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"社会不適合者宣告"ですら誉め言葉。

こんにちは…!明るく前向きメンヘラ道をモットーにしております、毎度うるさく研究職を志す院生です。また長い記事です。
昨日アパートに帰還する予定が、久しぶりに体が動かなくなったのでやむなく実家療養をして生産性のない一日を過ごしたので書いておきます。
こういう日はとことん落ち込んで罪悪感に苛まれた挙句に考え事の地獄、デフレスパイラルのごとく負の思考回路になっていくからです。

昨日の朝、起きたら久しぶりに左耳が遠くなっておりまして、なんか怠いし寝る前に姉の前で堂々と早起き宣告しておきながら二度寝していました。姉曰く、「起きたから話しかけたのにもう二度寝して無視された…」とのことです。なんて早い二度寝…!
1時間後に起きたら姉には呆れられ、必要最低限の薬しか持ってきていなかったし昨日帰る予定だったので昨日から薬をきらした状態で、なぜか今断薬みたいな状態になっています苦笑
ボケーッとしたまま、薬剤師の姉に食わないと力が出ないだのなんだのと半ば強制的に朝食を摂り、元気に「ジムで踊ってくるわ!」と出かけた姉とは正反対に、ソファーでぐだりぐだりとしながら考えておりました。姉は午後も予定があったので実質昨日は一人です。実家をたまに拘置所と言ったりもしてます。こういう時一人になると本当に危ないですね、下手するとベランダを眺めながら私の周りだけ時が止まります。(マンションでそこそこの階数なので)
何をしてもとりあえず無気力なので、食事は全部姉に唆されて食べました。姉が出かけてからはソファーから動けずにスマホで小説を一気読みしたり、それからとりあえず外界の動向をツイッターで知ったりして、友人の絵がバズッたり知り合いの絵描きさんがコンスタントに絵を更新していたり、そういうのを見てはまた自己嫌悪に陥る。完全に自ら落とし穴を作って嵌るようなデフレスパイラルですね。よくない…。


・なぜ落ち込むとわかっていながらそんな行動を取って、勝手に自己嫌悪に陥っているのか?
全くわかりません、心当たりもありません。ハッキリ言えるのは、とりあえず快方に向かっていてやっほーい!となっているメンヘラにも突然ガクッと落ち込むことがあるということですね。それを学習しました。
そこそこ最近調子よかったんです、院試終わってから気が抜けたのか心が軽くなったのかはわかりませんが。一応バイトにも復活し始めてこれから修論か、よし…と思っていたのに突然のエンジン停止。助教にも休め休め言われていたのはこういうことだったの…?と思いながらスマホをいじる。休んでいたつもりだし研究も再開したし快調快調、と喜んでいた一方で論文そろそろ書き始めなきゃという妙な焦りなどでキャパオーバーしたというところでしょうか。調子がいい時ほど、イケる…!と思って調子乗ってしまうのはまだ自己管理がなっていないのか一歩引いて自分を見られていないということかもしれないです。研究は楽しいけどなんか最近遠ざかってる気がしないでもない。そして同期は皆社会人なので仕事がうんたらという話を見ると焦ってまた私は何もできてない…今日はダメだ…と罪悪感に苛まれる。そしてベランダをぼけーっと見つめる。わかってはいてもなかなかどうして他人と比較してしまうんでしょうかね。

・休学は逃げ、という偏見。
思い返せば、高校で一度抑うつになったものの、大学である程度冗談の受け流し方を覚えてわりと一般的なストレート学歴に加えて交換留学という称号を手にして帰国し、まさに"順調な大学生"だったと思います。帰国後突然忙しくなって初めてパニックを発症して、正直高校の抑うつはエセ鬱かよ…と思いました。なんて言ったって電車に乗れなくなったので学校に行けなくなり、座っているにも関わらずガラガラの車内で突然パニックを起こして駅員さんに休ませてください…とお世話にもなる。そしてなんとかタクシーで帰宅すれば、タクシー代を持ち合わせておらず国家試験前の姉に呆れ顔で財布を持ってこさせたこともある。仕事がない日の母を連れて死にそうになりながら片道1時間半の大学へ行ってみれば、卒制の作品解説というか卒業研究発表のリハーサルで何の用意もなく泣きながら喋り教授に叱咤されて後から慰められる羽目に。まあ、研究発表については後日別室でということで教授と学部の審査の教授の前で個別発表という特別措置を取っていただいてなんとか単位を取って卒業。後期受験の院試の後にパニックになったので院試は無事通過していて一応進学可能になりました。
院に入ってみたら、卒制かゼミくらいしかない学部4年とは打って変わって、週4授業にプロジェクト系の授業、しかも主にグループワークのため授業時間外の招集があるし院生だからと泊まりも普通、国公立のためか下宿生が多く夜遅くまでのミーティングも普通。
いや、ただでさえiPodとスマホを握りしめて現実逃避しながら薬に頼って電車通学しているのに夜の電車とか週4とかマジでありえない…。つい2ヶ月くらい前まで母親同伴で大学に向かっていたのに…。ていうか思ってたのと全然違うし研究のテーマ、もっと具体的にしなきゃダメ?なんで先生そんな怒るの?とか思ったりしてゼミ中に泣いたりしたこともありますし、相当ヤバい奴だったと思います。他人よりも少しは抑えたものの、M1の前期は忙しいと聞いていただけにかなり応えました。そして前期の単位を無事に死守したのちに教授から呼び出され、勧められたのが休学。
正直嬉しかったです。自分から親には言えないと思っていたので。教授から言っていただけるなら親も説得できるのでは、と。うちの大学は私立と違って休学中は学費を払わなくても大丈夫なのです。なので後から名門私立大に通っていた従兄弟や私立の薬学部に通っていた姉からは休学とか金銭的にありえない、できないと思った…と言われました。でも国公立って払わなくていいの?マジで?なんて驚かれました。それもあってか、休学もなんというか自分から親に言い出せなかったのです。それも罪悪感というか。折角学費まで出してもらって院まで通わせてもらってるのに。休学したらなんか負け…みたいな変な意地を張ってたのかもしれないです。

・自由すぎ、最高…!
後期になり休学期間を半年とりまして、まず手をつけたのが作家活動の再開。筆ペンや墨でイラストを描いては留学前にお世話になっていた現役美大生や若手作家を中心とした銀座のギャラリーに、休学したので絵を描く時間ができました、とわりと2~3週に1度は必ず展示販売。週を跨いで展示してみたりデザフェスやコミティアの出展、ポートフォリオサイトや画集の制作でインデザインとかイラレなどAdobe製品のスキルを身に着けました。多分学部での勉強よりも使ったし、習うより慣れろ感覚で覚えていった気がします。そこで美大生や他大の作家さんたちとのコミュニティができました。憧れた人と一緒にラーメンを食べに行くなんてこともしましたし、美大のデザイン科の内情を知ったり原研哉って実際どうなの?とかムサビ生に聞いたこととかあります笑
あとは同じようにちょいメンヘラ界隈でメンヘラあるあるを共有したりとか、全部絵に出るよね~みたいなフランクな話をギャラリーに在廊中してたりとか。ギャラリーのプロデューサーさんは元雑誌編集者なので売れ線についてやアート界隈の最新の動向や見とくべき作家とか色々な情報をくれたりして、私の絵を買って下さる方ができたのもプロデューサーさんのマーケティング情報や美大ではない私へのカワイイ理論であったり、男受け女受けの基準やら、そういった話のおかげでしょうか。今では逆に絵を描く時間があまりないのでたまに都心に立ち寄った時に顔を出してこれいいとか言うと、そういうのがわかってきたね、とか茶化されるくらいにはなりました。私がデザイン科でパッケージデザインを研究するきっかけもきっとこのマーケティング論市場で有効性のあるヴィジュアル戦法なんだと思います。

・復学か、退学か。
半年経って、治療はどうだったかというと微妙でしたね。市立病院でパニック障害と自律神経失調症の宣告を打ち出されてから紹介されたクリニックに通っていましたが、薬はコロコロ変わるし私の体が敏感になっていたのか副作用が出るわ拒食、食欲不振に不眠。ある一日はとにかく無気力で起き上がれないし朝ごはんが昼ごはんになったり、絵も描けずに一日中テレビをBGMにしてたまには自傷行為に走りかけました。母は仕事のない日には必ず私を近所に連れ出して一緒に昼ごはんを食べに行ったり、珍しくドライブしたりとか普段は絶対にしないようなこともしました。あ、これのおかげで車酔いが治りました笑
それでも鬱を併発していたようで、自律神経のせいでOD(起立性調節障害)のように起きれなくなった自分に最早絶望さえしてました。社会復帰なんてできないしそれどころか、いつでもおいでと言われた大学さえ足が遠のいていました。半年の休学期間の間、夏休みくらいから一時期辞めたアルバイトも店長が長年のよしみで裏方作業があるからレジしなくていいし私服でいいからお手伝いしない?お給料もだすから、と働かせてくださったのは本当にうれしかったです。最初は月に2回から始まり、今は週1ペースでやっています。バイト先ではリーダーさんが気にかけてくださって、それとなく最近どうなの~?とか体調を聞かれたりしました。まあ、パニックの発端はバイト中だったのでその時にご迷惑をたくさんかけてしまいましたし。近況報告をしつつ少しずつ働いて、なんだかお給料までもらってしまって、でも常連さんにはきっと私服でもアイツ戻ってきたとか思われてたかもしれませんね、普通に商品どこですかとか私服店員でも声かけられましたから笑
もうすぐ休学期間が終わる、というときに途端にどうしようとなったのです。休学中大学には恐らく1度も行かなかったと思います。それよりも銀座で絵を見たり展示したり家で絵を描いては発信して、という毎日だったので今更あんな遠い所…と思ってしまったのもあります。そんなときにバイトリーダーさんは、自信がないなら休みなよ、ちゃんと回復してから戻ったほうが中途半端なまま復学するより絶対いいし、仮にそのまま復学してまた元に戻っちゃったら前より落ち込んじゃうでしょ?と言ってくださいました。
正論でした。また学校に戻ってできなかった、皆はできてるのに…となるのが目に見えていましたし実際同期がM2だからと卒業式を覗いてみたはいいものの、帰宅してから皆は立派に院卒で就活もして社会人になっていくのに私は何をやってるんだ…と死ぬほど落ち込みました。頭めりこみそうでしたもん。結局休学をもう半年伸ばして計1年の休学期間を経て、また復学問題に直面するのでした。突発性難聴を二度やって、休学期間の終わりが迫ってきて拒食になり、親に退学するか、とまで言われものすごく悩みました。そして親に言われたのは、あんたは一体何がしたいのよ?このまま退学してどうやって生きていくの?というナイフのような現実でした。

・人は人、自分は自分。
よく休学中母に言われていた言葉です。結果を先に言いますと、「修士号を取って卒業する」というのを目標にして復学しました。折角ここまできて留学もして視野も広がり他大の現状も知り、見た目のデザインがどれだけ世の中のマーケティングに関わっているのかを知り、休学前にぼんやり研究テーマとして取り上げて収集していた駄菓子のパッケージデザインを見て、今も昔も変わらないデザインで流行に左右されず売れ続けるってすごい…!と思い、思い切って復学しますと教授にメールをして夏休み前に少し研究の方針を固める個人面談をしたらもうハマりました。そして一番の弊害だった電車ですが、私は頑張りたいということで父は理解してくれて、下宿を許可してくださったのです。こんなメンヘラなので最初こそ、これでリスカしても誰も怒らないぞ…とか思っていたのですが、心配性の母をなんとか説得させて私はもう即座にスーモとか不動産情報見まくってすぐ物件探しに取り掛かりました。そこから先は自分でも驚くほどすごく速くて、父の海外赴任が先に決まっていたのに、私の引っ越しが先に決まってしまいました笑 内見も先に一人でして絶対ここと決めて再度両親と内見、契約。留学時は寮でしたが個室だったのでほぼ一人暮らしで、国外での一人暮らしよりは全然楽でした。夏休みになってまず朝起きる練習をし、ずぼらヨガをやってみたり、とりあえず毎日学校に通ってました。絶対毎日いる人っているんですよね、必ず笑
後期が始まって勿論不安はありましたがなんとかやっていけそう、と思ったし夏休みの研究が捗ったので研究が楽しくなってきてリハビリも兼ねているけれど好きで学校に毎日行ってました。向かいの研究室では、修士入学時の同期は一個上ですが学部入学時は一個下の代なので敬語を使われるという不思議現象を体験しつつ、よく研究室に一人の時は夜ごはんや華金に誘ってもらったり、復学祝いで鍋パも開いてくれました。彼氏になる前の同期も各研究室に必ず一人はいる常駐組の一人でして、デザイン一直線でした。まあ、こんなメンヘラに彼氏ができるとも思ってなかったのですが、私がわりとあっけらかんとメンヘラだから酒ドクターストップだ、とかメンヘラやばいっしょwとメンヘラ界隈の話をあけっぴろげにしていたので同期は大体私が休学した理由もメンヘラなのも知ってます。たまにODした時は誰も何も言わなかったものの、アイツやべえって思われてたと思います笑

・就職か進学か。
進路や将来についての問題は必ずついてまわりますね、厄介なことに。復学してとりあえず修士号取ることが目的だった私は、周りの同期がインターンとか就活がと話しているのが恐ろしくてまたどうしよう…となってました。留学もして休学もして、これだけ回り道もして就職できないのでは問題が発生。勿論新卒枠だけれど休学した理由なんて絶対に聞かれるし、研究して授業出てっていう生活で手一杯というかやっと回復してきた手応えを感じ始めたところで働くことを考えなければならないのか。え、無理…となってまたデフレスパイラル。
進学を決めたきっかけは、M1後期の中間発表でした。大学院では所属する研究室の先生が主査となり、他に二人の副査の先生がつきます。その副査の先生が全然違うジャンルなのに面白がってくれまして、インターフェースデザインの研究室の先生にはAIやニューラルネットワークを利用してみるのも面白いかもとわりとメディアアート的な検証の意見をいただき、これから博士課程でお世話になるエディトリアルデザインの研究室の先生には、その時代性も反映してるのではとかデザイン史的な意見をいただき、もともと好きな大正時代に焦点をあてていたこともあって、大正時代のデザインを深堀したくなりました。子供の頃から変わらず、私は20を過ぎてもなんでなんで星人だったようです。それに感化されてまた冬休みは研究研究…となり、最早就活の道を捨てていました。学校にいるのが楽しかったし勉強したかったし、興味のあることなら徹底的にやらないと気が済まない性格だったので。(これが1年ほど前に宣告されたADHDのグレーゾーンだね、という項目に引っかかっていたことも忘れてました)

・生きる方法なんていくらでもある
先日院試をなんとか突破して博士後期課程という進路が決まりました。論文や研究発表などの卒業条件はありますが、言ってみれば研究漬けの毎日が待っているわけです。私がやりたいと思ったことを思う存分できるわけです。最高じゃないっすか…!ということで、逆に就職は家族にも彼氏にもまだ無理だと言われているし全然気にしてません。半年くらい前、進路でちょっと迷っていた時お世話になっていたギャラリーに顔を出したら、なんとプロデューサーさんには「君は会社に向いてないよね。寧ろ会社に入ったら逆に勿体ない」とも言われました。それって社会不適合者かよって思って笑
こんなこと言われたのも初めてでしたし、就活をしないという選択肢に自信がなかった私の背中を押してくれました。それから院試が終わって受かった後に挨拶に言ったらニヤニヤされましたね。3日くらい前には、私と同じパニック持ちだったけれど今働いてるサークル交流のあったお友達と彼氏さんの家にお邪魔して色々と話を聞いてきましたが、その前に二人でランチをした時にその子にも「(会社とかで働くより)確かに在宅とか家で何か作ったりして外に出すっていう方が向いてるよね」と言われたし、結局私はそんななのかな~とか思ってます。
ありがたいことに彼氏が職のことは気にするなとか言ってくれてますが、いずれは私も社会貢献はしないといけないのでせめて研究という仕事で社会貢献ができたらな、と思います。なので前例はありませんが在宅研究者としてや共同研究者を募って研究したり、こういう時代ですし情報発信したりして研究を知ってもらい、近代日本デザイン史(主に大正時代で)の専門家としてやっていきたいという新しい目標もできました。治療はまだ続いてますし、いつ通院しない生活が訪れるかなんてまだわかりません。薬の量だってまだ変動したりしてます。減薬してる筈なのに今ちょっと増えてるし…。
ですが友人のnoteを読んだ後、友人がラインをくれましたが確かに生きていく方法はいくらでもあります。その何通りもあるなかで、自分に合う生き方が見つかったらそれこそやっほーい!だと思います。
メンヘラだからって下ばかり向いてるわけじゃないし、実際ヤバい人もいるかもしれないけれどその人はその人なりに戦っているわけで、他人があの人ヤバいとか干渉する権利もないと思ってます。なので私はメンヘラちゃん、メンヘラ君には特に偏見ありませんし寧ろ自分がこうなったことで、初めてそういう経験をした同期にどうやって乗り切ったの?みたいに頼られたこともあって、こんな私でも自分の経験が人の助けになるのか…とか驚きました。

・いつも長くてごめんなさい!
またこんな長くなって毎度申し訳ないnoteなのですが、なんか昨日は久しぶりに「ぬおおおおおおおおお、生産性がないいいい……!」と絶望したので気持ちの整理と一緒に書いてしまいました。
台風で雨の予報なのに、何故か今外が晴れている…!ほら、人生何が起こるかわからないじゃないですか…!なのでまだ社会復帰までは未熟者ですが、自分は自分、で焦らずやっていこうと思います。
とりあえず研究職したい!それから優しい人になりたい!
そんな感じで、今日はなぜか元気です。

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