見出し画像

「もしもし、わたしじゃないし」  参加者座談会レポート<後編>

(前編はこちら

電話線を舞台に、観客と1対1で行われる演劇作品『もしもし、わたしじゃないし』。この作品の上演終了後、参加者の方々とともにオンラインでの座談会を開催。この第2回目の模様をまとめた。

6人の参加者が加わって行われた2回目の座談会では、電話で行われるこの形式ならではの体験をしたという肯定的な意見の他にも「どう聞けばいいのかわからなかった」といった戸惑いの言葉を語る参加者もみられた。また、イレギュラーな形で参加することで、他の参加者とも異なった体験を獲得したという声も語られた。

街の中で「別の世界に入ってしまった」

参加者4:僕は、初日(9月23日)の21時に自室の椅子に座った状態で聞いていました。後半には寝転がって聞いていましたね。

清水:初日の他の参加者は、黙って聞いている人が多かったのですが、「うん」や「もしもし」といった相槌を打っていましたよね。

参加者4:「観客」ならば、匿名的に聞いていても問題ないと思うのですが、電話を使って自分にかかってきているのに、反応を返さないのもおかしいような気がしたんです。その一方で、反応を返しすぎるのもなんか変。「観客」として演劇を見るのとは少し気持ちが異なり、自分のモードが決められない感じがおもしろかったですね。

画像1

参加者5:僕は移動の途中にある川崎駅前で聞いていました。時間は9月25日の17時。目の前にドンキホーテがあり、かなり人通りがある場所でした。

街の中で聞くことで、家の中で聞くのとは異なる体験になったと思います。外で聞いていると、周囲の人の目に影響され「自分だけ別の世界に入ってしまった」という感じがした。電話の声なので周囲に聞こえるはずはないのですが「変な目で見られるのではないか」「おかしなことをしているのではないか」という、異物感や疎外感を街の中で感じることができましたね。

ところで、今回使われた岡室さんの翻訳は読んでいないのですが、劇中で「あの子」となっているのは、岡室さんの翻訳なのでしょうか?

萩原:いえ、今回上演するにあたって「彼女」という言葉を「あの子」に置き換えています。

参加者5:これまでの翻訳でも使われていた「彼女」という言葉からは、どうしても抽象的な印象を受けます。しかし、「あの子」だと具体的な人を生々しく名指している感じがする。俳優が、時折電話口から離れて「え、何?」と話すこともあり、空間の中に別の人の存在を感じたんです。

それと、耳に電話を当てていると、作品の中で語られているように「頭蓋骨に響く」感じがします。すると、聞いている自分が「口」にとっての「わたし」になるような気がしてきた。いったい、自分は三人称的な立場にいるのか、「口」に同化した一人称的な立場なのか。電話の相手は僕なのか、別の誰かなのか……。声を聞いていると、自分の立ち位置がぐらぐらしてきたんです。それはとても不思議な経験でした。

どういうスタンスで聞けばいい?

参加者6:僕は9月25日の22時に電話を受けました。電話がかかってくる1時間くらい前からずっとソワソワしていました。

できるだけリラックスして聞こうと思い、電話がかかってきたら、電気を消して横になって聞いていました。すると、電話口から「横になってる」という台詞が聴こえてきた。「バレた!?」と思って、思わず起き上がってしまったんです。

その後も車が通ったタイミングと、電話の声が途切れるタイミングが同期していたり、意識が電話口にも、自分がいる空間にも、いろいろな方向に開いていました。最終的にはベッドの上で上半身を壁にもたれながら誰も座っていないイスと机を眺めるかたちで落ち着いた。そうして、電話が切れて終わりました。

清水:とても静かに聴かれている印象でしたね。

参加者6:相手の呼吸がすごく深くなったり浅くなったりすることが電話口からわかり、自分はできるだけ呼吸を抑えていたんです。

普通に演劇を見に行っても緊張するし、初めての人に電話をするときにも緊張します。しかし、それらとは少し異なる質の緊張だったように感じます。

先程の参加者の方は、「電話だから相槌を打つ」と話してましたよね。けれども、参加申込をしたりメールが送られてきたりと、ここで受けている電話は普通の電話ではない。「電話だから」ということにできなかったんです。結局、自分がどういう立場でいればいいのかわからないままに終わってしまった印象ですね。

画像2

参加者7:私もとても居心地が悪かったですね。23日の17時に聞いたのですが、自分がどういうあり方で聞けばいいのか全然わからず、しかし、聞いているうちに、話はどんどんと進んでいってしまう。

「もしもし」と呼びかけられても、自分が「もしもし」と言う立場なんだろうか? と戸惑いました。どうしたらいいのか……と思っている間に時間が過ぎてしまった。内容も全然入って来ることなく、とても強い違和感だけが残りました。

萩原:他の方もそんな違和感を感じたのでしょうか?

参加者4:電話に出ると一人の「聞き手」としてフォーカスが当たります。でも、電話の声はずっと勝手に喋っているし、自分とではなく他の人と喋っている感じがする。自分にかかってきた電話であるはずなのに、別の会話が混線しているように感じたんです。

そうして、混線した会話を盗み聞きするようなモードで聞いていると、「もしもし」と、1対1の会話に引き戻されてしまう。居心地が悪く、違和感を感じますが、それがコントロールされているように感じました。無関係になったかと思うと、急にぐいっと関係が戻されるという運動がおもしろかったですね。

この声はどこに行くんだろう?

参加者8:イレギュラーな形なのですが、私は、同じ部屋で同僚3人と同時に聴きました。固定電話をスピーカーフォンにして、椅子をバラバラの方向に向ける。そうして、3人が違う方向を向きながら聴いていたんです。

萩原:この作品を電話で上演しようと決めたときには、清水がかけてきた電話を、私と舞台監督がスピーカーフォンで一緒に聞いていました。その時、聞いている人同士がこの話を共有できた感覚があったんです。

今後、この作品を発展させる方向を探るためにも、複数人で聞くことがどういう効果をもたらすかを知りたかった。そのため、3人で聞くという形で参加していただきました。

参加者8:聴いているときにはバラバラの方向を向いていたために、お互いがどのように反応していたのかはわかりませんでした。でも、終わった後すぐに、30分くらい感想を話し合いながら、「このシーンをこう聞いていたのか」などさまざまな発見がありました。劇場で見て、終わった後にする会話とは異なった共有の仕方だし、そもそもこの3人で同時に同じ作品を鑑賞するのも初めて。新鮮だし、とても楽しい経験でしたね。

画像3

参加者9:私も、少し趣旨とずれる聞き方だったかもしれません。仕事をしているオフィスのソファで、はじめは前説のアナウンスの通りに電話を耳にあてて聞いていたのですが、途中からはスピーカーフォンにして聞きました。耳に当てている状態と、スピーカーで聞く状態との違いを知りたかったんです。

私は精神科医を仕事にしているのですが、電話を耳にあてて聞いているときには、仕事で受けた電話のことを思い浮かべていました。

救急外来などでは、夜中に、当直の人間に電話をかけてくる患者さんがいるんです。それは「何かを伝えたい」というよりも、「自分の中にあるものを話したい」というもの。その語りは、私には「脈絡がない」と思えるような語りなのですが、電話をしてきた当人には辻褄が合っているものなんです。

萩原:まさに『NOT I』で書かれているような語りですね。

参加者9:そして、途中からは、スピーカーフォンにして目を閉じ、寝転びながら聞きました。すると、声は大きくなり、私に向けられていたものが、誰に当てているのかわからない声になっていった。「見えない先」に当てているというか。そうやって、距離をおいて声を聞いていると、「もしもし」と電話の方に引き戻されてしまう。

創作の意図とは違うのかもしれませんが、聞き終わった後に「その人だけが見えている世界が、誰にも知られずに、いろいろな場所に存在しているんだろう」と、思いました。それと同時に「誰に当てられているのかわからないけれども、誰もが自分に当てられていないと感じるような声はいったいどこに行くんだろう?」とも考えさせられましたね。

萩原:「誰に当てられているかわからないけれども、誰もが自分に当てられていないと感じるような声」という言葉から、私は「死者の言葉」というイメージを連想します。『NOT I』という作品はいろいろな解釈ができる作品ですが、個人的には、ここに書かれている言葉は行き倒れになった死者の言葉だというイメージを持っているんです。

もしかしたら、その行く宛のない言葉をキャッチできるのが、電話というメディアであり、演劇というメディアなのかもしれない。そして、演劇として体験することによって、そんな声に対する感度を高めることができるのかもしれません。

そろそろ時間になったので、座談会を終わりにしたいと思います。長い時間にわたって、ありがとうございました。


原案|サミュエル・ベケット
「わたしじゃないし」(翻訳:岡室美奈子)
演出|萩原雄太
出演|清水穂奈美
舞台監督|伊藤新(ダミアン)
制作|清水聡美

記録撮影|荻原楽太郎
助成|公益財団法人セゾン文化財団
主催|かもめマシーン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?