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上久保ゼミのクリティカル・アナリティクス:「日本の学校教育における部活動の是非」

7月11日(木)1限:競争力養成プログラム。

学生の議論は以下の通り。

上久保のコメント

主に先生の負担の論点が「残業が多い」「働き方改革」の観点で語られることが多い。だが、本来は、教育、健康増進、競技スポーツ、地域コミュニティとの関係など、様々な問題が含まれている。それらが整理されることなく、ごちゃまぜになったまま議論されていることが問題だろう。

歴史的には、明治以降の近代教育導入の際、運動の目的として、子どもの教育の一環、体力の養成、健康増進という「体育」と、競技会で勝利することを目ざす「競技スポーツ」の2つの路線の対立があった(それは、大河ドラマ「いだてん」で描かれた)。

結果的に、その2つが混在した形になったということ。

英国など欧州では、学校では「教育」の側面に集中し、競技スポーツは、地域に根差したクラブチーム(サッカーなど)が行うように、分化されているように思う。

欧州の場合は、「階級社会」がいまだに残っているところがある。中流階級以上は、スポーツ選手を目指さない(スポーツは観るものという考え方)。スポーツ選手を目指すのは、主に労働者階級であるようにみえる。

いわば、競技スポーツは、労働者階級の立身出世の道だといえる(例えば、ディビッド・ベッカムさんなど)。

一方、日本は基本的に階級社会ではなく、教育と競技を分けることなく、すべてを学校で一律に、平等に行うことになってきた。その負担が、教員に集中しているのが現状だということ。

また、現在ではクラブチームや、私学が才能のある選手を集めて育成しているという現実が加わっている。一方、地方の衰退もアリ、松山商業野球部のように、公立と私学の格差が広がっている。

指導者の問題だが、私の認識では、地域にはコーチができる人材はいると思う。かつて、地域の学校で部活をやっていた大人が多数いるからだ(子供の数より多いのかもしれないという笑えない現実があるように思う)。子どもの指導をしたいという人も少なくないはずだ。

私の田舎でも、私の同級生などが子どもの部活の試合を観にいってるのをSNSに上げているのをよくみる。彼らは、子どもを教えてみたいと思っているかもしれない。

素人の先生が休日を潰して指導するより、よほどいいのではないか。

要するに、学校の外にいる地域の人たちなどにも協力してもらい、フレキシブルに問題に対応すれば、いろんなアイディアがありそうな気がするのだが。

それを邪魔するのが、全員同じように身に着けるべきという日本社会の平等の風潮ではないだろうか。この問題に限らず、日本の教育では「過度の平等主義」が根強く、フレキシブルな対応を阻んでいる。その結果は、例えば勉強であれば、「塾」に通っているのが強者となる。スポーツならば、リトルリーグなどクラブチームに通える子が勝ち組になる、などの格差の広がりではないだろうか。

「平等」を押し付けて、「不平等」が広がってしまうということだ。


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