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シベリア帰りのゴジラが旧敵国アメリカを迎え撃つ「キングコング対ゴジラ」(1962年)

一昨年公開され、世界的に大ヒットしたハリウッド版ゴジラの最新作「ゴジラVSコング」の原点が、この「キングコング対ゴジラ」だ。

日米合わせて33作あるゴジラ映画の中で最も好きな作品だが、僕が生まれた1962年に公開されたという意味でも思い入れがある。公開当時僕はまだ生後2ヶ月なので、当然リアルタイムでは見ていない。

初めて見たのは1983年、21歳の時だった。ゴジラシリーズの旧作10本を完全ニュープリント版で上映する「ゴジラ1983復活フェスティバル」が開かれたのだ。当時シリーズ最高傑作との呼び声が高かった本作は、期待に違わぬ面白さで、日米を代表する二大怪獣が、東北地方から富士山麓まで東日本を縦断しながら戦う様子に大興奮した。

ゴジラシリーズの3作目ではあるものの、実質的にはコングが主役と言ってもいい映画で、その生まれ故郷である南の島のシーンが妙に印象に残った。顔を黒く塗った日本人俳優が島の住民を演じているのだが、公開当時の1962年ならいざ知らず、1983年の目で見るとさすがに違和感があり、悪い意味で印象に残ったのである。

映画で、島の住民たちは腰蓑一つで生活する未開の裸族として描かれる。コングは彼らに畏怖される「巨大なる魔神」として登場し、島民たちはコングの怒りを収めるために祈りと踊りを捧げる。いかにも南の島のステレオタイプといった描き方で、戦前の大日本帝国が南洋諸島を統治していた時代とほとんど変わらない感覚なのが気になった。

コングの棲息地は、デビュー作のアメリカ映画「キング・コング」(1933年)ではインド洋に浮かぶ髑髏島という設定になっているが、「キングコング対ゴジラ」ではソロモン諸島ブーゲンビルの南100kmに位置するファロ島へと変わっている。髑髏島の場所はインドネシア・スマトラ島の西方なので、東へ6,000km以上も移動したことになる。

変更の理由としては、脚本を担当した関沢新一が土地カンのある場所を舞台に選んだからだろう。関沢は太平洋戦争中、ソロモン諸島あたりの南方戦線に派遣されていたという。この一帯は、ガダルカナル島やブーゲンビル島などで激しい戦闘があり、8万人の日本兵、1万1000人のアメリカ兵の命が失われた地域だ。連合艦隊司令長官・山本五十六の乗る飛行機が撃墜されたのも、ブーゲンビル島の上空である。

「キングコング対ゴジラ」は、シリーズで初めて戦争の影を払拭した娯楽作と言われている。登場人物はみんな陽気だし、全体的にコメディタッチだからそう言われるのだろうが、ファロ島の地理的・歴史的な背景、島民の描き方を見ていると、本当にそうなのかとも感じる。映画のスタッフやキャスト、そして劇場に詰めかけた観客も、少なくとも大人たちは戦争前と戦争中、そこがどんな場所だったのかをはっきりと記憶しているはずなのだ。

太平洋戦争の激戦地から海を渡って日本にやってくるコングは、アメリカを代表する怪獣というだけでなく、かつての敵国アメリカというイメージも重ね合わされているだろう。では、いっぽうのゴジラはこの映画でどのように描かれているのだろうか。

前作「ゴジラの逆襲」(1955年)のラストで、ゴジラはオホーツク海の小島で雪中に生き埋めにされて退治される。「キングコング対ゴジラ」でのゴジラは、氷塊の中で冷凍冬眠状態となり北極海を漂流していたところ、アメリカ軍が保有する原子力潜水艦と遭遇、襲撃する。さらにソ連軍とおぼしき軍事基地に上陸し、戦車部隊を殲滅。7年の眠りから覚めたゴジラはやたらと好戦的で、アメリカ軍、ソ連軍ともひとたまりもない。

そこからベーリング海を一気に南下して、松島湾から日本本土に上陸するのだが、仙台などの都市を破壊するシーンは描かれない。東北本線の特急列車を襲うシーンはあるが、ゴジラと遭遇する直前に列車は緊急停止し、乗客はみな逃げ出している。その後も人間を襲うシーンはなく、この映画でのゴジラは凶暴な割に、日本人に対しては妙に礼儀正しいのである。

そうこうしている間にコングが千葉東海岸から上陸。ゴジラを追って北上し、那須高原で両雄がついに激突する。しかしこの時は、ゴジラの放射熱線におそれをなしたコングが逃亡し、決着はつかない。

このゴジラの一連の行動を見ていると、まるでソ連のシベリア抑留から帰還したかのようであり、東京大空襲の時と同じように房総半島から日本に侵入したコングを一蹴する様子が頼もしく感じられる。

シベリア抑留を持ち出すなんて大袈裟だと思われるかもしれないが、日本とソ連の国交は1956年に回復したばかりで、1962年の日本人にとってシベリア抑留はまだ生々しい記憶だった。その証拠に「キングコング対ゴジラ」の併映作にはシベリア抑留のエピソードが出てくる。

その併映作は、双子の女性歌手ザ・ピーナッツが主演する「私と私」という作品で、戦後の混乱で生き別れになった二人がひょんなことから再会し、芸能界を目指すというストーリーなのだが、彼女たちの父親はシベリア抑留で亡くなったことになっている。

また「キングコング対ゴジラ」の劇中には、生物工学の博士が「ゴジラは動物の帰巣本能によって日本に戻ってくる」と予測するシーンがある。ゴジラはもともと小笠原諸島あたりに棲んでいたという設定なので、帰巣本能で戻るとすればそちらのはずなのだが、実際には本土に上陸する。ということは、脚本家や監督たちはかなり意図的に、ゴジラを北から日本に戻ってくる存在、つまりシベリア抑留帰還者として描いていることになる。

映画公開時のポスター

日米二大怪獣の対決は、当時大人気だったプロレスと重ね合わせて語られることも多くある。ゴジラが日本の英雄である力道山、コングが米国プロレス界の頂点に立つ鉄人ルー・テーズに擬せられているわけだ。

2人は実際に1957年に日本で戦っており、その時行われた後楽園球場での試合は歴史的決戦として有名で、そのほかにも大阪、福岡、広島、神戸、名古屋、仙台、そして当時アメリカに占領されていた沖縄でもシングルマッチを行い、8戦して力道山の0勝6引き分け2敗。力道山がやや劣勢のまま、この時は決着がつかず、テーズはアメリカに帰国する。

ゴジラとコングが戦うシーンの演出は、この時の力道山対テーズの試合を参考にしたと言われているが、映画の結末も両者引き分けに終わる。熱海城を挟んでのド派手な接近戦の末、二頭の怪獣はリング外ならぬ相模湾に転落。海上に顔を出したコングはそのまま振り返らず島に帰り、ゴジラは海に沈んだまま姿を現さないというエンディングを迎えるのだ。

この結末を、ゲストとして招聘した先輩格のコングに忖度した結果と評する人は多いのだが、僕の見方は少し違っていて、海を渡って攻めてきたコングを追い払ったのだから、実質的にはゴジラの勝ちだと思っている。

劇中でのコングは、商魂たくましい企業とテレビ局の企みで日本に連れて来られただけで、なにも積極的に攻めてきたわけではないのだが、前述したようにコングをアメリカに見立てて描いている部分もあって、脚本の関沢新一、監督の本多猪四郎、特撮の円谷英二らの本音としては、案外僕の見方のほうが近いのではないかと思う。

それからもう一つ、コングをアメリカと重ねている部分があって、それはコングが国会議事堂に登るシーンである。1933年の映画でコングは世界一の高さを誇るエンパイアステートビルに登ったが、1962年の国会議事堂も日本で一番高い建物だった。

当時の国会議事堂は、いやがおうにも1960年の日米安保闘争を思い起こさせるロケーションである。このとき日米安保条約改定を強引に進める政府に対して、連日デモ隊が国会議事堂を取り囲んで抗議を行なったが、デモ隊と警官隊との衝突で女子大生が死亡する痛ましい事件が起こっている。

その記憶も覚めやらぬ2年後、国会議事堂の屋根に登って日本という国家を蹂躙したのがアメリカ出身の怪獣キングコングなのである。その片手にはヒロインの浜美枝が握られている。一見するとエンパイアステートビルの再現のようにしか見えないが、当時の日米関係や国民の反米感情を踏まえると、映画を作った人たちがその裏側に忍ばせたものは明白だと思う。

この後コングは麻酔弾で眠らされ、富士山麓まで空輸されてゴジラとの第二ラウンドを戦うことになり、最終的にコングは日本から逃亡する。僕がこの結末をゴジラの実質的な勝利と見るのは、このように二重にも三重にも、キングコングというキャラクターにアメリカを象徴させる仕掛けが施されているからだ。

シベリア帰りのゴジラが、太平洋から攻めてきた憎っくきアメリカ野郎のコングを叩きのめして日本から追い出す。これが僕の考える「キングコング対ゴジラ」の裏テーマである。そんなことは当時も今も、誰ひとりとして明言していないが、映画を見た大人や子どもたちは無意識のうちに、このメーセージを受け取ったのではないだろうか。

世紀の怪獣プロレスはスッキリしない結末だったけど、ゴジラは格好よかった! 多くの人がそう感じたからこそ、1225万人もの観客を動員するメガヒットにつながったし、この映画でコングを追い払ったことにより、ゴジラはヒーローへと生まれ変わったのだ。

1954年の「ゴジラ」は戦争の影が全編を覆い尽くしていたが、1962年の「キングコング対ゴジラ」は、戦後復興期から高度経済成長期に突入し、その真っ只中で作られた映画だ。至るところに日本人が自信を取り戻した様子が伺える。

だからこそ、幻の本土決戦で日本を守って戦うという、この映画でのゴジラのキャラクターが成立したわけで、戦争の影を払拭したというよりも、戦後17年にして太平洋戦争をやり直したと言うべき映画だと思う。南の島の描き方が大日本帝国時代そのままだったのは、これで説明がつくだろう。

最後に、力道山とルー・テーズのその後について触れておこう。映画公開の8月11日に先立つこと47日、1962年5月25日東京体育館で行われたワールド大リーグ戦の優勝決定戦で、力道山は2-1のスコアでテーズを破って、見事優勝を果たしている。この年に行われたもう一つの日米決戦を制したのも、やはり日本の英雄だったのだ。


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