もしも村上春樹の小説の主人公が傾聴をめちゃくちゃ頑張ったら③【相槌編】
ぼくは相槌だけとはいえ、声が出ることに安心した。どれくらい声が出るものなのか試したくなって、彼女に会釈をしてトイレに立った。個室に入って、声を出してみる。
「うん」
うん、は言える。他にはどうだろう?
やあ、僕の名前は…だめだ。なぜか言葉が出てこない。これはきっと身体的な機能の問題ではなく、精神的な問題なのだろう。きっと僕の心の底で(あるいはまったく力の及ばない、どこか神秘的な場所で)、言葉を発しないように、何かとても強い力が働いているのだ。
「やれやれ」
思わず言葉が口についてでて、僕は驚いた。どうやら「やれやれ」は言えるらしい。なんだか誰かの小説の主人公みたいじゃないか。これから「うん」と「やれやれ」だけで会話をすることになるのだろうか。やれやれ。
何はともあれ、彼女の話を聴くのであれば、うんとやれやれがあれば何とかなりそうだ。まるで背の低いのと高いのの組み合わせの、昔ながらの漫才師ではないか。うんとやれやれ。
それはさておき、相槌というものは傾聴において非常に使える武器だ。動作とあわせて使えば、ほとんどの会話は相槌だけでやりとりできると言っても過言ではない。もっとも、ただ相槌をうてばいいというわけではない。ある種の、作法が存在するのだ。ジェイはよく、カウンターでカクテルを作りながらこう言っていた。
どんな髭剃りにも哲学は存在する。
つまりこういうことだ。相槌の打ち方で、聞き上手にも聞き下手にもなる。言葉は「はい」でも「ええ」でもいい。逆に「なるほど」や「たしかに」は便利な分、気持ちがこもっていないと思われがちなので、それらが口癖の人は気をつけたほうがいい。
重要なのは、相槌の言葉に、感情を込めることだ。そしてその感情が、今まで紹介してきたような傾聴のーつまり相手の気持ちに向き合い、理解しようとする姿勢ー手法の中でやっていることであり、それが相手に伝わるように発声することが重要なのだ。
ぼくは席に戻ると、彼女に微笑みかけた。
「遅かったわね。話しを続けてもいいかしら?」
「うん」
僕はうんと即座にうなづいて、彼女の目を見つめた。これから話を熱心に聞くよ、という合図だ。スピードの速いきっぱりとした「うん」は聞き手の固い意思を示す。確かな同意、前向きな姿勢、確認するまでもないほどの共感、などだ。
「それでね。その説教が、なんと3時間も続いたわけ」
「うん?」
疑問のうん。もちろんよくわからないときに使うわけだが、相手の言うことがわからないときは相槌で聞き返すよりも、しっかり言葉で「どういうこと?」や「それって?」「もう一回言ってくれるかな。」などと聞いたほうがいい。むしろ、疑問のうんは、「あなたと同じく、その状況に対して疑問をいだきますよ=3時間も説教が続くっておかしいよね」という立場の表明だ。
「説教の内容がね。なんて言うか、お前はふざけて仕事をしすぎていて、会社の文化に合わないって、よくわからないことを言うわけよ。会社の文化って何よ。大事なのは、与えられた役割を期限内に終わらせることじゃない?」
「うん」
ぼくはゆっくりと、絞り出すように相槌をうった。相手の言うことを考えながら、ああでもない、こうでもないと想像を広げていますよ、という意味のうんだ。こういうときに安易な力強いうんは、逆に相手の言うことをまともに聞いていないと取られる可能性があるので要注意だ。傾聴するときは、常に慎重に、自分は相手の言うことを理解できているのか?と自分に疑いをもって聞いたほうがいいし、そういう姿勢をもって聞いていることを相手にも伝えたほうが、誠実に聞いていると思ってもらいやすい。
もう少し付け加えたい。傾聴においては、相手の言うことを「わかる」ことが主要な目的なわけだが、同時に「わかろうとしない」ことも同じくらい重要なのだ。Aという主張を話し手がしているとして、ああAね、了解と言ってしまいたくなる。しかしそれはステレオタイプとしての理解と隣り合わせであり、こちらはAだと思っていたが、向こうが実はA’だと言いたかった、ということが頻繁に、ー時にはBであることすらあるー発生するのだ。
だから、話を聴くときに向こうがAだと言ったときに、より正確には自分にAだと聞こえたときに、それは本当にAなのか、A’ではないのか、どんなAなのか、aだったりエイだったりしないのかを、ちゃんと聞いておく必要がある。あるいはAでもありaでもありエイでもあるものとして判断を保留しながら話をつづけ、他の話から徐々にAであることを確信する。可能性を全方位に向けながら話を聴く、ということだ。
そこで僕は、うんと頷いたあと、しばらく沈黙を保って彼女を見つめた。
「与えられた役割を期限内に終わらせる。それがプロフェッショナルよね。私はプロフェッショナルでありたいわけ。それが会社であれ、家庭であれ、恋人同士という役割であれ。」
「うん」
僕は先ほどより時間をかけて、彼女に同意をするというより自分の頭の中に問いかけるような感じで声を出した。目は上を向いていたと思う。明らかに先ほどよりも、安易にうなずくことのできない内容だ。先ほど、安易に同意していたらこのような発言は出てこなかったに違いない。
「恋人同士って言うとおかしく聞こえるかもしれないけど、私が言いたいのはとても単純なことなの。相手を思いやって、相手にとってやるべきことを行いなさい。それだけなのよ」
「うん」
これはわかる。僕は短く、そして少しほほえみのニュアンスを含めて頷いた。ここで共感している思いが、初めて、そして真実味をもって彼女に伝わった。ぼくには、彼女の生き方がそのようなものを目指していることーそれが簡単な道でないし、多くの人に誤解を与え、それが理由で多くの衝突を生んでいることも含めてーわかる気がしたのだ。こうして、多くのわからないを通じて徐々にわかることを積み上げていくことが傾聴なのだ。少なくともぼくはそういうことを目指してきたし、これからも目指すだろう。それは猫の多い漁港の村に生まれたギリシャ人が当たり前に船乗りを目指すようなものなのだ。
「だけどさすがに、説教の場で、大事なのは時間内に契約内容に従って納品することですよね、とは言えないじゃない?だから何も言わず話を聞いてたわけよ。まあもちろん、途中であまりにも退屈だからあくびをしたり、マニキュアが落ちかかっているところを凝視したり、頭の中でパスタを完璧なアルデンテにゆでるまでを再現してたから、それで怒りに火を注いだというのは否定しないわね。」
「やれやれ。」
やれやれ。
「まあ何とかやりすごして、最後は私からもちゃんと、もうやりません、気を付けますと言って終わったわ。もともと仕事は早いわけだし、重宝がられてはいるわけだから。私にも原因がないわけでもないからね。それで、なんとか一件落着したというわけ」
「やれやれ。」
2つのやれやれの違いに気づいただろうか?1つ目のやれやれは、聞き手から話し手への感想、「そうは行ってもあくびをしたりマニキュアを凝視したらよくないのではないかー」ということの表明としてのやれやれで、やれやれという表現そのものは聞き手から話し手に対するものだ。2つ目のやれやれは、一連の怒られ事件が終わったことに対する包括的なやれやれだ。客観的には彼女が全面的に悪いといわれるのだろうが、少なくとも彼女にとってはそうではないし、そうであるなら、聞き手であるぼくにとっても同様にそうではない。このやれやれは、災厄が去ったことを2人でともに振り返り、大変だったなという共感のやれやれ、だ。相手の話をきちんと聞き、間違ったことをしなければーそれが難しいわけだがー、やれやれで深い共感に至ることもできる。こう言い換えてもいいだろう。
どんなやれやれにも哲学はある。
ぼくはなんだか愉快な気分になってきた。やれやれも悪くないじゃないか、と思った。彼女も楽しくなってきたようだ。話をつづけた。
「でもやっぱり頭に来たから、課長の椅子に画びょうを置いておいたわ。おいてもいいわよね?やれやれ!って感じよね?」
「やれやれ!」
「その時は課長、1メートルくらい飛び上がってね。本当に気持ちがすっきりしたわ。こういうのなんていうのかしら?」
「晴れ晴れ!」
「課長もそれでテーブルの上のコーヒーこぼしちゃってね、でもその時パソコンの画面でグラビアアイドルかなんかの画像を見てたから、怒るに怒れなくてね。手を振り回して叫びにならない声をあげてたわ。」
「破れかぶれ!」
「本当にすかっとしたの。なんていうか、遠くから武器でついてやったぞ、みたいな。あれ、遠くから突くときに使う武器ってなんだっけ?」
「槍、槍」
「ブラジル出身の彼女、可愛いわよね。私は好き。」
「ダレノガレ」
「東中野の映画館が好きなのよ」
「ポレポレ東中野」
「私のおばさんが急性炎症性脱髄性多発根神経炎にかかってしまって大変だったわ」
「ギランバレー症候群」
全然ちがうじゃないか。特に最後のはひどい。そう、こういうときに言うべきことは一つ。
「やれやれ」
彼女とぼくは、顔を見合わせて笑った。悪くない、と僕は思った。
神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/