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吉野源三郎『君たちは、どう生きるか』

長らくサボっていましたが、久々に読書記録を再開したいと思います。

文書を書く練習と、どうしても時間が経つと読んだ本の内容は忘れてしまうからね。。


今回は、『君たちは、どう生きるか』

名作中の名作で、背表紙にはこう紹介文が掲載されてます。


「輝きは色褪せない、今も読み継がれるべき永遠の名作」
池上彰氏が心から感動し、人生を決めた一冊。

僕も中学一年生の頃に「読書」という科目の中でこの本を読んだこと(読まされたこと?)を覚えてます。中身に関しては主人公の名前のコペル君、とか、「油揚げ事件」とかしか覚えていなかったので、中一の僕の人生はこれでは決まらなかったのかな、、と。

でも二、三年前にこの本が漫画化されて話題になっていたので、今読んだらどんなことを思うのやろうかと感じ購入、、するも読むまでに二年もかかってしまいました。

言い訳のようやけどこのタイミングで読もうと思ったのも何かの縁やな!


前置きが長くなってしまいましたが、どんな内容やったかというと、、

舞台は1937年の東京。コペル君という一人の中学生と、その叔父さんが中心となった話です。

まさに子供と大人の間にいる中学生のコペル君が、日常を通して感じ始めたこと、これまではなんとも思ってなかったけど考え始めたこと、を叔父さんとのやりとり、特に叔父さんがコペル君に宛てて書くノートを通じて自分の中に落とし込み、成長していく過程が描かれています。

中一で読んでもこの本の良さは理解できひんやろう、、っていうのが正直な感想。。笑

それほどまでに深く、気づきが多い本でした。

作中、何度も「コペル君には立派な大人になってほしい」という文言が出てくるのですが、自分自身もう24歳で大人と言われる年齢になったものの、果たして立派な大人になれているのだろうか、考えさせられました。

本の中で大事にしたい部分、今後に生かしていきたい部分が多すぎて、ここで全て紹介していては本まるまる転載することになってしまうので、本当に感銘を受けた部分を少しだけ、、

ー君も大人になってゆくと、よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知って来るだろう。世間には悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的な精神も空しいが、英雄的な気概を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。

はっとさせられました。自分も、何か自分のためになること、人のためになることをしようと思い立っても、それがなかなか続かず(この読書記録noteが続かなかったことがいい例...)小さな善人になってしまっていたのではないか。ゆくゆくはそれがツケとして自分に不幸という形で降りかかってくるのではないか、、

考えさせられました。


もう一つの部分は、コペル君の友達が上級生に目をつけられ、皆で彼を守ろうと約束したにも関わらず、いざ上級生に喧嘩を売られるとコペル君だけ友達の為に立ちはだかる勇気が出ず、他の友達がボコボコにされているところを呆然と見つめる、、そしてその出来事をきっかけにコペル君は「こんな弱い自分なら、、死んでしまいたい、、」と何日間も寝込んでしまいます。

そんな中で叔父さんがコペル君にあてて書いた手紙が、、、

「いや約束してんから友達守れや」と思うかもしれませんが、誰だってちょっとした勇気が出ずに行動できず、後で後悔してしまうことってあると思います。

そんなコペル君、いや読者の僕たちに叔父さんが宛てた内容を部分的に紹介します。

この部分だけでも皆さんに読んでほしいと思っています。


人間の悩みと、過ちと、偉大さについて

「人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。」

この最初の文では何を言いたいのか、、

しかし読んでいくうちに、、

「王位を奪われた国王以外に、誰が、国王でないことを不幸に感じる者があろう。ただ一つしか口がないからといって、自分を不幸だと感じる者があろうか。また、眼が一つしかないことを、不幸に感じないものがあるだろうか。誰にせよ、眼が三つないから悲しいと思ったことはないだろうが、眼が一つしかなければ、慰めようのない思いをするものである」
本来王位にあるべき人が、王位を奪われていれば、自分を不幸だと思い、自分の現在を悲しく思う。彼が、現在の自分を悲しく思うのは、本来王位にあるべき身が、王位にないからだ。
同様に、片目の人が自分を不幸だと感じるのも、本来人間が二つの目を備えているはずなのに、それを欠いているからだ。人間というものが、もともと目を一つしかもってないものだったら、片目のことを悲しむ者はないに違いない。

中略

人間が本来、人間同志調和して生きてゆくべきものでないならば、どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることができよう。お互いに愛しあい、お互いに好意をつくしあって生きてゆくべきものなのに、憎みあったり、敵対しあったりしなければいられないから、人間はそのことを不幸と感じ、そのために苦しむのだ。
また、人間である以上、誰だって自分の才能を伸ばし、その才能に応じて働いてゆけるのが本当なのに、そうでない場合があるから、人間はそれを苦しいと感じ、やり切れなく思うのだ。
人間が、こういう不幸を感じたり、こういう苦痛を覚えたりするということは、人間がもともと、憎みあったり敵対しあったりすべきものではないからだ。また元来、もって生まれた才能を自由にのばしてゆけなくてはウソだからだ。

.......

しかしコペル君、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけができることなんだよ。
人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基づいて自分の行動を自分で決定する力を持っているのでなかったら、自分のしてしまったことについて反省し、その誤りを悔いるということは、およそ無意味なことではないか。


自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。
「王位を失った国王でなかったら、誰が、王位にいないことを悲しむものがあろう。」
正しい道義に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流しはしないのだ。
人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなさせずにはいない。
しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、正しい道に従ってあるいてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。

どうでしょうか。長くなってしまいましたが、深く胸に刺さったのではないでしょか。

ところどころ省略してる部分があり、わかりにくい部分もあったかと思いますが、そんな方はぜひこの本を読んでみてください。


久々でつい力をいれて書きすぎてしまったので、また次書くのが億劫にならなければいいのですが、、

細々と読書記録を続けていけたらなと思います。


最後に、この本の最後の一部分を皆さんに紹介して終わりにしたいと思います、最後の一言で僕は鳥肌が立ちました。


コペル君は、こういう考えで生きてゆくようになりました。そして長いお話も、ひとまずこれで終わりです。そこで、最後に、みなさんに、おたずねしたいと思います。君たちはどう生きるか。 吉野源三郎

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