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そもそも無意味な現象しかないこの世界から意味を見出す方法とは?~常識を疑うことの重要性とそのメリット~

常識とは妄想であり
偏見のコレクションであり
凡人が仲良くするためのルールである

私は常識に従うことが嫌いで、他人が決めた枠にはまるつもりはない!と、浅はかな戯言を言うつもりはない。

政府が価値あると宣言しただけの、ただの紙切れや金属の塊をきちんと使って日々生活しているし(最近ではキャッシュレスを採用しているが)、どこの誰が何のために決めたのかもわからない法という名のルールに従っているし、納税の義務も果たしている。

今となっては時代遅れの教育システムも、十数年前に経験した。

好きなファッションブランドもあるし、その為なら少し余計なお金も払っている。

だがこれらは全て、私たちの想像上の意味付けによって成立している作り話しだ。

仮に今この瞬間に、世界中の人が一人残らず記憶喪失になったら、福沢諭吉の顔がプリントされた紙切れを道で拾っても大喜びする人はいないだろうし、ユニクロとグッチのT-シャツの価値の違いにも気付かないだろう。

したがって私たちは、常識という作り話しに支配されて生きているのである。

ここでは、常識とはいったい何なのかを検討していき、常識とは何かを知ることで得られる価値について、私の考えを主張していく。

生物的な意味の創造


そもそも、この世の全ての事象に意味はないと言える。

音などない、あるのは空気の振動だけだ。

色などない、あるのは光の波長だけだ。

臭いや味などない、あるのは化学的な分子だけだ。

感覚や感情などない、あるのはニューロンと電気信号の相互作用だけだ。

安室奈美恵のノリのいい楽曲も、ポロック絵画のフラクタルな色彩も、母の作るハンバーグの奥深い香りと味も、それらの刺激を受けた時の感動も、自然の最高傑作である脳がなければ、ただの無味乾燥の物理現象である。

したがって脳が持つ進化的な意義とは、世界の現象(内部の世界も)に意味を見出すことが主たるものと言えるのではないだろうか。

もしこのことが、あなたの考えや直感と相成れなかったとしても、世界中の科学者や専門家はこれを認めている。

ではなぜ40億年という長い進化的選択は、この過程をたどったのだろう?

何のために動物は脳を持つに至ったのだろうか?

この問いかけに対する答えは、常に普遍的で明白だ。

生存と繁殖のため。

この一点に尽きる。

私たちが受け取る全ての意味的経験は、生存と繁殖の確率を高める方向に役立つように脳が提示しているものを見ているに過ぎない。

そして私たちは、生存と繁殖の可能性が高くなる行為を行うと、あるいは予期すると、快感という感覚を介してポジティブな意味を得る。

反対に、生存と繁殖の可能性が低くなる行為を行うと、苦痛とういう感覚を介してネガティブな意味を得る。

例えば空腹は苦痛という意味を持ち、その感覚から逃れるために私たちは食べ物を探すように促される。

そして冷蔵庫の保管してあった好物のチョコレートを口にすると、快感というポジティブな意味を実感する。

よし!

これで生き残る可能性が高くなったではないか。

あるいは、他の男性との競争に勝つことで快感を経験することは、女性に権力や健康を誇示できるという意味を持つ。

よし!

これで繁殖の可能性が高くなってではないか。

(だから男性は権力闘争が大好きですぐ比較したくなるし、女性は危険を顧みず勇敢なふるまいをする男性に憧れを抱くのだ)

このように私たち人間も含めたこの世の全有機体は、快感を求めると同時に苦痛を避けるように、プログラミングされていると言えるだろう。(人間以外にその自覚があるかどうかは別として)

そして、刺激の意味を快感に設定するのか、それとも苦痛に設定するのかのモノサシは、生存と繁殖の損得関係の確率表に従って決まっていると言える。

人間的な意味の創造

だが人間の場合はそこまで単純な話ではない。

なぜなら人間には、刺激から意味を生み出す過程の間に認知という工程がが加わるからだ。

認知とは思考したり、記憶したり、判断したり、注意を向けたり、言語的に解釈したりする脳の高次の機能である。

しかしここまでなら人間以外の動物でも行っていることが、現在わかっている。(ゾウ、イルカ、類人猿など)

人間を人間にたらしめるのは、認知活動をする自分を認知する能力を手にしたことであり、その結果、自己意識や自由意志、アイデンティティなどの心的な機能をも有するようになったことであろう。

(人間以外の動物にこの能力があるかどうかはまだ解明に至っていない)

だから私たちは、客観的には同じ事象であるものに、複数の意味を解釈できるようになり、心を介した外側と内側はオリジナルの意味で溢れかえるのだ。

そしてそれらはそれぞれの価値観を形成し、個人間でも集団間でも差異が生じ、爆発的な多様性を生み出すに至る。

例えばとあるドレスが目の前にあったとして、それをオシャレととるかダサいととるかは、一人ひとりで違うだろう。

あるいは、彼氏との甘酸っぱい思い出を感じるのか苦い喧嘩の思い出を感じるのか、それとも何の感情も興味を引き起こさないのかで全然違うだろう。

このように客観的には同じドレスに複数の意味を見出すには、そしてその情報を活用するには、認知を介した心の作用が必須だ。

だがこれだけでは私たち人類は、地球上の覇者には君臨できなかった。

ここまで多様性に富んだ個人個人をまとめるには、何か他の強力なツールが必要なはずだ。

そこで登場するのが非現実性を虚構する力、つまり作り話しである。

想像上の意味的な虚構を共有することで、私たちは多くの集団で団結することが可能となり、このことによって全生命体の頂点に立つことができたと言えるのだ。

古代のローマやエジプトやトルコの権力者は、神が主役の宗教という作り話によって民をまとめ、帝国を築いたと言われている。

まさにここでいう想像上の意味的な虚構のことこそ現在でも私たちを知らず知らずのうちに支配している常識の源泉である。

例えば、人を殺すのは良くないことだと考えるのは当然であり常識であろう。

だがこの常識は、神に由来する聖書という作り話に従って生活をしてきた過去の文化に根差す考え方を反映している。(現在では人権という作り話に置き換えられているが)

実際は、人を殺すという現象を客観的に善悪で証明することはできない。

(現代の価値観の基準は他人に嫌な思いをさせるのか善い思いをさせるのかを経験則から仮説を立てることによって行われている場合が多いだろう。したがって殺人は良くないと判断するのが当たり前だ。)

※この辺りの概念をきちんと知りたい方はユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書を一読することをおすすめする

少し話は飛躍したかもしれないが要するに、無意味な現象しかないリアルな世界では、常識も法律も伝統も宗教も文化的なモノは何であれ、全て妄想に過ぎないと言えるのであり、私たちが経験する全てのことが、脳が編集した意味的な現象なのである。

常識とは妄想である|疑ってみる

“神は妄想である”とリチャードドーキンスが言ったように、私は常識は妄想であると言いたい。

さらに、アインシュタインが言うように常識とは偏見のコレクションであるし、日向徹が言うように常識とは凡人が仲良くする為のルールだと考えることに、私は一切の違和感を感じない。

では常識が単なる妄想であると自覚することで、いったい何のメリットがあるというのだろうか?

それは、あなたがこれから一生かけて行っていく思考、判断、行動の選択肢が増えることにある。

女は男に劣る?

結婚したら一緒に住む?

歳が上ってだけで敬え?

社会人としてスーツにネクタイは礼儀?

美しくなる為には痩せなくては?

これらが正しいかどうかを、本当の意味で証明することなどどんな権力者や科学者でもできない。

もちろん秩序を保つ為に、ある程度の規範となる制度は必要だろう。

しかしだからといって、過去から脈々と伝えられてきただけの想像上の作り話に支配されて、自分の思考や行動や判断の選択肢を狭くする必要はないのでは?

常識とは何かを知ることで、私たちは過去の呪縛から解放され、より自由を得ることができるのだ。(と同時に責任も発生するが)

さあ、他人が押し付ける作られた意味(=常識)を一度疑ってみよう!

常識だから。といって思考を停止するのはもったいない!

そもそも意味のない人生だからこそ、より豊かな意味を自分自身で拡張することができるのだ!

そう私は考えている。

エピローグ~人体から人間の専門家へ~

私の仕事は、ダイエットや姿勢改善や美脚など、美と健康を目指す人を指導するパーソナルトレーナーである。

簡単に言えば“人体”の専門家だ。

筋肉や骨、神経に代謝、さらには栄養や遺伝子、腸内環境などの知識を駆使してサービスを提供しているし、人体への探究もまだまだ続けている。

しかし美と健康を望む人の理想を、本質的に達成させてあげたいのであれば、“人体”の専門家では不可能だろう。

なぜなら、美と健康は人体の構成要素を組み立てただけでは成立しないからだ。

つまり真の美と健康には感覚や感情、性格、信念、記憶などのその人の意識的な心が関与している。

だから私のような美と健康の専門家は、“人体”とは?という探究に加えて、“人間”とは?という探究もするべきだと私は思う。

今回の記事は、パーソナルトレーナーとして“人間”を探究している過程で行き着いた思想であるのは間違いない。

そしてこの考えは、次のような未来を想起させるのではないだろうか?

この先のAI時代では、人体のみの専門家は淘汰され、人間の専門家が生き残る。

これが真実かどうかはわからない。

だが近い将来に、この答え合わせが始まるまで悠長に待ってる余裕はないはずだ。

知性を働かせよう!!

故に、私の知識への探求心がこの先止まることはないだろう。

この記事を書いた神尾健太という人物
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