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1人称から考える子どものジェンダー

朝食を食べているとき、わが家の3歳がおもむろに
「Aちゃんに もうしらない!ふん!っていわれちゃったの……」と言ってきた。

うちの子は距離が近い。そして、しつこい。
(また、やっちゃったか~)と思いつつ
「3歳はAちゃんになにしちゃったの?」と聞いてみた。

「3歳“わたし”っていっちゃったの……」

!!!!!!!

そうなのだ、3歳は生物学上おそらく男の子だ。
でも、私は本人が自分は男だと思っているかどうかは“まだ分からない”と思っている。

私 「そうなの?“わたし”って言ったらだめなの?」

3歳「“わたし”じゃないよ、“ぼく”だよ!って」

一人称は「3歳」と名前でいうことが多いが、保育士さんも女性が多く、クラスも女の子が多いからなのか、家でも時々「わたし」と言うことはあった。

私はそれを特に直すことなく、この子は「わたし」と言うんだな、くらいに思っていた。

でも、今回、3歳は友達にそれはおかしいと指摘されたのだ。
わざわざ翌日の朝、私に言ってきたということは、それなりに不思議に思ったのか、傷ついたのだろう。

私は「3歳が好きな言い方でいいんだよ。“ぼく”でも“わたし”でも“3歳”でも。どれでもおかあさんは大好きだよ。おかあさんの大事な3歳だよ」と伝えた。

3歳はピンク色が好きだし、ミッキーよりミニーちゃんが好きだ。
でも青も好きだし、バンブルビーやトイ・ストーリーのバズも好きだ。

私は一度も、3歳が自分は男の子だと言っているのを聞いたことがない。(「●●ちゃんは女の子」というのも聞いたことがない)
まだ、あまり性別の概念がないのかもしれないし、こだわらないタイプなのかもしれない。
本当に、男の子ではないのかもしれない。
それは、本人の中にしかないと思う。

私は、ふと川原泉の「月夜のドレス」という漫画を思い出した。(『空の食欲魔人』に収録)

「男らしい」と言われている夢遊病の男子高校生が、夜な夜なカーテンをドレスに見立てて踊るのだ。
それは、男らしいと思われている外からのプレッシャーからの逃避でもあったし、きれいなものが好きだという少年の内側の価値観でもあった。

私はジェンダーの問題に明るくない。
自分は女性だと疑わずに生きてきたから、もしかしたら身体の性別と心の性別とが違うかもしれないと思ったこともないし、恋愛対象が同性だったこともない。
かといって「自分は女だ!」と強く思ったこともないし、男の子になりたいとあこがれたこともある。

そもそも性別とは、そんなにはっきりと区別がつくものなのだろうか?


3歳は今日も「わたしもそうおもうわ」といい、ピンクのブタさんをぎゅっと抱きしめ「だいすきなのよ」と言っている。

もし明日、雨が降ればピンクの長靴を履き、ピンクの傘を喜んでさして出かけていく。

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2年後のラン活(ランドセルの購入)で、3歳はピンクのランドセルをほしがるかもしれない。

もしかしたら、友だちに「男なのにピンクのランドセルなんて変なの」と言われるかもしれない。

価値観や自分が好きなものは性別によって決まるものでもない、
「男の子だから●●であるべき」
「女の子だから●●が好きなはずだ」
なんてものはない。
できる限り、自分で心から好きなものを選んでほしい。

私が、セピア色のランドセルを買ってもらったように。
(なん度も「う○こ色~」「女なのになんで赤じゃないの?」と言われた)

そして、3歳が、いつか、自分の性別について私に話してきたとき、それが想像と違うものであっても、受け入れるだろう。

だから、それが他人に決められるものでなく、自分にとって自然なものであってほしいと思う。

まだ表現力に限りのある3歳のアイデンティーがどこにあるのか、残念だけど私には見えない。

3歳と私は“他人”なのだ。

《追記》

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