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その器には何が乗っているのか

どんなサービスでも”仕事そのものとお客さんが好きな人”から受けたい。
特に食べるものは、わたしにとってその最たるもの。

もっとおいしい料理を作りたい。作れる!!
自分の作る世界でお客さんを楽しませたい。
仕事は大変なこともあるけれど、喜びはもっと大きい。

働く人たちがそんな風に思っているんじゃないかな?と感じられるお店がいくつかあって、そういうところにわたしは足繁く通う。
オーナーや店主のフィロソフィーが、スタッフのひとりひとりはもちろん、レストランであれば備品のひとつずつまでに行き渡っていると思う。

対して、客あしらいなんてこんなものだろうと高をくくっている人がいれば、”その人が言ってる言葉の意味と出した声のバイブレーションが一致していない”からすぐにわかる。
そういうスタッフのいるお店は人間関係がぎすぎすしていたり、オーナーのスタッフへの待遇が残念なことになっているのだろうなと推測する。
もとからの、スタッフの性格もあるかもしれない。
本来の仕事とお客さんに振るべき集中力が、必要がない別の方向に働いている状態。(ご本人にとっては最重要事項なのでしょう)
そういう店は一見素敵で評判が良くても、2度とは足を運ばないことになる。そこに高級店か庶民的な店か、客単価が高いか安いかということは相関関係がないので、わたしにとっては判断基準にはならない。

さて、テーブルに運ばれてきた器。
調理した人、メニューを考えた人、素材を選ぶ人、素材を納入する業者さん、農業従事者、漁業従事者、そしてテーブルまで運んできた人、、、
ひとつの器に入っているものは、たくさんの人の手を経ている。
そのすべての登場人物が奏者となって、持っているそれぞれのバイブレーション、そして仕事とお客さんへの愛情(反して、嫌悪感があったとしたらそれも)が、器の中の小さな宇宙でハーモニーを奏でているとわたしは感じている。

器の中のハーモニーは、誰かの「思い」なのか。それとも「思惑」なのか。
(たまに、どうやらこれは「思惑」寄りだけど料理そのものへの取り組みが純粋すぎて昇華されて、これはこれですごくいいっ!!て場合もある)

それらがわたしたちの五感を楽しませて、わたしたちの体に入り、わたしたちの体になる。
場の雰囲気、会話の内容、隣のテーブルで起こっていること、、
口に運ぶときには、そういうものも一緒に食べていることになる。

そのとき、その世界には私も参加しているわけだから、そこがより居心地のいい世界であるように、言葉を交わし、振舞いたい。

そんなことを感じざるを得ない一食一食の小さな交響曲を、わたしは今日も楽しんでいる。
(でもたまには、カップラーメンなんかも食べるよ)




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