のこのこ

日々の生活の記録。

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最近の記事

人の領域と神様の領域。

他者を羨ましく思うと同時に、自分をバッサリ切っていることに気づく。気づくだけでいい。「自分を否定してはいけない」と思うことは、何かをしてしまっていることになる。愛は求めるものではない。求めた時点で間違っている。愛は初めからあるもの。 自分を肯定するとか、愛を求めるとか、それは人が人の領域を超えて何かを得ようとすることになると思う。それは得るものではなく、さらに領域を超えているから、何か虚しい結末になるのだろうと思う。 気づいたら、そのまま置いておくこと。ただ神様を見上げた

    • そのまま置いておく。

      教えられることにうんざりしていた自分を認識していないところから、認識した今、どうなんだろう? ・うんざりしている自分を置いておく。 ・うんざりしてると言ったら、相手が気を悪くすると思って、言われへんなあ、というのを置いておく。 「上の2つに対して、そうやなあと思いながら、そのままにしておく。 その上で、相手の話をそのまま聞いていく。その場に起きたこととしてキープする。相手が何を言っているのかという意味だけを捉える。」ということらしい。

      • 自分にどれだけ向き合えるのか。

        いつも「教える」人がいる。その教える事柄は、わたしには興味のないことが多い。あー、面白くない。なんで自分のことを言わないのだろう。なんかその人の姿が見えない。「教える」ことで自分の姿を現さないようにしている。防御しているんだ、きっと。本来の姿を見せて欲しい。とそんなふうに思っていた。 しかし、言われた。「微妙だなと思うのは、教えられることが嫌で、その嫌さを解消したくて、その人に関わりに行くのか。要するにその人をなんとかしようとしているわけ、その場合は。もしくは自分の嫌さをな

        • 自分を丁寧に。

          落選。どちらでもいいと思っていたが。いや正直落選することはないと思っていた。だから落選は痛かったし、わたしはその場の半分の人々に、あまり快く思われていないのだと感じた。痛い。凹む。すぐさま、いいや、これで自分の好きなことに邁進できると気持ちを切り替えようとして乗り切ろうとしたけど、ここで呼吸じゃないかと気づく。呼吸し、身体を伸ばす。その繰り返し。 しばらくしたら、自分のあまり見たくない姿が見えてきた。その場での高い地位についているから、すごいでしょとか。わたしは信頼が置ける

        人の領域と神様の領域。

          仕込みの段階で合わせ味噌。

          毎年恒例の味噌の仕込み。今回間違えて、大豆を多く、麹を少なく買ってしまった。麹は玄米麹と麦麹の違うものを。思いついて、違う麹を仕込みの段階から合わせて仕込むとどうなるのかと検索。そしたら、単独の麹で仕込むよりも、また出来上がった味噌を合わせるよりも、より味わいが濃厚になるとのこと。まず明日、生麹で。数日後に追加注文した乾燥麹で。仕込もう。(ムスカリ:春の公園で)

          仕込みの段階で合わせ味噌。

          春の公園。

          春の公園の掃除。花が咲き始めていたり、木が芽吹いていたり、小さな虫たちが飛んでいたり。春の公園は、密かに賑やかになっていく。お掃除をしながら、おしゃべりするのも楽しい。自然にお家の事情も知れて、理解が深まる。

          春の公園。

          母のおむすび。

          今日のランチは、84歳の母が結んでくれたおむすび。長年おむすびを作ってきた。握るかたさや大きさがわたしの口にはちょうどいい。本当に美味しかった。それを見た人も、自分の母親のおむすびが食べたいって言っていた。たくさんの母親がそれぞれのおむすびを握る。それぞれの子どもは自分の母親が握ったものがいちばん美味しい。なんて幸せなことだろう。夜、母に自然に「ありがとう、美味しかった」と言った。

          母のおむすび。

          理想の生き方の結末と今がほぼ同じことに気づいた。

          思いっきりやってみたかったこと、こうなったらよかったなあと思っていることを羅列してみた。 札幌のトップクラスの高校に行きたかったー。友達と世界文学の読み合いしたかったー。北大文学部に行きたかったー。英文学、ロシア文学、歴史、文章を書く、哲学、そんな勉強を思いっきりしたかったー。北大の構内を友達や彼を歩きたかったー。京大の大学院に行って、さらに勉強したかったー。京都のカフェでお喋りしたかったー。大学にとどまって研究者になりたかったー。知的な友人に囲まれて楽しく過ごしたかったー

          理想の生き方の結末と今がほぼ同じことに気づいた。

          母と、、、こんな温かい日々が来るとは。

          母に洋裁を習い始めて6日目。母との関係が少しずつ変わってきた。なんか2人の間にあった壁のようなものがなくなってきた。さっきも母がアジの南蛮漬け作った後、台所のあちこちに飛んでいた油を拭き取ったらしいのだが、わたしが台所に入った時に再度拭き取っていたら、「まだ油残っていたのかね?拭いたんだけどね。」と優しく言った。これまでだったら、「わたしがやったことに不満なの!」ときつい口調でわたしを刺していたのに。こうも違うのかと思う。 母の洋裁には、母が考えたたくさんの工夫が詰め込まれ

          母と、、、こんな温かい日々が来るとは。

          世界を肯定するということに繋がるのか?

          料理や洋裁、思いがけなく、「母が持っているものを習ってみよう」がわたしのところにやってきた感がある。母を受け入れてもいいという時がやってきたのだと思う。なんだか自分の土台が広く固くなった気もする。今までは、自分じゃない誰かの土台の上に乗らないと不安定な気がしてた。今の土台に乗った感じはどういうんだろう?神様が運んできてくれた土台とも言えるのかな。この世に生まれて初めて会った人類は母なんだから、この人を受け入れてもいいと思えるということは、世界を肯定するということに繋がるのか、

          世界を肯定するということに繋がるのか?

          母から受け継ぐということ。

          昨日のお昼ご飯、わたしがカレーを作った。母が近寄ってきて、自分がいつも作る土井先生の料理本を見ながら、教えてくれた。玉ねぎはみじん切りじゃなくても千切りでいい。玉ねぎを炒める時は蒸し炒めにするとやりやすい。お鍋に引っ付いたお焦げは旨味となるから、水を入れた時にこそげとる。母の工夫が含まれているレシピ伝授。なんだか尊い受け渡しのように思えてきた。わたしの中に、わたし一人じゃないもう一人の人生が少し注がれたような気がして、豊かになった気分。ずっと母とは犬猿の仲だったし、15年も絶

          母から受け継ぐということ。

          過去や未来を射程に入れた今を生きるということ。

          「今のこの時を生きよ」とよく言われる。過去を悔やみ、将来を煩い、今目の前のことができないでいる状態をうつ病と言ったりする。でもそもそも、人間は、過去や将来のことを考えずに、今だけを生きることは無理なのではないかしら。 チンパンジーと人間を比べてみた実験がある。1から10までの数字が書かれた10枚のカードをランダムに並べて、数秒両者に見せ、7枚くらい伏せたカードの数字を当てさせる。すると、チンパンジーは全て正解するのだが、人間は3つか4つしか覚えていない結果となる。人間の方が

          過去や未来を射程に入れた今を生きるということ。

          感情を溶かす。

          下腹が重くて、嫌な感じがずっとしていた。なぜだろうかと少し立ち止まってみた。その場に入れないと勝手に感じて、どうにかして入ろうと目立つようなことをして、でも受けず、落ち込んだ時があった。入れないことは悲しい、そして怒りも出てきた。小さい頃、母親と妹に仲間はずれにされた悲しみ、怒り。ヨガで身体を伸ばしていたら、涙が出てきた。ほんとは泣きたかったのだ。仲間はずれにされて、泣きたかったのだ。ヨガが終わったら、割とスッキリしていた。 概念/症状→感情/感覚→身体のどこで感じるか→塊

          感情を溶かす。

          自分を叩きのめす声。

          周りと比べて、わたしは何もやってないじゃんとか、何も得意なことがないじゃんとか、このままではだめじゃんとか、そんな声が聞こえてくることがある。そんな時は、周りから遠ざかりたくなる。でも実は、自分が自分に言っているんだということ。周りがいたら強く響いてくるだけで、いつも心の底で鳴っているのかもしれない。 そんな時は、闘わず、同調せず、そのままにしておくことだそうだが、自分のことをそんなにも叩きのめす声がするとは、悲しいことです。

          自分を叩きのめす声。

          したかったことを思ってみる。

          ほんとは学区内トップの高校に行けた。その高校に行って、勉強好きな友達と一緒に勉強したかった。 ほんとは北大の文学部に行って、いろいろな知識的刺激を受けたかった。あの白樺の林がある大学で。本好きな友達とか彼とかといつまでも話している。冬の冷たい空気の中で過ごす日。 そんなほんとにしたかったことを、取り引きせずに、否定せずに、思いっきりなんども思ってみる。自分の内側に何か暖かなものが満ちてくるようだ。

          したかったことを思ってみる。

          相手がいる食事。

          今日の夕食。人参、牛蒡、蓮根のごまマヨ和え。ほうれん草のシャケふりかけ。干したけのこと薄揚げの煮物。大根と薄揚げの炊いたん。ご飯。 母は薄い塩味、私は割と濃い塩味が好き。だから私が料理をする時は、薄めに作っておいて、私は食卓で塩を振る。一人暮らしの時は全て自分に合わせた味付けだったけど、相手がいる食事は相手のためも作ろうとする。私は食卓で一手間かかってしまうのだけれども、なんだろうな、その方が豊かな気がする。

          相手がいる食事。