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ムラビトのモノガタリ

人生を記録するということ

移住1年目の冬頃から、村で生まれ育った70代後半~80代の方々にお話を聞き「ライフヒストリー」をつくる作業を始めていた。お話を聞いたはいいものの、どんな風にまとめようかあれこれ思案しているうちに、すっかり春になってしまった。せめて10名分くらいは記録して、最後に1冊にまとめようと思っていたところ、お話を聞いた方から「自分の話をまとめたものが欲しい」という意見をいただいため、その人の個性が滲み出るような冊子にするにはどうしたら良いのか、ずっと考えていたのだった。

聞き書きとは、生きた証

この「聞き書き」という作業を知ったのは、1年目の初夏から参加した「真庭なりわい塾」だった。その地で生まれ育ったお年寄りや、その地に根付いた仕事に携わっている方の話を丁寧に聞き、文字に起こし、形にして残す。塾内で様々なプロジェクトを経験させていただいたのだが、私がもっとも心を動かされ、塾が終わっても個人的に続けていきたいと思ったのが、この「聞き書き」であった。その人が生きた道を想像の中で一緒に辿り、その人の言葉そのままに記録する。

語り手の人生が聞き手の中へ

テープレコーダーに録音した話を文字に起こす作業は、とにかく骨の折れる作業であるが、何度も何度も聞いているうちに、その人の人生の一部が自分の中に流れ込んでくる感覚になり、なんともいえない不思議な気持ちになる。この現代においても「秘境」と称されるアクセスや道や利便性の悪さを誇る山村の、更に数十年前の話ときたら、それこそ日本むかし話、おとぎの国の話のようである。満足に食べられないのが当たり前の暮らしの中で「草ばっか食ってよく生きた」と話す方もいらっしゃった。

傍を楽にするため、生きるために「働く」

かつて「働く」という言葉は「傍を楽にする」という意味だったと聞いたことがある。この村に生まれ育った方々は、お金のためというより「傍を楽にするために」「生きるために」に働いてきたのだろうなあと感じた。道なき道を歩き(車社会になる前)僅かな畑を耕し、集落共同で田んぼを管理し、山の手入れをし、結婚して子どもを育て、その子どもたちも今はほぼ村にはおらず……というような。村人たちから見た「傍」とは、自らが住む集落全体のことであるのかもしれない。合理性や経済性をひたすら追い求め「働くこと」=「お金を稼ぐこと」になっている感のある現代の暮らしとは、まさしく正反対の世界。

その人がもつ人生の物語を記録すると同時に、日本や地方や農山村の変遷も肌で感じることができるこの作業を、私はとても尊いものだと感じる。個人が特定されない範囲で、お話を聞いた方々の振り返りや紹介もしていきたいと思っている。

誰の人生にも、物語がある。誰かが光を当てなければ消えてしまう、小さな物語が。



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