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顔について2 整形手術が嫌われる理由

先日、「顔というメディア」について考えた。

顔というメディアが多量の情報を持っていると思うわけだが、見た目の印象、歴史、表情などとともに、自己同一性があるとも気づいた。他人なので自己はおかしいかもしれない。人格の連続性と言うべきか。

知人との関係において、その人の人格と記憶と、関係性の連続性が顔に担保されている。つまり「この顔の人と先日お話ししたのだからこの人はこの話を覚えているに違いない」「この顔の人はこの前カープファンだったのだから、今日もカープファンに違いない」「この顔の人と先日ハグしたので、今日もハグできるだろう」という感覚が、おそらく理性と違うところで、理性より優先されて処理されているはずだ。

神山晃男という名前で前回会った時と全く違う顔の人が出てきたら、前回の話を踏まえた会話は理性でどれほど努力しても難しいだろう。逆に他人だが神山晃男と顔がそっくりな人がいたら、神山晃男とした話題をきっと持ち出してしまうだろう。

これは話す側からすればただの認識の話だが、対象となる側(人格の連続性を提供する側)からすれば、同じ顔であること自体が価値になる。例えばサービス業。中華料理屋の親父が同一人物であることは、同一人物であることに価値があるのではなく、同じ顔をしていることに価値がある。おそらくドブ板の証券マンもカーディーラーも、青ひげ先生もキャバクラのねえちゃんも同じだ。

日本において美容整形を行うことが悪いことと捉えられる理由がここにあるのではないか。相対する人格の連続性を疑ってしまうのだ。「私が知ってる神山さんは二重まぶたではない。これは別人だ。気持ち悪い」。

逆に、整形手術を希望する若い女性にとっては、むしろそれが目的であるとも言えまいか。「今までの自分は本当の自分ではない。手術によって本当の自分を手に入れるのだ」と。自己の連続性の元の整形手術は、かなりレアケースなのではないか。「いまの私の内面をより正確に表象させるために鼻を高くしたい」という話は寡聞にして知らず、むしろ外見を変えることが内面を変える手段なのだ。そして他人は、あなたの内面が変わることを嫌うのだ。別人格になったみたいで気持ち悪いから。

そう考えれば、事故などで後天的に損傷した顔の整形手術だけでなく、病気などで先天的に損傷を受けている顔の整形には寛容なのも理解できる。その顔は本来のその人の顔ではないからだ。

これからテクノロジーが進み、人間がより人間らしい仕事でしか付加価値を生めなくなるとすると、顔の連続性は非常に重要な価値となるのかもしれない。

その整形、ちょっと待った方がいいかもしれませんよ。あるいは、やるなら今のうちですよ。

神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/