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240820_「一億総特攻」とは何だったのか。

日本人であれば、神風特攻隊という名を知らない人はいないだろう。
捕虜になることを避けて、天皇万歳と叫んで自決していった人たち、戦争批判をするのは非国民だけで、赤紙をもらってはお国のためと喜んで戦地へ行くのが大和魂、命を捨てて体当たり攻撃を仕掛ける若者たちと、それを賞賛する1億の国民。
アメリカ人にはその精神が狂気と映ったという。

私にとってもそう。
ただし、10歳の頃に感じた55年前の戦争と、35歳になってから感じる80年前の戦争は、リアリティが全然違う。
日本がなぜ真珠湾攻撃をしたのか、賛同はしなくとも、状況は少し理解できる。
戦わずしてアメリカの属国となっていれば、今のように日本古来の文化が残されることはなく、日本人は英語を標準語とし、キリスト教を信仰していたかもしれない。
もしくはロシアに攻め込まれ、ドイツや朝鮮のように、東西に分断されていた可能性だってないとは言えない。
それでも特攻については何一つ理解ができなかった。

NHK特番を見て、自分の中で特攻隊についての見方が変わったので、記録しておく。

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(2024年特番より)
・太平洋戦争中、特攻によって死んだ日本兵は約4000人とされる。

・最初の特攻は1944年10月、フィリピンで始まった。
 敗退を重ねていた日本は、本土防衛の要であるサイパンを落とされ、フィリピンを決戦の場としていた。
・戦局挽回までの一時的な作戦として、体当たりでアメリカ空母の飛行甲板を破壊し、航空戦力を封じる考えだった。
 初期の特攻兵は、訓練期間を短縮され実戦経験のほとんどない予科生たちだった。
・当時の軍司令部には一撃講和、一時的にでも勝って、可能な限り日本に優位な講和を結びたいという狙いがあった。
・しかし、一時的な命令だった特攻は継続され、マスコミは特攻を、国を救う自己犠牲の美談として報じ始めた。

・特攻と日本社会について研究する教授の言葉が印象に残った。
 「多くの日本人は、国力でアメリカに勝てないことはわかっていた。
  国力で勝てないならば、精神力で覆すしかない。
  民主主義国家のアメリカ人は自分のことしか考えてないから、国のために命を捨てるようなことはできない。
 日本人にしかできない、崇高な精神力の発揮が特攻であり、これなら戦争に勝てるかもしれない。
 特攻作戦とは指導者たちが行って終わりではなく、それを待ち望んだ国民の世論や感情によって熱狂が広がっていき、戦争が長々と続いていった。」

・10月にフィリピンで始まった特攻は、12月にはピークを迎え、終わっていった。
 1月にはアメリカ軍がマニラ付近へ上陸し、日本軍の航空隊は撤退した。
 特攻では、アメリカの進撃を止めることも、一撃講和の糸口を掴むこともできなかった。
・それにも関わらず日本は特攻を続け、沖縄戦が行われる3月から6月にかけて、それまでの何倍もに特攻兵を増員した。
・作戦初期の頃、特攻兵の多くは少年飛行兵であり、その一部にエリート士官が加わっている状態だったが、沖縄戦以降は学徒出身者が主力の一部となっていく。
・この頃高等教育を受けられたのは、経済的に恵まれた家庭を中心とした国民の6%ほどで、学徒出身者の故郷は都市部に集まっていた。
 それまで学生は国の将来に必要な人材として、徴兵を猶予されていたが、兵力不足が深刻化した結果、文系学生の徴兵猶予が停止された。
・当時の首相東條英機は、「学徒入営で何よりも良いことは、上下家庭がひとつになったことで、精神的に挙国一致になってきた」と語っていた。

・特攻兵選別の基準として、海軍省が国内で訓練中の搭乗員たちに、志願の意向を調べていった資料が残っている。
 調査で否を選ぶことは多くの場合憚られたが、熱望ではなくせめて望を選んだところで、基準は別にあるようだった。
 リストには志願の程度、適正や技量を示す人物表、詳細な家族構成が載っていたが、結果的には成績で線引きされたという見方がある。
 優秀な人間を1回で死なせるのはもったいない、という冷徹で現実的な思考により、選別が行われた。

・日本は一億総特攻を叫び続けたまま、終戦の日を迎えた。
 特攻さえやっていれば何とかなるかもしれない…その希望に縋り付くことで、批判や反抗の声を抑え込んでいたのかもしれない。

(2009年特番の再放送より)
・戦後しばらく、特攻は現場将兵の熱意から始まったと伝えられてきたが、昭和56年に行われた海軍反省会のテープでは、神風特攻隊の一年以上前から軍令部が特攻作戦を進めていたことが指摘されている。
・軍令部は、予算や人事を司る海軍省に対し、作戦を立案し、天皇が持つ統帥権を補佐する機関だった。
・軍令部はフィリピンでの特攻作戦よりはるか前に、航空特攻の桜花、水中特攻の回天、水上特攻の震洋(マル四艇)と、特攻兵器の開発を進めていた。
 開発の過程で死亡事故が相次いだ兵器もある。
・日本海軍では、兵士の死を前提とした生きて戻ることのできない特攻作戦は命じてはならないとされていた。
 しかし軍令部は、超えてはならない一線を超えて、特攻作戦に踏み切った。
・1944年8月、最初の特攻兵器として、人間魚雷「回天」が正式採用された。
 同じ月に、天皇の裁可を経て特攻兵器で戦う特攻術が法令で定められ、特攻兵器であることを伏せたまま、戦局打開の新兵器への兵士募集が行われた。
 1944年10月、海軍は初めての特攻出撃を撮影し、神風特攻隊の映像とともに広く国民に伝えた。
 1945年1月末、軍令部は、国家総動員で特攻を主な戦力とする計画を決断した。
・軍令部は組織的に特攻を準備してきたにも関わらず、戦後沈黙を貫いた。
 終戦直後から、特攻が戦犯として裁かれることを恐れ、想定問答を用意していた。
 「特攻は上級指揮官の強制ではなく、人道に反しない」と責任を否定する回答だった。
・現場に特攻を指示した軍令部が、組織としての責任を認めた資料は、まだ見つかっていない。

【参考サイト】
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0061053

https://www.nhk.or.jp/special/backnumber/20090810.html

https://gendai.media/articles/-/55270?imp=0

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海軍には、間違っていると思っていても、口には出せず組織の空気に飲み込まれていく性質があったという。
「やましき沈黙」と表されていたこの趣向は、決して海軍だけのものではないと思う。
特攻を続ければ戦争で勝てるかもしれない…情報が遮断されプロパガンダの蔓延する社会ですら、日本国民全員がそれを客観的事実だと認識していたとは思えない。
特攻が、最小限の味方の犠牲で、倍以上敵に損失を与えられたのは、確かに事実でもあるらしい。
だが当初からわかりきっていた日米の戦力差を考えると、それだけで勝利を確信できるようなものではない。
農耕民族の村社会、掟を守る習慣の中にある強い同調圧力、空気を読み和を乱さないことを美徳とされる協調性の高さ、これは現代まで続く日本人の特性と言えるのではないか。

日本が、日本から見た日本に都合のいい歴史ばかりを教育して洗脳し、戦争をはるか昔の悲しい物語のように語り、戦争経験者の多くを一方的な被害者のように尊ぶ限りは、同じ過ちを繰り返さない…とは言えないように思う。

ただ個人的には、2009年の特番と2024年の特番を比較してもわかるように、少なくともここ数年、NHKの論調は変わってきているように感じる。
戦争を悲劇の物語として感情的に語るのではなく、歴史の一部として公平に、客観的な統計データを用いて伝えようとする姿勢が見られる。
これは、戦後経済成長期の精神論に嫌気が刺した世代が経済の中心にいることによるのか、
それとも、あらゆる情報の個人的な入手が容易となった情報化社会のおかげなのか、
もしくは、多様性を受け入れるべきとされる時代の影響なのか、
その全てなのか…。

決して戦争を起こさない、という決意をいくら個人でしたところで意味がないと思うので、少なくとも、間違った決断が目の前でなされそうだと思った時には、例えそれが大多数の賛同する意見と違ったとしても、間違っていると発言できる人間ではありたいとは思う。


余談ですが…
航空特攻機「桜花」は、極限まで軽量化され、空気抵抗を最小化して高速滑空で体当たりできるように設計されていたらしい。
この設計を任された三木さんは、上官に強く反対したものの従わざるを得ず、愚かな兵器の開発に加担したことを後悔していたという。
そして戦後、国鉄に入り、徹底した軽量化と空気抵抗が最小化を追求し、国家プロジェクトである初代新幹線の誕生に大きく貢献したとされている。
戦争の歴史は、終戦と同時に分断されたわけではなく、あらゆる形で現代へ繋がっている。

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