登校初日、水たまりに聖書を落とした。
わたしが入学した中学はプロテスタントだったので、登校初日に聖書と賛美歌が配布されたのだった。
聖書というものはそれまで物語の中だけの存在で、かっこいいフレーズが書いてある本だという印象だけがあった。(「ポーの一族」でアランが唱えていたのが印象的だったんだよね)
読むのを楽しみにしていたんです。ほんと。
なんだけど、もらって一時間もたたないうちにわたしは聖書を水たまりに落としたのでした。
そもそもその日はよく物を落とした。
はじめての礼拝に向かう道中、階段の踊り場で二度(三度だったかもしれない)筆箱を落とした。小学校入学のときに祖母に買ってもらったやつで、直方体の、ふたをマグネットで留めるやつだった。
だから、落とすとパカッとふたが開くんですよね。開いて、中身がばらけるんですよね。
階段の踊り場で筆箱を落とすたびにばらけた鉛筆や消しゴムを、出席番号となりのK野ちゃんが文句も言わずそのたび笑顔で拾ってくれた。天使だった。
(わたしは帰宅後、筆箱をジッパータイプに変えた)
もうK野ちゃんに鉛筆を拾わせるわけにはいかない。二度と(三度くらいもう落としたけど)筆箱を落とさないようにしないと。でないとあだ名が筆箱ぶちまけ女になってしまうかもしれない。
気をつけた結果、校舎を出たところで今度は聖書を落とした。水たまりに。(下図参照されたし)
きっと、入学初日で浮かれていたんだと思う。馬鹿みたいにわくわくドキドキしていたんだと思う。わくわくドキドキしてる12歳、聖書落としてもしかたなくない?
水たまりに落としたんじゃない。落としたらそこが、たまたま水たまりだったんだ。
その日はじめて出会ったクラスメイトたち(出席番号がとなりであるばっかりにまた巻き込まれたK野ちゃん)の助言に従い、広辞苑やその他重い物を上に乗せてプレスされた濡れた聖書。
どうなったと思います?
全ページがくっつきました。
当たり前だろ、という声が方々から聞こえてきましたが、そんなまっとうな意見はいまさらききたくありません。言うなら12歳のわたしに言ってください。冷蔵庫にいれて乾かすんだとかそういう知恵は。知らなかったよ!
(その当時まだ「伊東家の食卓」はなかったんだよ)
とにかく全ページ、2000ページくらいが1ページになった。
1ページになった。
礼拝で、「マタイによる福音書5章38-42節」とか言われても、開けないんだこれが。だって1ページになっちゃったからね。
それからずっと、1年間くらい、礼拝のたびに最初から1ページずつ紙を剥がし続けた。水に濡れて乾いた薄い紙は、ぱりぱりと音を立てて「神尾がうるさい」と評判だった。
特にうるさかったのは沈黙の礼拝の日で、全校生徒がしんと静まりかえっている中、
ぺり、ぺり、
と、ページを剥がす音が響くのだった。
最低にうるさかったので、さすがに二度としなかった。もっと言えば沈黙の礼拝の日はそういうことをしていていい日ではない。もちろん寝ていていい日でもない。
そういうわけで1ページずつめくることになったので、ついでに旧約聖書を最初から読んでみた。中一だったけどもう中二(頭の中の話だ)だったので、カッコイイ聖句とかカッコイイ聖句とかカッコイイ聖句とかを探して付箋をつけていった。
ちなみに、「ポーの一族」でまだ人間だったアランがエドガーに唱えた聖句は旧約聖書の詩編、19篇である。
2000ページが1ページにならなかったら、聖書を最初から読もうと思わなかっただろうし、そしたらカッコイイ聖句のことも知らなかったし、アランが唱えた聖句の全貌も知らなかったし、(だいぶ中略)果ては物語を書こうとも思わなかったかもしれない。
つまり、あの日、聖書を水たまりに落としたことは決して無駄ではなかったのだ。それは必要なことだった。
神さまが雨上がりの朝にわたしの手から聖書を落とさせたのだろう。
神さまは、乗り越えられない試練は与えない。
わたしの聖書はたしか中学二年生の夏ごろには1ページから2000ページに戻っていたと思う。
旧約聖書 詩編 19篇13節
「知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください」
K野ちゃんにおかれてましては、その節は本当にご迷惑をおかけしました。鉛筆を拾ってくれて、そして礼拝のたびにページを剥がす音に耐えてくれてありがとう。
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