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#3 【歴史の可能性】 一人一人の自伝を残す理由①

 この記事では、「なぜ私たちは歴史の知識を学ぶのか?」というテーマでわたしなり(自伝の執筆と保管を文化に|匿名性自伝サービス「アークカイブ」運営代表)の考えを紹介したい。あわせて、たくさんの歴史書や資料が保管されている中、「アークカイブ」が個人の自伝を残すことを目的に活動している理由についても触れる。

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なぜ私たちは歴史を学ぶのか?

 「なぜ私たちは歴史を学ぶのか?」この問いに対し、読者はどう答えるだろうか。私の場合、「役に立つから」と答えるだろう。実際、歴史はあらゆる場面で選択の手助けをしてくれる。
 具体的に説明すると、まず、わたしたちの日常はたくさんの文化(社会の中で共有される考え方や価値基準の体系)から成り立っているという見方ができる。洋服を着て、挨拶を交わし、さらに遅刻しないように学校や職場へ向かう。時期によっては、地域のお祭りや伝統行事に参加することを含め、すべては文化の連続だ。そして日本では明治時代から洋服や時刻制度が浸透してきたように、文化の背景には歴史の積み上げがある。
 そこで、たとえば自分が住んでいる町で選挙の時期が来て、投票を迫られたとする。今回の争点は、人口流出が進んでいる町の状況に対して、魅力ある町づくりの方向性を決めるものだとしよう。選択や判断が求められるタイミングということで、町の文化が成り立ってきた歴史を振り返る。自分の町の魅力的な産業や伝統行事は何だったのか。なぜ人口が流出しているのか。過去に同じような状況に陥った町はあったのか、そしてその町はどうなったのか。最終的に、これらの広義な範囲の歴史を学び、判断材料としながら、今後の町の文化を考えて一票を投じる。

文化的なまちづくりに貢献した歴史

 もう一つ、歴史をもとに選択が行われた例を書籍「文化経済学」から挙げる。紹介されていた都市はスイスのバーゼル。バーゼルは中世ヨーロッパの雰囲気が味わえる旧市街地が人気な場所である。さらに博物館や美術館も多数そろっていることで文化・芸術の都市として高い知名度を誇っている。
 1967年のこと、ピカソの絵(キュビズム期を代表する絵「二人の兄弟」、「座るアルルカン」)が収集家から手放された際、このバーゼル市で絵を購入するか住民投票が行われたそうだ。住民投票は、コミュニティにとっての絵画の価値についての議論や学習ののちに実施された。中世から続くバーゼルの文化・芸術の歴史を振り返り、ピカソの絵との親和性を吟味したということだろう。
 投票結果は、53.9%の賛成で可決され、ピカソの絵は時代を超えていつでも鑑賞可能となった。また、この話はピカソ本人の耳にも届き、さらに他の国々でも盛り上がりを見せる。結果的に、バーゼルの対外的な評価を高めることにもなった。現在、バーゼルがここまで文化・芸術の都市として人気になったのは、コミュニティの歴史を振り返りながら、文化的なまちづくりの判断にに成功したからだと言える。

新たに生じる疑問

 ここまで、歴史が貴重な判断材料となることが確認できた。ただし、ここで一つ個人的に気になったことがある。それが、私たちが学ぶ歴史は、記録された内容に留まっていること。歴史を参考にしながら判断を下しているのなら、もし記録されていない歴史の知識が仮に存在していた世界線では、何かしらの判断が変わっていただろうか。こんな素朴ながら、大事そうな疑問が生じた。
 もちろん、過去の存在しない歴史については、考えても仕方がない。そこで、「未来へどんな歴史の知識を残すべきか?」この問いに挑むのはどうだろうか。歴史が未来を築いていく上で重要なら、皆で今から保管すべき歴史について考えてみることも、未来の人々にとって有意義なハズだ。
 探求していく方法は3ステップ。まずはステップ1.で、これまで「記録されてきた歴史と、記録されなかった歴史の違いは何なのか?」について見ていこう。次のステップ2.だが、記録されていく歴史は心配する必要がないとして、「危うく記録されそうになかった歴史が、記録された事例」を見ていこう。そして、記録されたからこそ生まれた価値について考える。最後のステップ3.で、「未来へどんな歴史の知識を残すべきか?」、この結論を出したい。

記録されてきた歴史と、記録されなかった歴史の違い

 では早速、「記録されてきた歴史と、記録されなかった歴史の違いは何なのか?」見ていこう。まずは手筈通りステップ1.の「記録されてきた歴史と、記録されなかった歴史の違いは何なのか?」これを考えていこう。
 なお、考えていくにあたり、とある一節を準備した(本記事の後半で取り上げる書籍「亡びゆく言語を話す最後の人たち」より)。1974年、ノーベル経済学賞を受賞した、フリードリヒ・ハイエクが記した内容で、知識には2種類あると、次のように述べている。

"科学的知識はすべての知の集積ではない。こう言えば、現代では異端とみなされるだろう。だが、ちょっと考えてみれば、非常に重要ではあるが体系化されていない、一般原則的な知識という観点からは科学的とは呼びようのない知が存在することには疑いの余地がない。つまり、特定の時間と場所という環境下で生まれうる知識である。"

Friedrich A. Hayek, "The Use of Knowledge in Society", American Economic Review, no.3.(1945)

 私の理解した範囲でシンプルに言い換えると、次の2種類の知識があるということではないか。「体系化されやすい、多くの人に役立つ需要の多い知識」と逆に、「体系化されにくい、特定の個人や少数のみに役立つ需要の少ない知識」。では、実際に具体例を見てみよう。

記録されてきた歴史と、記録されなかった歴史の違い|石油掘削の例

 題材となるのは、とある理由から(後ほど説明)個人的に興味を持った石油開発の草創期の話。ときは19世紀、産業革命によって世界で急速に機械化が進んだ時代である。そして機械の寿命を延ばすため、潤滑剤の需要も伸びた。また、労働者が工場から帰ったあと、家の中を灯すランプ用の燃料の需要も伸びた。この需要に応えるため、1859年、アメリカのペンシルベニア州タイタスビルで初めて機械掘りによる商業目的の石油掘削が行われる(世界初の商業油井は1846年、Baku Azerbaijan)。私が読んだ資料によると、その歴史的な掘削プロジェクトをマネージメントした人物がEdwin L. Drakeで、掘削技師がWilliam A. Smith。21メートル掘ったところで石油に行きつき、供給量として十分すぎる石油が溢れ出てくる。

掘削用のやぐら

 このプロジェクトのポイントの一つは、石油を取り出す方法として掘削アイデアが用いられたこと。近く岩場から石油が滲み出ていたものの、ただ待っているだけでは大きな需要に応えられるだけの量を採取できない。困っていたところ、塩水の井戸を掘る技術を転用することになり、これが功を奏した。
 このように、石油掘削の起源に迫ってみると、多くの記録が残っている。ただし、そんな中でも、最初に井戸を掘って石油を取り出すという案を出した人物については、記録が残っていなかったそうだ。交通機関が今ほど発達しておらず、もちろんインターネットも無かった時代。別の業界で使用される掘削技術を理解しており、転用を考えた人物は、プロジェクトを生み出したとも言える。なんとも残念な話だ。
 ひとまず、アメリカでの商業掘削の成功から、200年ほどが経過した現代。今では世界中の陸・海で数千の掘削装置が稼働している巨大産業に成長した。そんな産業のきっかけを作った人物については、多くの人に共有されるべき重要な知識として体系化され、石油開発の歴史に記録されることに。一方、掘削技術の転用を提案した人物については、その当時の人たちに限定して役に立った知識ということで、結果的に体系化されず、歴史にも残らなかった。

記録されなかった歴史の可能性

 ここまでを振り返ると、「記録されてきた歴史と、記録されなかった歴史の違いは何なのか?」の回答が見えてくる。「体系化されやすい、多くの人に役立つ需要の多い知識」が歴史に残りやすく、「体系化されにくい、特定の個人や少数のみに役立つ需要の少ない知識」が歴史に残りにくいということではないか。非常に納得のいく話であり、未来には引き続き「体系化されやすい、多くの人に役立つ需要の多い知識」が残されていくと予想するのが自然な流れだろう。
 ただし、本当にそれだけで良いのだろうか。掘削技術の転用を提案した人物のように、記録されなかった歴史のなかには、その後、多くの人の役に立つ知識も混ざっていたのではないか。ふと、そんな可能性が頭をよぎる。そこでステップ2.で、「危うく記録されそうになかった歴史が、記録された事例」を見ていこう。

記録されなかった歴史の可能性|軍艦島の例

 「危うく記録されそうになかった歴史が、記録された事例」として、軍艦島を用意した。読者によっては既に観光で訪問した方もいるかもしれない。軍艦島(端島 はしま)は長崎県の沖合にある小さな島である。むかし使われていた炭鉱施設が廃墟と化した姿で残っている場所だ。
 歴史をたどると、もともとこの島は、明治から昭和の時代に炭鉱として栄えていた。高度経済成長中には人口5000人を超え、小さな島の上の高層アパートに、労働者やその家族がところ狭しと住んでいた。ただし、日本でも石炭から石油へとエネルギー革命が起きたことで、1974年に閉山となる。そこからは一気に時間が経過して、2000年代に入るまで多くの人に忘れ去られてしまう。その間に島の建築物は崩壊が進み、廃墟と化す。
 ようやく転機が訪れたのは、2015年。貴重な炭鉱跡ということで「顕著な普遍的価値」が見出され、世界文化遺産(明治日本の産業革命遺産)の一部として登録される。そしていまでは劇的に知名度も上がり、長崎の観光地名所の一つに。スイスのバーゼルのように、軍艦島は今では地域のアイデンティティの一部といえる。

軍艦島

 実はわたしも軍艦島に行ったことがある。広大な海、そこにポツンと佇む廃墟というミスマッチな組み合わせは、他に例を見ない異様な光景として、絶大なインパクトを誇った。また、軍艦島のミュージアムには、高度経済成長中に人々が過ごしたアパートの部屋が再現されていた。自分と何ら変わらない労働者の一人が炭鉱で仕事をし、海のど真ん中で過ごしていたことを考えてみた。当時についての想像が膨らむ。実際、軍艦島に行ったことをきっかけに、炭鉱や石油開発の歴史に興味を持つようになった。
  話は逸脱したが、ステップ2.「危うく記録されそうになかった歴史が、記録された事例」の軍艦島について考えてきた。そして運良く、世界遺産として記録されたからこそ、長崎県の観光名所となっている。まさにアイデンティティの一部と言えるだろう。

時間の経過という負荷価値

 以上、ここまでの話をまとめると、つまるところ、失われゆく歴史の中には、将来的に多くの人にとって役に立つ知識や価値が混ざっていることは確実なようだ。また、アメリカで掘削アイデアを思いついた人、さらに半世紀ほど前に軍艦島で日常を送っていた人について見ていくと、新たな気づきもあった。それが、時間の経過という付加価値によって、一人一人の人生に歴史的価値が加わっていること。
 こうなってくると、ステップ3.「未来へどんな歴史の知識を残すべきか?」についての回答として、「可能な範囲で多くの知識を歴史に記録がした方が良い」と言える。実際、失われゆく歴史の重要さに気がつき、実行に移している人もいる。最後にその内容を見ていこう。

言語学者デイヴィッド・ハリソン

 歴史に記録されていない人々の知識の重要さに気がつき、活動している人々のなかには、たとえば言語学者の方々がいる。その一人がこちらの書籍「亡びゆく言語を話す最後の人たち」の著者、デイヴィッド・ハリソン。この書籍では、言語学者としての研究成果が分かりやすくまとめている。
 
 ところで、書籍の内容に入る前に、読者の皆さんにここで一つ質問を用意した。それが、こちら。
「世界中にはいくつの言語があるでしょうか?」
 
ぜひ予想してみてほしい。考え方として、「なんとなく世界には200弱の国があるので、だいたい200前後じゃないか?」と想像する方も多いのではないか。これは私が予想したときの考え方だ。
 また、言語に詳しい読者の場合、「国の数で考えることはやや安直過ぎではないか?民族の数で考えるべきで、200よりは多いんじゃないか?」と予想している方もいるのではないか。
 いずれにせよ、「世界中にはいくつの言語があるでしょうか?」これはかなり難しい問題だ。
 
 
 それでは読者の皆さんは回答の準備が出来ただろうか。
 
 
 正解を発表すると、世界中には7000を超える言語があるそうだ。読者の皆さんは正解できただろうか。日本のような島国にいると実感しにくいものの、地続きになっている大陸の国々では、たくさんの民族から構成される国がごく自然にあるということだ。
 ちなみに、世界に7000を超える言語があることは、なかなかの驚きだったと思うものの、さらなる衝撃が待っている。それが、グローバル化の波によって、残念ながら話者の少ない少数言語が世界中で消滅の危機に瀕していること。そして、この状況を前に、著者デイヴィッド・ハリソンの出番となる。少数言語の話し手が完全にいなくなってしまう前に、その言語を記録・調査するため、世界中の民族を訪ねて活動を進めている。

言語相対論

 活動の中で個人的に面白く感じたポイントが、言語と思考の関係についての考察だ。どうやら最新の研究をもってしても、私たちがどのように言語を習得し、思考しているのかについては、解明できていない部分が多いらしい。そんな中、学者によっては、言語相対論という仮説を挙げているそうだ。これは簡単にいえば、「言語が人間の思考に影響を与えているのではないか?」という内容の仮説である。イメージしやすいのは、二つの言語を使いこなすバイリンガルの方だろう。バイリンガルの方は話す言語で性格が変わっている可能性が研究を通して指摘されている。近くにバイリンガルの方がいる読者は、その人の様子を観察してみて欲しい。

言語相対論|トゥバ族の例

 著者デイヴィッド・ハリソンも少数言語を調査する中で、この言語相対論を彷彿とする体験をしている。それはデイヴィッド・ハリソンが、遊牧民族のトゥバ族と過ごしたときのことだ。
 トゥバ語という少数言語を記録・調査するため、トゥバ族が住むロシアとモンゴルの国境近辺に訪れ、共同生活が始まる。そして、しばらく生活しているうちに、奇妙なことに気が付く。トゥバ語の中では「行く」を意味する言葉(つまり英語だと「GO」を意味する単語)の使用頻度が少ないことに気がついたそうだ。
 注意深く調査していくと、トゥバ族のような遊牧民は、その土地の近くにある川を基準にして、「流れの下流に行く」、「川の上流の街に行く」、「流れの向こう側の家に行く」と表現しているようだった。ようするに、常に川の存在や流れの方向と組み合わせてトゥバ語では「行く」が表現されていることを理解する。少しややこしいため、今度は言い換えて説明すると、「行く」という言葉を表現するためには、常に川の存在や流れの方向を頭に入れておかなければならないということ。このように聞くと、私たちには何とも不便な言語に感じてしまう。
 ところが、トゥバ族たちは、意識することなく言語を使いこなしている。「どうして、このような言語が出来上がったのか?」読者の皆さんも不思議でならないだろう。デイヴィッド・ハリソンの考察では、広大な牧草地帯で生き抜くことと関係しているのだという。少し考えてみると簡単な話だ。広大な牧草地帯では、方向が分からなくなるだけで命の危険に晒される。万が一方向を誤れば、待つのは大草原のみ。そこでトゥバ語には人間の思考を土地に集中させるシステムが、言語自体に組み込まれた。このように考えられるということだ。
 私たちは普段、無意識のレベルで言語を扱っている。そのため、「言語が人間の思考に影響を及ぼしている」という仮説は実感しにくい。そんな中、デイヴィッド・ハリソンはトゥバ語の研究を通して、非常に分かりやすい言語相対論の体験をしたということになる。どうだろうか。話は大きく逸脱したものの、知るとすごく面白い言語学だ。

疑問の声

 だが、デイヴィッド・ハリソンの活動に対し、世間からは疑問や反論の声も届くそうだ。代表的なものが、「少数言語が絶滅してなんの問題があるのか?」や「世界中のみんなが同じ言語を話せばコミュニケーション不足も解消されて、人類全体が一つになるのではないか?」といった声だ。
 著者の結論として、絶滅に瀕している少数言語を学ぶことで、その知恵が人類を救う可能性があると反論している。たとえば、世界中の動植物のうち、実に80%を超える種が西洋科学で未だに特定できていない。そして絶滅の危機に瀕している少数言語を扱う民族の中には、その動植物や薬草に関する知識を豊富に持っている場合があるらしい。
 また、少数言語を扱う民族の中には、エネルギーインフラの届かない過酷な地球環境で生き抜く知恵を有していることもあるようだ。気候変動によって、これから地球環境がより過酷になることや、経済的に貧しい生活が強いられるようになる可能性だってある。そのとき、少数民族の言語に組み込まれた思考法や知識が多くの人の支えになり、また人間のポテンシャルを引き出す役割を果たすかもしれない。

わたしたちと歴史をつなぐもの

 わたしも可能な範囲で多くの歴史を記録すべきという点で著者と同意見だ。歴史をコンパクトにまとめた教科書や資料は、効率的に学ぶ上では最適。ただし、ディテールにこそ、歴史とわたしたちを繋ぐ共感ポイントがあるように思う。
 石油開発の話、軍艦島の話、どちらも概要だけ把握しておけば教養としては十分かもしれない。ただし、歴史においてわたしたちが関心を持つポイントには、その時代を過ごした自分と変わらない一人一人の人間が挙げられる。今とは全く異なる日常を生きた、一人一人の人生にもっとも強く共感する。これこそが、その歴史を社会や自分の選択に真に活かすうえで、大切なことのように思う。
 ここまでの内容をものすごく平たく言えば、「みんなで築いてきた歴史ではないか。であれば、そのことをしっかり認識できる歴史を残していくことが大切なのではないだろうか?」
 
 最後に補足として、これと類似の内容をたくさんの人が主張してきたことにも言及したい。
 たとえば、芸術家の岡本太郎(#7の記事で取り上げる)は歴史を次のように捉えている。「歴史というのは古い時代から縦にきて、英雄や王様の業績を追いかけていく」もの。そしてこの歴史観だけでは、過去を振り返るうえで不十分に感じたのか、大阪万博では世界中の人々の写真を集めた展示を行なっている。名もなき人々が文明を支えてきたというメッセージだ。
 また、人工知能研究のパイオニア、マーヴィン・ミンスキー(#8の記事で取り上げる)も、私たち人間は、無数の先祖たちが開発してきた方法や考えを使っており、言語や文化は、永遠に成長し、複雑な形で受け継がれていくもの。と、このように述べている。
 さらに、ノーベル経済学賞を受賞したインド人のアマルティア・セン(#6の記事で取り上げる)。その祖父キティホモン・セン(インド哲学の学者)もインドの厳しい階級社会に疑問を持ち、最貧層の口頭伝承の収録に力を入れた。
 ある予測では、人類史がはじまって以来、累計で1000億の人々が地球に誕生したとのこと。そうなると、今ある文化は、1000億人のみんなで築いてきた歴史の結果となる。また、平均的な哺乳類の存続期間と比較すると、人類はまだ全体の5%ほどに到達したに過ぎないとの声もある。つまり、まだまだ人類史は続いていくようだ。やはり、可能な範囲で皆の知識を歴史に記録がした方が、未来の人々にとっても有意義といえる。

まとめ

 ここまで人類は早い時の流れの中で凄まじい文明を築いてきたことが確認できた。時には海のど真ん中にある孤島から石炭を掘り、石油に可能性を感じると、掘削アイデアが誰の案だったかを振り返る暇もなく、世界中で石油を掘っていくことになる。さらにその波は、石炭の島を一瞬にして忘れさせる。
 ふと振り返ってみると、多くの人に役に立つ知識が体系化されて歴史に記録された一方で、そうでない知識は消失していった。ただし、消失していくものの中にも重要な知識は含まれ、ときには時間の経過という付加価値まで加わっている。また、そんな消えゆく歴史を危惧し、その道のスペシャリストによって、体系化が進められていることも確認できた。
 なお、アークカイブでは、個人単位の歴史を保管すべく、自伝の記録に取り組んでいる。とはいえ、自分の人生を体系的にまとめて自伝を作るというのは、大変な作業である。
 そこで、人生の中でも特に貴重だった出来事を、一話完結の投稿(アークカイブでは「ドラマ」と呼んでいる)として執筆し、その投稿を複数積み上げていくことで自伝を完成させる手法をアークカイブはとった。

 このように、匿名性自伝サービス「アークカイブ」では、誰もが自伝を少しずつ自分のペースで作成できる仕組みとなっている。ぜひ、自伝の執筆をよろしくお願いします。

【参考文献】

  • 池上惇・植木浩・福原義春[編](1998) 「文化経済学」 有斐閣

  • Paul Bommer(2008), "A Primer of Oillwell Drilling" The University of Texas at Austin

  • K.デイヴィッド・ハリソン(2013) 「亡びゆく言語を話す最後の人々」原書房

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