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「もしもし、わたしじゃないし」  参加者座談会レポート<前編>

サミュエル・ベケットが1972年に書いた戯曲『わたしじゃないし』を原案とした、かもめマシーンによる演劇作品『もしもし、わたしじゃないし』。

俳優の清水穂奈美が電話を介して相対する観客は、1ステージにつきたった1人。電波の良好な場所であれば、どこでもこの上演に参加することができ、開演時間も予約時に観客自身が指定可能。劇場に集まり、他の観客と共に観客席で舞台を観る通常の作品とは、全く異なる演劇体験を生み出した。

では、そんな作品を体験した観客は、どのように電話の向こうにある気配に耳を澄まし、そこにはない舞台や身体を感じ取ったのか? すべての回が終了したあと、それぞれの参加者とともに2回にわたってオンラインでの座談会を開催した。

第1回目は、かもめマシーンの萩原雄太、清水穂奈美とともに、リハーサルに参加した『わたしじゃないし』の翻訳者・岡室美奈子さんも加わり、この作品がどのような体験を生み出したのかが語られた。

どこを「劇場」にしようか

参加者1:僕は、木曜の夜10時に電話をもらったんです。どこでその電話を受けようか、どこなら私の劇場、空間になるか迷っていました。そして、10時ちょうどに、録音された声で前説アナウンスの電話がかかってきた後、外に出てみようと思ったんです。

この日は小雨だったのですが、外でタバコを吸い、川沿いを歩いたり、公園に入ったりして声を聞いていました。

清水:お店に入った音が聞こえてきましたね。

参加者1:きっと、コンビニで缶コーヒーを買ったときの音ですね。

『わたしじゃないし』の内容に関しては、わたしの母国語が日本語ではないこともあり、理解できない部分も多かったですね。ただ、私自身『ゴドーを待ちながら』を演じたこともあります。ベケットの演劇言語は、意味を理解することではなく、人に考えさせるものであることは理解しています。

外を歩きながら電話で録音された声を聞いていると、あたかもこの携帯電話の中に女性が住んでいて、1対1の関係を結んでいるようなイメージが浮かび上がってきました。それは、とても珍しい体験でしたね。

萩原:ひとつ誤解があるのですが、この作品は、録音した音声を流しているのではなく、俳優が毎回観客に対してライブで語りかけていたんです。

参加者1:本当ですか? てっきり録音した音声だと思っていました。

清水:電話口で演技をしながら、電話の向こうでは、外を歩いて聞いていることがわかりました。きっとラジオのように聞いているのではないかと思ったんです。だから、ひとつひとつの言葉で聞き手に働きかけ続けるのではなく、すっと流れていくような語りにしようと思いました。

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参加者2:私は2日目の朝11時に家で聞いていました。電話を聞いていると、鳥の鳴き声や風の音などが後ろに聞こえてきて、俳優が外にいるんだということがわかりました。

電話口で「もしもし」って言われると、つい「もしもし」とか「はい」「ええ」とかと答えてしまい、思いきってこちらからもっと話しをしてみようかなと思うときもありました。そのうち「もしもし」と話しかけることで、こちらが聞こえているのかを確認したいんだろうなと思えてきた。そうやって話しが進んでいくと、終盤で、一旦電話が切れましたよね。でもすぐに電話がかけ直されてきて、何事もなかったかのように上演が再開されました。

清水:ちょうど、戯曲の中で聞き手が動作をすると書かれた部分でした。すごいタイミングで切れたと思ったんですが、そちらから切ったんじゃないんですか?

参加者2:えっ、まったくこちらから切った覚えはなかったんですが……。てっきり、そういう演出で、そちらから切られたんだと……。

清水:……え?

参加者2:……え!?

萩原:まるで怪奇現象ですね(笑)。

参加者2:さきほどの参加者のかたは、「自分の劇場をつくる」というお話をされていましたが、私の場合、終わってみてから自分も出演者だったということに気づきました。

この座談会の直前に、初めて戯曲を読んだんですが、ちょうど電話が切れたところに、「……(間。動作4)……」というト書きがあった。この「動作」というのは「聴き手が同情してもどうしようもないという感じで腕を上げおろす」というものでした。

また、電話が切れてる間に話しが進んでいて聞けなかった部分があるのかなと思ってたんですが、電話が切れたところからきっちり始まってたのが、戯曲を読んでわかりました。そういうこともあって、てっきりあれは演出だったんだろうと、他の回の上演でも同様の演出があったんだろうと思ってました。いやあ本当にびっくりです。きっと、知らないうちに、私の指が電話を切るボタンに触れてしまったのかと思いますが、あの場面はけっして忘れられない観劇体験となりそうです。

部屋に来てくれる演劇

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参加者3:私が聞いたのは25日の夜8時、自分の部屋でした。

私は劇場がどうしても安心できる場所に思えず、この半年間劇場に足を運んでいないのですが、その間、「門付」(※家の門前で行う芸能)が来てくれないかと思っていたんです。劇場に行けない代わりに、この場を劇場化してほしい、と。

当日は、公演が始まる30分前くらいからそわそわして、おもむろに「客席作り」を始めました。『わたしじゃないし』の戯曲を読むと、「聞き手」は「全身にかすかな照明が当たっており、高さ約1m20cm の見えない台の上に立っている」と書かれています。30分間立って聞いているのは大変そうだったので、床に寝そべりながら、家の蛍光灯をいちばん小さな豆電球にし、薄暗い光を浴びる客席をつくったんです。電気を落とすときは、まるで、劇場で客電を落とすような気持ちでした。

そうしているうちに、電話がかかってきて上演が始まった。上演中は「聞き手」と観客を往復するように聞いていました。その間、ずっと満月みたいな豆電球の光を見ていたんです。

萩原:まるで何かの儀式みたいですね。

参加者3:はい。突然電話が切れて公演は終わりました。そうして、豆電球を元の明るさの電気に戻してアンケートを書いた。そういう一連の儀式を経て、久々に演劇空間を体験した感じを受けたんです。

清水:Zoomで行われるパフォーマンスも「来る」という感覚になるのではないでしょうか?

参加者3:Zoomの場合、パソコン開き、電源を入れて、URLにアクセスして、待機する。一連の時間やプロセスが能動的で、こちらから「行く」感じがします。この作品は、門付のように「来てくれる」感じがしました。

そして、Zoomの場合、不特定多数に向けられている感じがします。劇場も不特定多数ですが、そこは、観客にとって「顔が見られている」場所であり、どこか完全な不特定多数ではない。その意味でも、電話のほうが劇場に近い感覚を受けました。

萩原:今回、劇場で観客席に座っている感覚に依拠したいと思っていました。例えば、前説のアナウンスが流れて3分置いて上演が始まる形にしたのは、その3分間はたとえ部屋にいたとしても、すごく居住まいが悪いはずだから。観客席に座っているように、いつもとは違う時間を過ごした上で上演が始まるようにしたかったんです。

それと、もうひとつ意識したのが、この作品が主題とする「自分だけど彼女である」という感覚でした。自分と、自分じゃない自分との距離、観客を見ることと見られること、それが非常に演劇的な関係を作っています。もしも、この作品が「わたし」についての話を垂れ流すだけならば電話という形は選ばなかったでしょう。モノローグだったら何でも電話でできるというものではないと思っています。

通話の相手は「わたしじゃない」

萩原:岡室先生は、『わたしじゃないし』の翻訳者であり、この作品は、リハーサルの段階で体験をしてもらいました。

岡室:夜8時に電話がかかってきて、日常の延長のような感じで電話を受けました。聞きながら、どうやって聞いたらおもしろいかと思い、途中で電気消したりしたんですが、やはり日常の延長で受けた方がおもしろい。結局普通の照明に戻して聞いていました。

俳優から「もしもし」って呼びかけられると、こちらも「もしもし」とか「はいはい」とか答えるんですが、こちらの応答とは関係なく一方的に喋り続けられます。それは、まるで死者の声を一方的に聞かされるような体験だった。この作品の重要な部分だと思うのですが、この言葉が「別の誰か」に向けて喋られているように感じられたんです。つまり、通話の相手は「わたしじゃない」。

だから、語りを聞きながら「私はこの人に対して何もできない」っていう無力感を感じた。そのような、さまざまな意味での「わたしじゃない感」が、電話を通して効果的に機能していたんです。

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岡室:そして、聞く姿勢として、スピーカーではなく受話器を耳にあてることも重要だったと思います。それによって、頭蓋骨に直接相手の声が響き、相手の身体が声と一緒に侵入してくるような感覚がありました。受話器からは声しか聞こえないはずなのに、どうしてもその向こうにある身体を感じさせられてしまう。声が不在の身体を連れてくるような感覚でした。

萩原:リモートで行われる演劇作品をいくつか見ると、ストーリーは伝わっても、そこにある身体が伝わってくる感覚が非常に薄いですよね。実際に自分たちでもZoomでリハーサルをしてみると、全然身体は伝わってこなかった。

離れた場所でどのように身体を現前させるか? と考えたとき、電話の声ならば、不在の身体を浮かび上がらせられるのではないかと考えた。耳元で声を受け取る電話の声からは、話し手の身体が具体的なものとして知覚することができるような気がしたんです。

岡室:『もしもし、わたしじゃないし』という作品は、「『電話』というメディアが不在の身体をいかに現前させるか」という作品として位置づけられるのではないか。もちろん、作品自体のことも考えさせられますが、それを成立させる電話というメディアについてもいろいろなことを考えさせられたし、コロナによって、ウイルスを媒介する人がつながるためには、デジタルなメディアを介さざるを得ないことも想起させられた。私としては、かなりおもしろい体験でしたね。

萩原:ベケットは、ラジオやテレビなど新しいメディアを積極的に取り入れていましたよね。この作品は、当初、オンライン作品として考えていたのですが、それを作ろうと思ったのは、ベケットが、新しいメディアを取り入れる人だったからです。

きっとこの状況に直面したら、ベケットはオンライン演劇をつくるでしょう。だから、我々も挑戦してみようと思った。その意味で、ベケットに大きく影響されてつくられた作品であることは間違いありません。


(後編へ続く)

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