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前に進むために、"諦める”。

春も深まる今日この頃。
本日より二十四節気では「清明」という季節に入りました。

「清浄明潔」という言葉が由来の季語で、草木や虫、全ての命が生き生きと煌めきを見せる季節。日本語ですと「生命」と同じ音を使うので、命の躍動をより想像させられますね。

中国では、ご先祖様にご加護と平安を祈る『清明節』でもあり、日本のお盆のような季節でもあるそうです。

清らかに、明るく、生き生きと。
自然だけでなく我々人間にも、同じように命が輝く光が降り注いでいることでしょう。




さて、近頃の私はすっかりペースを乱しており、noteと向き合う時間が取れずやきもきしておりますが、そんな慌ただしい時間の流れもまた人生の醍醐味なのかなと、最近ようやく、少し俯瞰的に見られる余裕も出てきました。

私を外から見ると、結構のんびりしているように映るらしく、普段は慌てていても全然気が付いてもらえないのですが、
今回の引っ越しでは珍しく見るからパニックになっていたようで、だいぶ周りの人に助けていただき、何とか少しずつ落ち着きを取り戻し始めています。


静かなでマイペースな生き方が好きですが、パニックになっているのも自分だし、他者に優しくする余裕がないのも自分。
迷惑をかけたり、不器用で粗暴な態度を取ってしまったり、卑屈になったり。

ペースが崩れたことにより、ネガティブな自分をいっぱい知ることができました。



昨日、『諦める』という言葉についての呟きをしたのですが、
この言葉には「断念する」という意味と、「事情・理由をはっきりとさせる(明らめる)」という二つの意味があるそうです。


私はペースが崩れてネガティブな自分と対峙した時にとても苦しい気持ちになったのですが、ふと、人間ってそういう生き物だよなぁ、と、そんな言葉が頭を過ぎりました。

「穏やかであり続ける ”理想の自分” を追うのは、いったん諦めよう。」

荒々しい自分も自分なのだと、いい加減諦めて、認めてあげることにしました。


自分が追いかけていたのは、過去の自分自身ではあるのですが、環境が変わればそれは幻影に過ぎず、今という現実から目を逸らしていることと同じ。

そして、それが苦しさの元となっていたようです。


諦めよう、と思った瞬間、体の力が抜けて、気持ちがほわっと軽くなったのが分かりました。視界が少し広くなり、足取り軽やかな感覚です。

『諦』

この言葉は、仏教で「真理、道理」を意味する言葉。

日本ではネガティブな意味合いが強い「諦める」には、「執着していた物の実態を明らかにする」という本質があり、それを踏まえた上で、続けるのか、止めるのか、もしくは別の道を探すのか、

選択肢を自分に与えてやることができる頼もしい言葉なのではないかと、今回の経験で気が付くことができました。




私生活はもう少し慌ただしさが続きそうですが、
今回の気付きにより、以前よりも少し、強く進みだせるような気持ちが湧いています。

これも、もしかしたら「清明」という季節の恩恵かもしれません。


新しい環境などで普段より力が入っている方も多いかもしれませんが、きっと皆さまの心にも軽やかで気持ちの良い風が吹いているはず。

その風が、より良い未来へと導いてくれることを願って。



では、今日はこの辺で。
最後までお読みいただき誠にありがとうございます!

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