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紹介したいnote記事「雨男」

冬月剣太郎 猫詩人🐈さんの「雨男」という記事を紹介します。

わたしは泣き虫だ
悲しいときも嬉しいときも
よく泣く
傘もささずに
ずぶ濡れになって
歩きながら
思いきり泣いていたら
なぜか笑いがこみあげてきた
涙と雨はわたしの生きる力だ

雨男| 冬月剣太郎 猫詩人🐈 (note.com)

 一般的に「雨男」とは、「その人が出かけたりすると雨が降る男性」の事を言います。運動会など雨が降ってほしくない日には「厄介な人だ」という、侮蔑的意味合いが込められています。モノクロの写真の男性は、どこか浮かない表情のように見えます。

 詩は「わたしは泣き虫だ」で始まります。詠み手の自己紹介です。一番「伝えたい」内容です。私自身、子どもの頃は泣いてばかりで、父や兄、先生から「男だったら泣くな」と言われてきました。ですから、悲しくてもぐっと奥歯を噛んで我慢する事が多くなりました。

 それでも生理現象ですから、涙は出てしまいます。目に力を入れて、涙が零れないように必死に堪えていた日々が思い出されます。成長するに従って、友だちの前で泣くのは恥ずかしいし、いろいろな事を経験して感情が慣れたからか、泣く事は少なくなりました。

 結婚して子どもが生まれてからは、再びよく泣くようになりました。入学式や卒業式のたびに「よくここまで育ってくれた」と感情が爆発してしまいます。

 詠み手は、泣き虫である事を隠そうとしていません。自分を飾る事なく、ありのままを見せようとする「正直」「素直」な方です。そして「言い訳がましい」ところもありません。自らを正当化する事もなく、非があればすぐに謝罪できる方でしょう。

 自らの弱さを認める事が出来る人は、人の弱さを受容できる「強い方」だと私は思います。この詩は堂々と自らの弱さを誇っています。新約聖書の「コリント人への第二の手紙 12章7節から10節」にこう書かれています。

そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 8このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

https://www.bible.com/ja/bible/1820/2CO.12.%25E5%258F%25A3%25E8%25AA%259E%25E8%25A8%25B3

 私はクリスチャンではありませんが、若い頃に聖書を研究した事があります。パウロはキリストの福音を熱心に伝道していましたが、「肉体のとげがなければもっとよく伝道できるのに」といつも思っていました。この「肉体のとげ」とは何を意味するのかわかりませんが、私は「容姿に対するコンプレックス」かなと想像しています。

「だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」

 パウロは「自分のためには強くなれないが、キリストのためなら強くなれる。迫害されて弱くなればなるほど、私は強くなる」と言っているのではないかと思います。宗教を迫害すればするほど、信者は結束するみたいな感じでしょうか。

 「女は弱し、されど母は強し」と言いますように、子どものためなら親は強くなります。また、国のために命をかけた特攻隊の若者は、死の恐怖を乗り越えて強くなりました。人は「守るもの」がある時に強くなります。詠み手には「強い信念」があるようにこの詩から感じました。

「思いきり泣いていたら、なぜか笑いがこみあげてきた。涙と雨はわたしの生きる力だ」

 涙を流した分だけ強くなったと、自らの人生を誇っているように思えます。まるで岡本真夜さんの名曲のように。


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