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小説『無糖』

 
 自動販売機から二本の缶コーヒーが吐き出された。
 遠目に『無糖』の二文字を見た菜穂は苦笑する。一成はブラックが飲めない。いつもの彼なら「間違えた!」と盛大に騒ぎ出すはずだが、今回はそうはいかないようだった。何事もなかったかのように装って、だぶった『無糖』の片割れを菜穂に差し出す。

「ありがとう」

 菜穂の手を暖めるそれに、街灯の明かりが反射してチラチラと揺れた。横で渋い顔をしながら『無糖』をちびちび飲む一成を見て菜穂はまた苦笑しそうになるのをこらえる。お互いの白い息が沈黙を埋めていた。

 甘い物ばかりだと体に悪い、と前に菜穂は口うるさく言っていた。季節はまだ変わっていないというのに、もうずいぶんと昔のことのように感じた。きっと今だけは、一成もそのことに気を遣ってくれているのかもしれない。

 一成は変なところでとても器用だ。菜穂にはできないことが彼にはできる。菜穂にはないものが彼にはある。だからあんなにも惹かれたのだろう。
 今となっては殆どどうでもいいことを思い出して、また手元のコーヒーに目を落とす。飲み口から覗く黒い液体にはやはり、ミルクも砂糖も入っていなかった。
 
 自動販売機から一本のおしるこ缶が吐き出された。
 おつりをポケットにつっこんで、やけに熱い気のするその缶を拾い上げる。菜穂が思った通り、一成の缶コーヒーは半分以上残ったままだった。『無糖』を右手に持ったまま物言いたげな顔の一成を無視して、空いている左手に『おしるこ』を押し付けた。

「甘い方が好きでしょ」
 菜穂はおしるこが飲めない。それは自分には甘すぎた。
 


 紺青色の空に細い三日月が、頼りなくひっかかっていた。冷たい二月の風に吹かれて落ちてしまいそうだった。ひとつの白い息が、にじむように夜に溶けていく。
 手の中の缶コーヒーはもうすっかり冷め切っていた。最後の中身を飲み干して菜穂はまた歩き出す。残してきた片方の『無糖』がどうなったかはもう気にならなかった。

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