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母を亡くし、継母を父に殺された娘は、女性初の議員になった⭐️国際女性デーに寄せて

 これは現在使われているオーストラリアの50ドル紙幣です。ご覧になった方も多いでしょう。ここに描かれた女性は、名前をエディス・コーワンといい、オーストラリア初の女性州議会議員となった人です。
3月8日の国際女性デーに相応しい彼女の波瀾万丈な人生を紹介します。

(写真 Wikipediaより)

私は「マザレスお嬢」という母親と早期死別した女性の会を主宰しており、当事者でもあります。エディスも7歳の時に実母を亡くしています。

また、オーストラリアの大学院で、修士・博士とジェンダー・スタディース専攻で取得した私が彼女のことを書かなくては、と思い筆を取りました。

生い立ち

 エディス・コーワンは、オーストラリアの西オーストラリア州のパースで1861年に生まれた。母親は彼女が7歳の時に亡くなった。弟か妹の出産で命を落としたのだ。

父親は間もなく再婚したが、この頃から父親はアルコール依存症のようで酒乱気味だった。エディスは9歳で、寄宿舎付きの小学校に入れられた。

数年後、父はひどく酔ったある晩、夫婦喧嘩の末に妻を射殺してしまった。

父親は逮捕され、裁判ではエディスが証人とし法廷に呼ばれた。それだけでなく、彼女の帰り道をジャーナリスト達は質問責めにした。聡明な彼女は対応すると、泣きながら寄宿舎に飛んで帰ったのは言うまでもない。

父親に判決が下り、絞首刑になった。
彼女が15歳の時だ。
つまり、彼女は15歳の時点で、実母、継母、実父を失ったのだ。
しかもこの様な形で、、、

ショックはいかばかりだっただろう。15歳の子が受けるには強烈過ぎるネガティヴ体験だ。

その当時の写真(Wikipediaより)

エディスは学校で誰とも喋らなくなった。当時のパースの中流階級社会は狭く、彼女の父親の件は知れ渡り、クラスメイトの両親もエディスを避けるよう言ったという。

エディスは日々、読書に没頭してすごした。
学校を辞めたのも無理もなかろう。そして、祖母に引き取られた。

1881年までにオーストラリアでは3大学が女子の入学を認めていたが、実際には当時女子が大学に行く事はほぼ無かった。10代後半の娘は自宅で縁談を待つか、家庭教師を付けて勉強するくらいしか選択肢はなかった。
しかし、「殺人犯の娘」というレッテルが貼られたエディスに縁談が来る可能性は無かった。だから、家庭教師に来てもらって祖母の家で勉強した。

結婚

彼女は校長(女性)とは親しかったようだ。ある時、校長の弟が学校を訪ねてエディスを見かけ、一目惚れした。彼はジェームズ・コーワンという弁護士(法律家)だった。

彼女の華奢で、もの悲しげな様子の虜になったのだ。しかし、エディスは彼が13歳上だったので嫌がった。そこで、ジェームズは彼女が読書好きという情報を得て、彼女が好きそうな本を数冊買って、時々プレゼントするという消極的アプローチを取った。姉から渡してもらう時もあった。

そんな風にして一年が経ったある時、エディスは決心した。
「彼を避けてばかりいないで、一度話してみよう」
すると、2人には読書好き以外にも共通点が沢山あり話は弾んだ。この様にして2人は交際し、エディスは18歳で結婚した。

ジェームズは当時、最高裁判所の登記官で、裁判の話を妻にしていたようだ。エディスも子どもが産まれる前は、裁判の傍聴によく行っていた。特に夫から虐待された妻や子どもに同情し、その女性の家を訪ねて励まし、経済的にも支援した。

夫婦は5人の子宝(女子4人、男子1人)に恵まれた。しばらくは、エディスは家庭で子育てに専念し、自分が欲しくても得られなかった「親からの愛情」を子ども達に与えた。

キャリアの始まり・初めての演説

1890年に夫ジェームズは、警察裁判所の判事になった。夫婦には翌年5人目の子が生まれた。1894年からエディスはカラカッタ・クラブという女性団体の設立に参加するようになった。彼女が33歳くらいの頃だ。

ここは早くに結婚した為、学校に充分通えなかったが、教養を身に付けたがっている主婦が集まっていた。読書会をして、社会問題について議論する場所だ(現在も存続している)。婦人参政権についても、皆熱望していた。

これは南オーストラリア州の女性たちの団体の1904年の写真だ。カラカッタ・クラブもこんな様子だったと思われる。(出典・”Women of Australia" Ohlesson & Duffy, 1999)なぜなら、カラカッタ・クラブで「エディスは初めて、何百人のオシャレな帽子をかぶった女性たちの前で演説をした」と記述があるからだ。

エディスは自分が裁判で見てきた夫によるDV被害者の妻たちの惨状を伝えた。彼女たちには避難所が必要だと、また未亡人には年金が、シングルマザーには手当が必要だと。その為には法の改正が必要だと訴えた。

しかし、本来恥ずかしがり屋な彼女の声は震え、しかもか細い声で聴衆に響いていない様子だった。彼女はかねてから、恥ずかしがりは克服したいと思っていた。そこで、思い切ってこう言った。

「私の継母は父に殺されたのです!」

今まで封印してきた生い立ちを初めての演説でカミングアウトしたのだ。すると皮肉なことに聴衆は驚きのあまり目を見開き、彼女の話に聴き入った。
そして、演説が終わると拍手喝采を浴びた。こうして、彼女の政治家、活動家としての人生は始まった。

活動家から州議会議員へ

 彼女はまず、貧困のため病院に行けない女性のために、看護師を自宅に派遣する事業を始めた。また「アレクサンドラ女性の家」(後にアレクサンドラ・マタニティ病院となる)を設立した。これは未婚の母のための家(避難所)で、産婦人科を併設していた。

当時の社会は未婚の母への扱いは劣悪であった。出産で病院に来ても、ろくに診察してもらえないばかりか、生まれた子はすぐに母親から引き離され、養子に出すようプレッシャーをかけられたそうだ。しかし、ここでは未婚・既婚を問わず、妊婦は皆平等に受け入れられた。

また、エディスは地域の視察も行った。そして、貧困街では水だけで、お湯が供給されていないことを知った。「これは変えなくては!」と彼女は思った。「でも、男性たちが作った法律を、ただの女性である私が変える事なんてできるの?どうやって?」

そこで、エディスは決心した。今までボランテイアとして働いてきたが、正規の職員として働いて社会的信頼を得ようと。教育委員会は当時としては珍しく、女性の正規職員を募集していた。そこで彼女は応募し、採用された。熱心に働いた彼女は、自分の得た収入を恵まれない人々に寄付した。こうして彼女の評判は徐々に上がっていった。

また、児童保護協会から招かれ、そこでも働いた。当時、子ども達が肉体労働、売春、縫い子、機織り手として不当に低賃金で劣悪な環境で働かされていた。この惨状を訴えるべく、エディスは大量の手紙を書いてマスコミに送り、何人もの政治家に陳情に行った。 

多くの男達が第一次世界対戦に出兵した1915年には、エディスは児童裁判所の判事に任命された。更に1920年には、盟友フェミニストであるべシー・リッチビエスと共に女性で初めて治安判事に任命された。この頃になると、エディスは有名人になっていた。ひたすら、女性と子どものために尽力した。夫ジェームズは、そんなエディスを常に応援し続けた。

婦人参政権を最初に獲得した国はニュージーランドで、1893年だ。オーストラリアは世界で2番めに早く、1902年に獲得した。ヴィダ・ゴールドシュタインは婦人参政権獲得に向けて尽力したが、彼女は当選出来なかった。他にも多くのフェミニスト達の貢献があって成し遂げられた。

1921年、遂にエディスは59歳で見事に西オーストラリア州議会で当選し、オーストラリア初の女性議員になった。

初めての女性議員は、冷やかしの対象となった。下記は“The Bulletin”という政治雑誌(1880創刊・2008年で廃刊)に掲載された風刺画は、議会で洗濯をするエディスだ。(実際には彼女はそんな事はしていないし、全く似ていない)
(引用 Susanna de Vries, 1998,より)

彼女の議員期間は3年間と短かったが、意義深いものであった。それは「女性の法的地位法」を成立させた事だ。
これにより、女性である事を理由に仕事に就けない事が禁止された。また、既婚女性は不動産など資産を相続できなかったが、これにより可能になった。

彼女は沢山の委員会にも名を連ねた。病院や教会の他、子どもの保護と女性の地位向上関係の委員会でも貢献した。エディスは70歳で病気の為、夫ジェームズと子ども達、孫達に囲まれて亡くなった。

彼女の功績を讃えて、エディス・コーワン大学が1991年にゆかりの地パースに作られた。因みにここの卒業生で有名なのは、映画「レ・ミゼラブル」や「グレイテスト・ショーマン」で主演を務めたヒュー・ジャックマンだ。

おわりに

私にはエディスの真似は到底出来ない。
しかし、心から尊敬する。
逆境の生い立ちから、夫に恵まれたとはいえ、福祉活動などの行動積み重ねて議員になる過程は本当に素晴らしい。

私達は皆、限りある人生を生きている。
それならば、誰かを恨んだり僻んで暗く生きるより、明るくポジティブに建設的に日々を過ごしたい。

そうでないと、折角の人生がもったいない。
エディスの姿勢だけでも、少し真似てみよう。
このnoteを書いて、あらためてそう思った。

参考文献

杉田弘也(2020)「Ⅲ 諸外国における政治分野への女性の参画の状況  1.オーストラリアの事例」『諸外国における政治分野への女性の参画に関する調査研究報告書』アイ・シー・ネット株式会社(内閣府男女共同参画局委託事業)11〜41頁。

Barbara Caine(eds.)(1998) "Australian Feminism: A companion" Oxford University Press.

Ohlesson & Duffy (1999) "Women of Australia" Pan Macmillan Australia.

Susanna de Vries (1998) "Strength of Purpose: Australian Women of Achievement from Federation to the Mid-20th Century" Harper Collons Publishers Sydney.

Susanna de Vries (2001) "Great Australian Women" Harper Collons Publishers Sydney.
 
#エッセイ #コラム  #国際女性デー #フェミニズム

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