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とても気になる一人称

日本語は、一人称の豊かな言語であるらしい。他の言語どころか母国語すら、胸を張って堪能です(?)とは言えないので多くは語るまいが、とにかく、今ちょっと思い浮かべても凄まじい数が浮かんでくる。それをTPOに応じて無意識に的確に使い分けるのだから、日本語を使いこなすってもしかしたらそこそこ難しいのかもしれない。

余談だが、単位も豊かであるらしい。海外の言語学者が「日本の数詞は、もはやそのひとつひとつが固有名詞といえるくらいだ」とぼやいたとか、何かの本で知り妙に誇らしかった。

閑話休題、その一人称。

たとえば邦楽歌詞においても、重要視されている気がする。

数えた訳ではないが、男性歌手の曲だと間違いなく「僕」が多い。たとえばコレを「俺」に置き換えてごらんなさいな、一気に曲の色が変わるじゃないか。その逆も然り。(「俺の、俺の、俺の話を聞け〜」)

女性歌手でも、「僕」を使う場合がけっこうある。女性アイドル曲にも多い。臆病さ、繊細さを感じるからだろうか。「僕」の持つニュアンスだ。でもこれが、現実での会話になると「ボクっ娘」などと言われるように、一気にイタイ子になってしまうから不思議。

個人的にたいへんご恩を感じるシンガーのaikoを例にとろう。その殆どの楽曲で「あたし」を用いているが、こちらを「わたし」に置き換えてみる。すると、彼女の大きな魅力である「抽象性の高い歌詞の中にある妙な生々しさ」が激減してしまう気がする。共感性が薄れるのだ、一文字違うだけで。そんな訳で、一人称、考えてみると実に面白い。

それでは視点を変えて、家庭における一人称。これを「年少者にあわせる」というのも日本ならでは、らしい。これも知識の受け売りだ。

確かに、我が子に対して自分の事を「ママはね…」と言うお母さまは多数だろう。そもそもは相手に歩み寄る、という感覚、配慮から始まっているのではないだろうか。

同じように、学校の先生方においてもご自身を「先生は…」と称される方は多かった気がする。でもこれが、大学の教授なんかだと「レポートを、教授まで提出してください」などと言うイメージはないため(ですよね?)、やはりこの感覚は幼さへの迎合(のようなもの)なのだろう。

我が実母との、一人称に関する忘れられない思い出がある。わたしが大学生の頃だったと思う。母とたわいもない会話をしていた。何かしら自分の意見を語る彼女、少し熱くなってきたのか

「あたしは、かくかくしかじかで…いや、【あたし】って…お母さんはね」
と言った。

わざわざ言い直した!それも、少し照れくさそうに!会話の内容は覚えていないのに、この発言だけは強烈に、記憶に焼き付いている。

この思い出から推測できること。それは、一人称は「自意識」に関する面もある、ということだ。TPOへの配慮だけではないのだ。その場に応じた「役割」を無意識に感じているから、一人称を自然と使い分けられるのではないか。

この時母は、わたしの前で「お母さん」を貫こうとしたのである。
振る舞っている・演じている、というと語弊があるが、やはり「母として」わたしに向かっているのである。それなのに、熱く語るうちについうっかり「あたし」なんて言ってしまったもんだから、素を晒したようで気恥ずかしかったのではないだろうか。一人称がもつ「自意識」への働きを実感した出来事である。


母親となったわたしも、長女への一人称は「お母さん」となり、しばらく過ごしてきた。

しかし、ある時から妙にしんどくなった。多分、長女が「オカーサン」を連発するようになった時期くらいだと思う。
一日五百回くらい繰り返される無機質な「オカーサン」、さらに自分の口から出てくる「お母さん」に、疲れてしまった。わたしは母親だ、と自分に言い聞かせているような感覚がしてきたのだ。

一度気づいてしまうと、この違和感に耐えられなくなった。わたしはお母さん、わたしはお母さん…。

自分は何者?お母さんに、なろうとしてんじゃないの?でも全然、思っていた「お母さん」じゃないよね…。ちょっとした事でイライラし、怒鳴り、ヒステリックになる自分が「お母さん」を自称していいのだろうか…。

心の状態、タイミングが悪かったのだろう。たかが一人称ですら、重荷になっていた。「お母さん」という自意識がわたしをその座に縛り付け、「お母さんなんだから」「お母さん、なのに…」と苦しめていた。

だから「お母さん」はやめた。
たとえ相手が我が子だろうが、「あたし」は「あたし」じゃ。不思議と気持ちが軽くなった気がした。

たかが一人称、されど一人称。言葉の一端に過ぎない「そいつ」に、人の本音や本質が垣間見える気がしてならない。わたしにとって、大切で、とても気になる存在である。

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