見出し画像

To love oneself is the beginning of a lifelong romance【1】

“To love oneself is the beginning of a lifelong romance.” — Oscar Wilde
己を愛することは、生涯のロマンスの始まり。

引用文はオスカーワイルド。耽美的・退廃的・懐疑的だった19世紀末文学の旗手のように語られる。『サロメ』『幸福な王子』などの著作がある。男色を咎められて収監され、出獄後、失意から回復しないままに没した。というわけで、今回は性別とか性差別とかそういう諸々に関して私が思うこと。

🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈

Noteで交流のあるアリエルさんとCamyuさんのコラボ作品を拝見した。Camyuさんが書かれたゲイである男の子の話をアリエルさんが漫画化した作品。ゲイであることを自覚した男の子が悩み、苦しみ、葛藤しながら。自分の事を知ってほしい、見て欲しいと心に決めて一歩を踏み出すお話。周囲の人たちの否定的・拒絶的な対応を恐れ、打ちのめされたり。救われたり、受け入れられたり。

Camyuさんはお話の始まりにBLです、と断りを書いらっしゃるけれど、ファンタジーとしてのBoys Loveではないと私は思った。もっとこう、居場所のない、身の置き場のない少年が静かに泣きながら居場所を探しているというか。助けを求めているお話である、そして助けを求める人には、必ず受け入れてくれる場所、人がいる、光がある、そんなことを伝えるお話であると感じた(表現力に乏しい私であるので、もう少しなんかかっこよく書きたいところであるが、語彙力よ……)

そしてこの作品を漫画にされたアリエルさんは、Camyuさんのお話しは、ジェンダー問題が本題のものであり、ジェンダー問題を考える上でのヒントとなれれば幸いです。と書かれている。私も強くそう思う(語彙力がないので、すぐさま人様の言葉に『ほんそれ!』などという私である)。

私は、そうしたいと思った人、つまり「助けたい」「生きていれば意味がある」「私たちがいる」と思っていたパンセクシャルの友人をちょっと前に自殺で亡くした。だからこそ、このお話が、「創作」「ファンタジー」ではなく。リアルであると思ったし、願いを込めて、このお話のように、救いがある場所、救いをあげる人たちが沢山いて欲しいと思った。

Camyuさんの小説

アリエルさん漫画

🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈

で、そこから私はとりとめもなくLGBTQ/性差別に関することを考えている。とりとめもなく考えていることをこうして文章にしてみる。ので、長い(いつも長いけど)

たまたま、お仕事の案件でLGBTQコミュニティーに関するものもあったせいもある。先日、レビュー記事でご紹介した友人のYoutubeチャンネルで、オランダ在住の方が自分のセクシャリティーと同性の方と婚約したというお話を聞いたせいもある。入籍10年を迎えるおば・おばカップルと久々にあったせいもある。

以前、人種差別のNote記事にも書いたのだけど、私は誰かを啓蒙したいとか、何が・誰が正しいとか言いたいわけではない。いうて、私は人様に何かを教える程に出来た人間ではないからだ。ただ自分が見て、感じて思ったことを書こうと思う。

人が誰と、どんな風に付き合うとかってNone of Your F Business(あんたの知ったこっちゃない)だと私は思っている。

もちろん、恋は盲目であるので、私にとって大事である人、友達だとかが連れ合いに引きずられるように悪の道に行こうとしたりだとか、あからさまに利用されてるだとか、そういう時は何か言ったこともあれば、言うかもしれない。でも愛だの、恋だのは結局のところ、当事者たちの気持ち次第のものである。だから、誰と付き合うが、キスしようが、セックスしようが、結婚しようが、それはあなたのチョイスだから、後悔ないように精一杯、恋に溺れればいいよ。恋は楽しい。愛はうれしい。もちろん、幸せであればこの上ないけど、とそんな風に思う。

全否定したり、徹底的に批判する必要性は無い。まったくないのだ。

これは自分の夫アルゴとの恋愛を親を始め、周りにやいのやいの言われた経験があるから切実に思う。

できることがあればしてあげたいと思う。大事な人であればあるほどに、その人の気持ちを尊重したいし、Happyであって欲しい。結果が悪ければ、それはそれで致し方ない。恋だの、愛だのは一人きりの世界では成り立たないものであるから、良いことばかりが起こるわけでもない。でもしょうがない、好きなっちゃったんだもの。

人に迷惑をかけないこと。それが己のChoice(選択)であることを自覚し、それに責任を持つこと。それは当然の事。この辺については、私が浮気されてた事件の時、暑苦しく語ったけれど。そうした理解の上での恋愛なら溺れるだけ溺れればいいのさ。むしろ、楽しく溺れておきな!と思う。

こんな考えでいるので、自分の恋愛→結婚も思うようにやってきた。私は、恋にうつつを抜かし、溺れたまんまの状態で入籍して一緒になったが、現在進行中で夫に恋しているし、夫を愛している。それを自分勝手という人もいるだろう。でもそら勝手にもなるわ。だって私の人生なのだもの勝手にさせておくれよ。仕方ないじゃん、好きになっちゃったのだもの。あなたは私の人生を送れないし、残念なことにあなたが私と一生いてくれるわけでもない。心配してくれてるのならありがたいし、恵まれているけど。でも人を好きとか、嫌いって感情は誰かにコントロールされるものでも、できるものでもない。

だから、私には差別する人の気持ちや原理がちっともわからない。

差別とか区別とかそんなことを見たり、されたりすると怒りや憤りを覚えるし、同時に、寂しさや悲しみを覚える。

🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈

私は、同性結婚が州の法律でも、国の法律でも認められている国に暮らしている。だがそんな国でもかつては同性愛は精神疾患であるとされていた。迫害されてきた人たちも大勢いた。

Homosexuality was classified as a mental disorder in the Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (DSM) beginning with the first edition, published in 1952 by the American Psychiatric Association (APA). This classification was challenged by gay rights activists in the years following the 1969 Stonewall riots, and in December 1973, the APA board of trustees voted to declassify homosexuality as a mental disorder. In 1974 the DSM was updated and homosexuality was replaced with a new diagnostic code for individuals distressed by their homosexuality. Distress over one's sexual orientation remained in the manual, under different names, until the DSM-5 in 2013.
同性愛は、1952年にアメリカ精神医学会(APA)によって発行された初版から始まる精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)で精神障害として分類されました。 この分類は、1969年のストーンウォール事件後の数年間に同性愛者の権利活動家によって異議を唱えられ、1973年12月、APA理事会は同性愛を精神障害として分類解除することを決議しました。 1974年に、DSMが更新され、同性愛は、同性愛に悩まされている個人のための新しい診断コードに置き換えられました。 2013年のDSM-5まで、性的指向に対する悩みは別の名前でマニュアルに残っていました。

https://en.wikipedia.org/wiki/Homosexuality_in_the_DSM

私は心理学・性ホルモンについての研究をしていたため、性別、性的指向についての分類の仕方や成り立ちなど諸々は一番最初のクラスで触れる(普通に大学の心理学のクラスでも習うけど)。上記引用はまず最初に教えられることだった。

なぜ同性愛?それは、他の様々な心理学研究と同じことで、結論や原因などはちっともわかっていない。つまり、なぜ異性愛だけではないのか。同性を好きになる人、同性しか好きになれない人、それには沢山の要因が絡み合いすぎていて、解明できないこと、であり、私は思うにこれって多分、永遠に解明できないことであるのだ。

それは、人が恋に落ちる理由を説明できないのと同じ。人が愛を感じ、求める衝動を解明できないのと同じ。だから、それを一方的な意見や価値基準でいいとか、悪いとか判断するのはおかしいし、ほれ、やっぱり、None of your F Businessなんである。

🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈

上記の引用文にある1969年のストーンウォール事件というのは、NYにあったゲイバー「ストーンウォール・イン (Stonewall Inn)」が執拗に、理由もなく繰り返された警察の取り締まりをきっかけに、暴動が発生。事件はLGBTQの市民権運動の転換点となり、ゲイ・プライド運動の誕生につながった事件のこと。

この暴動は、警察の踏み込み捜査に立ち会ったお客たち、つまり、LGBTQ当事者らが、初めて警察に真っ向から立ち向かった事件でもある(詳しくはこちらの記事)。事件から50年後の2019年にNY市警がこの事件についての謝罪を行った。50年後に謝られてもねぇ?とは思うが、システムが謝罪した、という事実に大きな意味があるのであろう。

アメリカって歴史の浅い国だけれど、奴隷解放から始まり、黒人、女性、そしてゲイ・プライド。まっとうな権利、平等な権利を求める市民運動に非常に意欲的である。これって逆に歴史が浅いからこそのことなのかな、とも思う。創り上げるという意味において。歴史の長いヨーロッパやアジアの国々と比べて、伝統的に固執されてきたもの、守られてきたもの、というものが少ないから。

我々の親族や友人たちにも沢山の同性結婚のカップルは存在する。つい最近、私の事を見た夫アルゴの教え子(女子)が「ちょっとぉ、Mr.アルゴ。離婚届書きなさいよ。アルゴ先生の奥さんはあなたにはもったいないから、私が一緒になることにした!私にくれ!」的なことを言われたよ、まいったなぁもう、なんて言っていた。

中学校のクラスでも、自分のSexual Orientation(性的志向)をしっかりと認識し、公言している子供たちも沢山、存在する。もちろん公言できずにいる子供たちも。自由の国の人たちが、みんな自由というわけではない。

勘違いされがちであるが、そもそもこの国は、自由、というわけでもない。他国に比べて、比較的自由であるというだけのこと。色々なことが法的に守られ、サポートするシステムが多く存在し、理解を持つ人々が沢山いる。でもそんな国でも、それでもLGBTQコミュニティーにおける自殺率の高さ、鬱病、Anxietyといった心の病に悩まされる人たちの数もとても多いし、大きな社会問題の一つとなっている。

多分。原因の一因は、なんだかんだでこの国にがっちり、くっきり影響力のあるクリスチャン、キリスト教の影響もあると私は思う。

あと、「とりあえずは主張しとく!」的な異様に意欲的な自己顕示欲の強い人が多い国であることも。人種もそうだし、このLGBTQ層への差別も、性差別も。日本にも絶対に存在するのだ。でも大きな違いは、アメリカに見られるようにあからさまではないのだ。ヒソヒソ、コソコソとでも言おうか。アメリカで見られるように、ジャンジャン・バリバリも大変なことが多いが、日本式、ヒソヒソ・コソコソだって大変なことが多いはずだ。だが、ジャンジャン・バリバリであると当然、人目に付くものなので、問題として表面化しやすく、また認識されやすいのではないか、ゆえにそれが国中を巻き込む市民運動につながりやすいのではないか、というのが私の考えである。

🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈

以前、パンセクシャルであった友人が自殺をしたNoteを記したが、現在ではヘテロ・ホモ、男性・女性という分類だけでなく、細分化したセクシャリティ、Sexual Identityが存在する。私がこれまで出会ったLGBTQコミュニティーの人々はSexualityの公言についても沢山のパターンが存在する。

◆気が付いたら同性しか好きになれないことに気づいたけど、周りもそれを普通に受け容れてくれた。
◆気が付いたら同性しか好きになれないことに気づいたけど、周りには絶対に言い出せなかった・言い出せないでいる(クローゼットゲイと呼ばれる)
◆大人になってから公言したけど、成長する過程では言えなかった。
◆公言したことを後悔している。
◆公言したことを後悔していない。むしろとっととすればよかった。
◆異性に酷いことをされて、異性が受け入れられなくなったトラウマタイプ。多いのは幼少時の経験だが、異成婚やお付き合いの最中に起こることもある。
◆自分の性別にどうにもこうにも居心地が悪い・悪かった。
◆性別とかセクシャリティーなどどうでもよく、とにかくその人が好きっていうだけ。
◆同性を興味本位で試したらそっちの方がよかった、よくなった。
◆どっちかっていうと同性が好きだけどどっち・どの性もいけるよ
◆自分の性別が嫌で変えてみた、ほんで逆の性別の人と一緒になった
◆自分の性別が嫌で変えた、変えた後の性と同じ人と一緒になった

これらの言葉は、全部が私がこれまで出会ってきた人たちのリアルな言葉だ。とにもかくにも色んな考え方、選択の仕方、生き方が存在する。そして、人間の心だとかそんなものは謎だらけであるので、本来であれば、それに良いも悪いも、普通か、普通でないかなどというラインを決めることがおかしいのである。

だからNone of your Fuckin Businessなんだってば。

もちろん、人には宗教とかその人なりの道徳観だとかルールが存在するゆえ、同性愛だと知られると死罪になる国もあれば、同性愛だと発覚し、バッシングされ自ら命を絶つ人も後を絶えない。でも幸せとか、人生とかって他人が押し付けていいものではない。そんな風に私は思うし、良かれと思って、例えば助言の体での言葉とかであっても、それが「心から」のものでなくては意味がない。そもそも「宗教」「神様」なんてものは、人を愛するため、自分を愛するため、世界を愛するため、そして神を愛するものではないのか?それだったのに、それを理由に人を苦しめ、貶め、時には死にすら追いやる、なんておかしいではないか。

文頭にあげたオスカーワイルド。1854年生まれ。男色を咎められ、投獄されたのは1895年。41歳の時。その数年後に失意のまま亡くなった。オスカーワイルドから、126年も経っているってのに、いまだに世界のあちこちで、他人の恋愛にごちゃごちゃと口を出し、一方的に判断・区別・差別して、おんなじことを繰り返す。おかしくないか?すごくおかしいと私は思う。

で。案の定、書き始めたら長くなったので続く。

続きです☟

🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈

Camyuさんの小説。このNote記事で紹介したお話のスピンオフのお話しも書かれています。

アリエルさん漫画

🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈🌈

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?