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夜の森膨らみきった弱心に恥と勇気の刃を持って

私は仲のいい友達によく言う。
「生まれ変わったんだ。かなね、一回死んだの」と。

私は美容師だった
小さい頃からずっとずっと夢だった。
美容師以外の夢を見ることができなかった。
気づいた時には夢は美容師だった。
ど田舎で生まれた私は美容室さえ限られていた。理容室か、おばちゃんがしてるなんちゃら美容室くらい。
美容師が人一倍輝いて見えた。多分、そこらへんの人よりオシャレだっただけだろうに。
簡単に確実に美容師の罠にハマった。

私は今美容師はしていない。
しがない事務員だ。
美容師免許を持ってるならいつでも戻れるじゃん!とか、辞めて数年経ってもなお髪の毛切ってよ!とかいう場違い野郎はいる。

もどらん。2度と。怖い。
美容師で働いている自分しか未来は想像できなかったし、今も立ち直れてなどいない。
でもわたしはもう生まれ変わって第二の人生を生きている。


鹿児島市内の美容室で働いていて気づいたら志布志という、ど田舎の実家に戻っていた。美容室は辞めていた。親が辞めさせていた?よくわからないが、事実はそれくらい。詳しくは覚えていない。
それっきり、自分の前髪を切ること以外美容ハサミを持たなくなった。

別にすごく怒鳴るブラック美容室でもなんでもない。過酷な労働時間でも、厳しい労働環境でもなかった。
そもそも美容師なんてそんなもんだ。
美しく強い美容師に
あのキラキラ光る美容師に自分はなれなかった。
ただそれだけだ。
だからこそ、今もなお美容師を続けてるみんなには心底尊敬する。

美容師は知っての通り、髪の毛が切れるようになるまでにかなりの時間を要する。その壁を乗り越えたら、きっと楽になるはず。そう言い聞かせていた。
飲みにも遊びにも行かず、休みの日は死んだように寝ていた。きつかった。でも必死だった。
でも、
カラーのお客さん、カットモデルをしてくれた人…心からできました!完璧です!と言えなかった。不安で口コミも毎日見た。いずれ低評価をつけられる自分を想像しながら。
手が震える病気?を持っていたが、日に日に手の震えが悪化していき、ダックカールで止めることさえできなくなっていた。
人と接することが怖くなっていた。

リストカットが増えた。薬の量も増えた。
ADHDを持ってると言われてから少し気が楽になったが、一つのことをする時周りが見れなくなってしまい、言われていたことを忘れる、しないといけないことに気がつかない、出来損ないだとはっきりとくっきりと気付かされる。怒られる日々が続いた。

ある日の仕事終わり店長から言われた。
「そのリストカットやめてくんない?1人だけ頑張ってますって態度、直して。こっちも接し方に困るよ…。みんな頑張って乗り越えてきたんだから、まだまだ頑張れるよ。」
…何も言い返せなかった。必死だった美容師としての努力の糸が、プツン.と切れた。自己嫌悪の波がどっと押し寄せてくる。涙さえ出なかった。裏切られた。とさえ、思った。

その晩、リストカットとODで記憶を消した。
気づいたら志布志で引きこもり生活を送る羽目になっていた。

志布志といっても実家は山の中で車がないとどこへもいけない。唯一歩いて行けるのはセブンイレブンとおばあちゃん家くらい。
家から一歩も出なくなった。こんな歳にもなって家にいる自分が恥ずかしかった。メイクをしないと外へは出られないし、隠れるように洗濯物を取り込んだりしていた。でも、親は優しく、洗濯物を取り込んで畳んだだけでいつも褒めてくれて美味しいご飯を作ってくれた。
引きこもり生活もあっという間に3ヶ月をすぎ
月に二度、市内の精神科へ通い、もう市内の部屋も解約しようと親が話ししていた時、普段物静かな姉がかなのために親に話をしてくれた。

「かなは外へ出したほうがいい。私も市内に時々遊びに行くから家賃は私が払ってもいいよ。だから、かなが帰る場所は無くさないであげてほしい。」

そういってくれた。
このままじゃ嫌だ。それは一番自分がわかっていた。
私も、生まれ変わる。その決心をして再び市内へ戻ってきたのだ。

市内へ戻り、とりあえず時給のいいコールセンターで仕事を始めた。
1日に4時間週に3回。きつい職業ではあるが人と直接会わない仕事は美容師よりずっと働きやすかった。それから、私の第二の人生が少しずつスタートしていった。

きっと世界はどうでもいいことだらけだ
でもそのどうでもいい。で
わたしは生きている
ずっと生き続けている
きっと死ねないんだろうな。
未来など何も見えていない。

あの頃必死で夢に向かっていた自分へ
大変だよね。
無理しなくていいよ。
大変な毎日だけどかなは今幸せな日常を送っています。
逃げることも強さだと知ったから。
辛い時は周りを頼ってね

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