれない。

後悔しても人生はそこで終わりじゃない。

辛いと思った先にも希望があり、そこに意味を見出せることもある。選択した瞬間は、見出せないこともあるかもしれないけど、時間が経った後に、ふと幸せを感じられることもある。

その曖昧さが人生にある限り、やはりどんな選択も尊重されてほしいと強く思う。

筋ジス患者の妊娠出産あれこれ
<今後公開予定のテーマ>
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