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デザイン史にメディア論は介入できるか

 第3弾の箱との対峙の話を書きますねと宣言しておいて,堂々とこんなタイトルをつけてしまった院生です,こんにちは.
 研究計画書を書くに当たって色々ゼミのような座談会がしたいと思いながら相手がいない…となって学外のゼミへの潜入を目論んでいます.
 ですが,前回の箱の話を書いてから今日書くまでに初参加の学会に潜入してきたのでだいぶ楽しくなってきまして,ちょっと箱の展開図やらはデザイン学としてではなく提示できたらと思います.あと作文の練習.

「箱」というパッケージデザインにメディア論を適応できるのか

 2回にわたって,箱という私の完全なる個人研究の対象物について考えてみた.実際に対峙できたかどうかは別として,養老孟司先生のように箱を眺めてはグラフィックデザイナー 佐藤卓が実践した解剖と同じ手法を用いた私の修士研究の一部を提示する.

画像1
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10粒内箱
10粒トレース

 上から順に,図1〜図4とおいて話を進めていく.(レイアウトの関係上各画像の下にキャプションをつけられなかったため.)
 取り上げた「ボンタンアメ」の箱について,現在までに3回デザインのマイナーチェンジを行ない,数多存在する規格の中で,大型小売店店舗で入手できる企画として10粒と14粒が存在するが,今回は一例なので10粒のものを使用する.尚,色抽出に関してはAdobe社のPhotoshopのスポイト機能で計測している.
 まず「ボンタンアメ」の箱はスライド式の箱になっており,筒型の外箱蓋のような形状の内箱が存在していることを明記しておく.図1は外箱の展開図だが,店舗での販売時正面に当たるB面はよく「商品の顔」と例えられる面であり,グラフィックを大きく載せている.ちなみに現存している最古のパッケージである1928年から使用されていたボンタンアメのパッケージデザインの正面グラフィックは以下の図5とおく画像であり,細かい点を除けば挿絵と写真という違いしか目立たないだろう.(挿絵の美術様式や漢字の旧字体などは別として)

鹿児島製菓

 ここで図2のC面を見てみると,現在の側面に印刷されている情報量が極端に少ない.図5との大きな違いは商品名の文字の大きさだが,その大きさにせざるを得なかった理由として真っ先に思い浮かぶのは,商品名の横に存在する細かい文字だろう.これは当時砂糖が貴重であったことを含め,森永のミルクキャラメルの「風味絶佳 滋養豊富」を意識したのか健康になれることや気分が爽快になる,といった,機能的菓子であるようなコピーを記載している.これは昭和中期に薬事法が改正されるまで使われ続けていたものであり,現在では記載してはならない.
 このコピーからも当時の世相が反映されていると感じている.わかりやすい商業的手法と考えざるを得ない.というのも,大正期以前のパッケージ・包装においてこんなものは必要なかったからである.単純に包装・梱包するだけのパッケージならば,風呂敷や竹,桐箱など,その品物が保護されていれば役目を十分に果たし,それで良かったのだ.しかし,森永のミルクキャラメルにしてもグリコの飴菓子にしても,開発した経緯に砂糖の摂取やグリコーゲンで栄養とカロリーを賄う等,食糧に関して何かしら日本国内で需要があったからこそ,このコピーが大正期の菓子に溢れていたのではないかと推察する.そしてその背景として産業革命による日本社会の近代化や印刷技術の発達,大衆社会での大量消費という概念の誕生などが挙げられるのではないか.ゆえにパッケージは今でも「消耗品」扱いされてしまうのだ.ポスター・広告と異なるグラフィック造形であり,商品であり,儚い美術作品であり意匠でもある.

いる情報といらない情報

 私が生まれたのは1992年であり,丁度マイクロソフト社がWindows92が発売されたのではないかと思う.電気工作,ICチップなどを扱う会社員の父の隣で,小学生ながら大きなパソコンと有線キーボードでローマ字のタイピング練習したのを覚えている.高校の授業では必修科目として1年生の時に情報の授業があった.所謂「メディア・リテラシー」という言葉が出始め,蔓延していった時期である.
 それは余談にすぎないのだが,図2のD面をみると夥しい文字量が存在する.これは食品のパッケージでは記載必須事項である.商品名,原材料,販売者,製造者など食品によって様々だが,果たしてこれは全て記載しなければならないことなのだろうか.
 商品名の上には商品についての情報が記載されているが,必須事項か否かだけで判断すれば否である.そしてもう少し大きく読みやすい大きさのフォントにしても良いのではないか.もしくはA面に詰め込んだようにも見えるバーコードをD面の余白に入れても良かったのかもしれない.そうすればA面の商品名がもっと大きく表記できただろう.また,図3の内箱には天地に印字された商品名以外,開封後でないと目に触れない場所である.研究時の2018年11月当時は図3のように白かったが,最近になって,直近だと2019年7月頃に購入したボンタンアメの内箱にはメーカーのHPのリンクや2次元バーコード,ボンタンアメ独特のオブラートの説明について日本語のみならず英語で印字されていた.もう一度述べるが,ここに印字されているものは全て購入して開封してからでないと目に触れない部分である.
 何故こんなにも短期間で内箱という或る意味でマニアックな場所に情報を加算していったのか.背景としてはインバウンド政策によって外国人観光客が増えたことや,環境問題によるゴミの区分が細分化されてマテリアルを記載しなければならなくなったことなど社会の変化に合わせてパッケージデザインの表記も変わっているのだ.オブラートの説明は昭和の時代では必要なかったのかもしれないが,近年オブラートの需要が減ったことからオブラートの存在自体知らない世代が増えていることも余剰情報の記載に繋がっていると考えられる.いずれにしろ,これはメーカーの判断,言ってしまえば親切心であり,パッケージに記載される情報というものは意匠の良し悪しに関わらず,世相によって追加されなければならない状況も,マンナンライフの蒟蒻畑が記憶に新しい.(直後改正されたアイコンは非常に商品本来のイメージを崩すようで個人的にあまり好きではなかった…)

メディア論はどこに登場するのか

 本題から少し逸れたような気がするので一度タイトルまで戻ろうと思う.メディア論とデザイン史の関係性について,博士研究で行なおうとしていることは非常に単純であり複雑であると自覚している.修士研究でのパッケージデザイン研究はどちらかといえば感性工学的な,数値を扱った研究であったため,パッケージデザインをデザイン史として研究するとなるとどうしても史学として文転することになる.まさか博士後期になって文転するとも思っていなかったわけだが,現在パッケージデザインの先行研究では数値を取り扱った感性工学的な,また,色彩学的な研究が多い.では何故SD法で検証してはグラフィックの要素分解(商品名,色,グラフィック,ロゴマーク等)に着目しての研究が数多く行われているのか.
 1つの見解として,パッケージデザインが商業的なグラフィックデザイン,パッケージデザイン自体が商品であることだと考える.これは先日の日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)と日本パッケージデザイン協会(JPDA)の対談でも語られたことだが,パッケージデザインはそのものが商品であり,やはりそこには消耗という考え方が根付いているのだ.だからこそマーケティングや商学の分野にパッケージデザインは食い込み,数値で検証しては売れる売れないという話をせざるを得ない.では何故そうなったのか?
 前述したような風呂敷や竹,桐箱がずっと商品を保護するためのパッケージとして使用され続けていたのなら恐らく出てこなかった研究なのではないかと疑問を感じている.こうした研究がされている,ならばその研究は何故なされるようになったのか.現段階での推察だが,開国後の諸外国の技術,主に印刷技術の発展に触発された,産業革命後の大量生産・大量消費社会の誕生が理由の一つとして上げられるのではないだろうか.パッケージの外身と中身とを媒介するパッケージの表面に印刷された「情報」が消費社会の中で商業美術として発展して現代社会におけるパッケージデザインの多様化,新素材の開発,インキの進化など産業的な進歩と社会の変遷が,包括的にデザインと関与しているのではないか.
 そう考えた時,パッケージの表面のデザインに組み込まれた情報によって消費者の購買行為に関わったり商品イメージの伝え方の手段となったり,またその目で見たデザインが現在では「インスタ映え」や「写真映え」するものとして魅力的に見えて口コミのように,ネットやSNS上で拡散されていく.
 ここで再度問いたい.デザインを史学として歴史的に読み解いていくことにメディア論が介入できるだろうか?

 まだ勉強不足で至らぬことをつらつらと述べているが,社会学者 北田暁大先生的に言うのであれば,近代日本社会の発展をスコープするための物質的メディアとしての「箱」というパッケージデザイン研究があっても良いのではないか?少し頭の中にあったことを言語化することで整理したいということもあり,長々と書いてしまった.勿論メディア論,社会学の研究者の先生方からは何を言っているんだ,という指摘があるかも知れない.しかし,領域横断的な研究となっている以上純粋なメディア研究でもなければ純デザイン史研究でもない.視覚的な印象など感性工学的な側面,プロダクトとしての箱というデザイン学を孕んでいるのかも知れないが,デザインも考え方次第ではこうした見解も可能なのではないかと考えている.
 あくまでパッケージデザインは,私が研究対象として用いている「紙箱」は媒体であり,近年菓子の小箱などの登場により携行するメディアとしても機能すると考えている.これについてはまだ膨大な時間をかけて調査,研究をしていかなければならないと感じていることなので構想と捉えていただきたい.
 というわけで,「メディア」を引き合いに出しながら自分の研究について語っていくシリーズ第3弾目を書き終え,一度頭の中を整理したかったことと,院生やメディア論の展開の仕方などを知りたいと考えていることを記しておく.

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