誰も私の事をわかってくれないのは誰も「私」じゃないから
「院生ちゃん,勉強できるくせに黙ってて皆の事見下してるみたいでウザいって噂あるの」
小学6年生になって3ヶ月くらい経った頃,不意にトイレですれ違い様に言われた.
5年生までは明るくて手も毎回挙げて答えて,テストは満点,教えてって言われたら勉強を教える.そんな公立小学校の優等生のいい子ちゃんだった私が六年生になった瞬間に誰からも口を利いてもらえなくなり,"シカト"された.
理由もわからずに過ぎた3ヶ月後くらい,5年生まで普通に仲良くしてくれていた友人がトイレですれ違いがてら教えてくれた.
今考えると,彼女も自分がハブられるかもしれないとわかっていて勇気を出して私に教えてくれたんだと思う.
5年生まで手を挙げていたのにそれをやめたのは,6年生になる直前になって男子と軽い普段通りの喧嘩中に「ウゼエんだよ,このでしゃばり」と言われたから.たったそれだけ.
だからやめた.
やめたらやめたで,見下してるウザい奴と言われた.
どっちにしろウザい奴でしかなかったらしいし,あと1年で卒業だったし居場所は週3回の隣の市にある学習塾だけだったし,家では楽しかったーとか言っておけばなんとでもなった.
結局その噂の発端は6年生で初めて同じクラスになった女子で,私と同じく中学受験を控えている子だったらしい.受験が終わったらまるで何事もなかったかのように周りから話しかけられ,私を受け入れてくれた友達とも遊んだりできて,その女子が言い出しだからってハブられ始めた.結局連鎖していくんだ.でも卒業直前にそれはないだろう.
彼女は諭されながらも私に泣きながら謝った.もう十分だったし今更私の1年分返せなんて,そんなことはできないんだから.
私立の所謂お嬢様学校に入学して,困った.
友達の作り方がわからなくなった.どう振る舞ってもどうせまたウザいと思われるんだと思ったり,内部生もいたから教室では既に会話が飛び交っている中にポツンといるような,完全アウェーみたいな.
皆いい人だったから,無難に振る舞っていれば何事もなかった.
ただ,中学1年生の時に父方の実家へ引っ越しすることが決まっていて,それを小学校卒業時に伝えておいたけれど,1週間前になった時,家の固定電話が鳴った.
「もしもし,院生です」
「…お前,まだいたの?さっさといなくなれよ」
突然の匿名電話でそれだけ言われて電話は切れた.
多分アイツかな,ていうのはわかっているけれど,15年経った今も鮮明に覚えているしハッキリと誰だったのかはわかっていない.小学校の連絡網使ったんだろうね.
幼少期から過ごしていた地元にももういられないんだと思って,引っ越して正解だと思った.人間関係を構築するのは劇的に下手くそだ.
中学では部活の夏練で上手くいかなくて,トイレに立てこもって先輩を困らせたりした.私の居場所なんかないって大声で泣いたりもした.
3年生になって,中高一貫校だから高校受験もなくてインターネットにのめり込んでブログを始め,当時のメンヘラという界隈の人たちとネット上で毎日が最悪だって嘆き合って,慰め合って,それでも自分の方が不幸だと思い込みたかった.当時の私はエセメンヘラ.そういう不幸な自分可哀想って思ってイマジナリーフレンドもできた.それで多重人格者になった気分だったし,オフで合ったリアル多重人格者もいるし,自分はバイなんだと思うくらい女子校という檻の中が狭く感じた.後輩にも告られた.塾の男子にも告られた.
ごめん,今そういうこと興味ないかな…なんて濁して逃げた.
高校1年生でリストカットを覚えた.南条あやの本も好きだった.漫画「ライフ」でそういうことがあるのは知っていたし,そんなに上手く血なんか出ない.所詮はエセメンヘラ,痕を残したくないとか,でもどこか人と違うことしてる自分に酔っちゃってるこじらせ女子で,1日10本くらいの細い線を刻み,時にはタトゥーごっこなんて文字をカッターでカクカクに引っ掻いてみたりした.殴ったらもっと血は出た.
ある日泣きながら切ってるところを母に見つかって,いろいろ面倒なことになった.憧れた精神科,メンタルクリニックにも通った.
医者は信用ならない人間不信.
当時の担任があんまり好きじゃなくて,珍しく早退した時に,差し支えなかったらでいいんだけど病院?と聞かれて,「精神科ですけど,何か?」って内心ドヤ顔で返して「あ…ごめんなさいね」って言われたのを覚えてる.
ごめんなさいって何がだよ,お前関係ねーし.
とりあえずカウンセリングしてもどうにもこの医者は信用ならんとなったから,笑顔でデスヨネー,とか言っておけばもう大丈夫そうだね,なんて言われて金の無駄遣いしたくないしこっちから願い下げ,と思って病院なんか糞食らえと思って,私は今でも医者嫌いというか,苦手.
そのあとは部活の幹部だったのと大学受験とで勉強にのめり込んで1日11時間勉強していた日はザラにあった.
大学に入って,私がいかに自主性のないやつだったかを思い知り,ようやく冗談の流し方を覚えたりして,やっと少しずつ自分の好きなことや物を口にしたり否定されたりしても「いいじゃないですか,私が好きなんだから」とは言えるようになった.10代で否定され続け,主体性のない海月だった私はようやくワカメになってきた.地に足を着けて,ちょっとだけ柔らかな芯を持って,それでも周りの環境に順応し漂い,でもそこから動かないちょっと頑固者.
高校の時に完治させなかった抑鬱という診断結果は,忙しさもあって3年前,自律神経失調症とパニック障害というものに変わっている.突発性難聴も3回やってあの昆虫ゼリーみたいな向精神薬より嫌いな薬を何度も飲んだというかゼリー薬だったから食った.高校の時とは段違いの鬱と拒食,アレは何だったんだと思うくらいに症状は重く長期治療.
まだ月1で通院中だしODも一時期はして一日中意識を失ったこともあるけれど今は自分を傷つけると悲しむ,傷つく第三者がいることを覚えたからもうしない.
私が軽度ASDと診断されたのは半年以上前だしなんとなく周りの人と話が上手くできないというか,スムーズにできなくなったのは10代のことが大きいと思う.それまで普通の女の子だったんだから.
空気も読めないしすぐ自己嫌悪するし死にてー!って思いながら,それでも今は好きな勉強をしてる,留学したし,休学もしたし,親にも迷惑かけてるのに絵の展示もいっぱいした,好きな人もいる,学生なのにもうすぐ世界一頼りなさそうな嫁になる.
勉強が好きで何が悪い.お前だってサッカー好きだろ,野球好きだろ,水泳もピアノもバレエもギターだってドラムだって何だっていいよ,好きなものあるだろ,ゲームだってネットだって何だっていいんだよ,自分の居場所が作れるなら,逃げ場所があるなら何だっていいんだよ.
だからそれを誰も否定する権利はない.
結局私は好きなことに逃げた.それで生き延びた.自殺も何度も考えた,ODもした,リスカもネックカットも,ひたすら頭を打ち付けたり風呂に入ってる時に絞首しながら沈んでみたりもした.
そんなことをしていたクズだって好きなことに逃げたら自然と膜は溶けてなくなったよ.他人に好かれるために自分を押し殺して辛い思いをするくらいなら,いっそ逃げて居場所を勝手に秘密基地みたいに作ってしまえばいい.
辛かったら逃げればいいし,逃げて悪いことなんてない.一番もったいないのは,中学の3年間,高校の3年間,それだけでその先にある長いもっともっと自由で大きな世界があると知らないまま人生に幕を下ろしてしまうこと.
私は今でもこの世界はクソッタレだと思っているし,生き辛い世界だと今でも思っているし,それでも私にはやり残したら後悔するだろう好きなことと,未練になりそうな人がいるから生きてる.ただそれだけ.
だから生きることを壮大に考えなくていいし,何気ない毎日の繰り返しみたいな何でもないことが一番幸せなことだから,明日が来ることを心待ちにできる世界になりますように.
私も毎日願いながら眠りにつく.
願っているのは貴方だけじゃない.
私,このハッシュタグをつけている人,当事者,ネットでは見えないけれど確かにこれを読んでくれている貴方以外に,最低でも一人はいるから無駄に落ち込む必要なんかない.
存分に願え.
存分に叫べ.
その声は誰かが必ず聴いてるから.
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