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【ご報告】カプセルジャパン株式会社を卒業します。

2016年から5年間参画してきたカプセルジャパン株式会社を2021年1月末で取締役を正式に退任して卒業しました。

何をやってきたのか。

2016年入社時には、台湾人が20人ほど、日本人は埴渕のみでした。入社時から僕は取締役だったわけではなく、ベンチャーらしいノリで、名刺で言えば事業部長からスタートしました。埴渕が地盤を作っていたので、運良く参画直後から結果を残していくことができました。入社年度にはアーリステージを超える兆しが見え始めて6,000万円/年ほどの売上となり、その後右肩上がりに約10億円まで伸ばすことができました。取締役として、経営者の道も歩ませてもらいました。ベンチャー、グローバル、コロナありなど簡単ではない条件でしたが非常に学ぶことが多い日々でした。

事業でいえば、ゲーム関連のプロモーション、上海事務所での中国to日本プロモーション、インバウンド及びアウトバウンドプロモーション、インフルエンサー事務所、グローバルEC、その他細かい事業も含めると幅広く行ってきました。

コロナの影響で2020年は数字的には横ばいでしたが、結果的に組織は強化することにも繋がりました。ピンチはチャンス。出来る方法を考える。この言葉は、何度もカプセルで聞いてきたし、言ってきた言葉。特に2020年は、経費削減や新規事業立ち上げなどやるべき事に集中していき、本当に全員の頑張りのおかげで、苦しいながらも前年比横ばいにできました。その上で2021年の成長戦略も見えました。

なぜ辞めるのか。

一言で表現するなら、カプセルで経験させてもらった結果、経営者として更なる山を登りたくなったから。

20代での頑張りが経験となり、30代ではCAPSULEで結果を出せました。今後40代で、さらに見たことがない景色をみたいと思うようになり、自分でゼロから起業をしてみたいと思うようになっていきました。

逆説的ではありますが、CAPSULEで学び経験させてもらったからこその描いた想いと言えます。組織が大きく成長して120人規模になり、僕も役職として取締役になると、どうしても事業を集中させたり組織を整えていかないといけなくなります。一方で、ロックな人ですねと言われる事があるような僕には入社時のように、成功するのか失敗するのか、生きるか死ぬか、経営者として本物かどうか白黒はっきりさせたいなど、そんな気持ちを抱く事がありました。そこに加えて、コロナの影響もあり、生まれ育った新潟に今までの経験を還元したい、会社を新潟からスタートしたいと考えるようになりました。(新潟への想いは別途noteにまとめます)

その想いを持ち始めた時には、カプセルには事業も人も育っていた。自分の人生の流れに身を任せて流れてみた場合には、起業だなと感じれるタイミングになっていた。

埴渕に相談したのが2020年10月。いつものカプセルらしく、スピード感を持って退職させていただきました。そうは言っても、取締役という立場上、本当にすぐの退任とはならず、今お伝えはすることになりましたが。

最後まで僕のやりたいをサポートしてくれた埴渕には感謝しきれません。わがままな生き方をしている僕は、本当に多くの人に生かされているのだといつも感じます。

CAPSULEと埴渕と亀貝

過去を振り返るのは好きではないけど、このタイミングだからこそ、もう少し過去を少し振り返ってみようと思います。特にカプセルが拡大できた理由のいくつかの中から “代表の埴渕と僕とのバランス” と “人と向き合う事で大きくなってきた” という2点を交えながら。

20代の経験の全てが繋がった場所

二浪の末に入学した大学を卒業後、就職活動中にカッコイイ大人だと思った人が営業だったという理由で、当時ソフトバンクグループだったカービューに入社。3年ほど営業職として自分と向き合いました。その後に決意のもと上海へ移住。3年間ほど充実した日々を過ごしながらも、キャリア形成のような綺麗な話はなく、最終的には、現地でのいざこざに巻き込まれて職を失い中国でホームレスに。上海から個人的な撤退を強いられて、実家の新潟へ戻る。スーツを買うお金もないので派遣に登録して働く。その後、30代からの再起。正確に言えば、クルーズ株式会社の代表の小渕さん、執行役員の諸戸さんに生かしていただき、上海のホームレスから六本木ヒルズへ。同時に営業職からのマーケティングへのキャリアチェンジも。

挑戦し続けてはいるが、国にも社会にも企業にも貢献らしい事なんて出来なかった。しかしながらたくさん学ばせてもらった。

そんな、一見”転々”とした人生は、”点々”を打ってきた人生だったのだ。そう気付けたのは、それらが線としてつながった瞬間でした。

そしてその”つながる瞬間”に出会えたのは、ほかでもなく、実績を作る事で自分の居場所ができ、さらには取締役を任せてくれた埴渕がいて、カプセルがあったからこそでした。

コンプレックスの塊で、少し先の未来を考えることで精一杯。そんな若者だった僕がカプセルに入社し、どう感じたのか。

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出会い、そしてがむしゃらな日々

「ゲーム領域のマーケティング」「中華圏展開」今までの点が線になるような運命的な求人にひかれ、カプセルという会社にコンタクトを取りました。僕はその求人を見た時には“僕よりこの求人に合う人いないでしょ”とまで思いました。

カプセルとして僕が最初に向き合ったのは、言うまでも無く、代表の埴渕でした。最初の印象は、独特な雰囲気で、カフェで僕と向き合いながらも、パソコンでひたすら仕事をしながらコミュニケーションを取ってくる「変なやつ」でした。

入社までに2回の電話と直接3回、埴渕と会いました。会ったのは、最初は埴渕が日本出張時に渋谷で。もう1回は週末で僕が台湾に。最後には当時まだ結婚はしてませんでしたが、妻も含めて3人で。今まで複数回の転職を経験していたため、僕自身も求人の内容に相違がないのか、さらには僕が入社して貢献できるのかを確認するように、埴渕とコミュニケーションを取っていました。

埴渕とは、それでま会ったことはないものの、同い歳、2年遅れての卒業なのに新卒のタイミングが同じ、上海に住んでた時期も重なっていたりと波長は近しい感覚もありました。

カプセルへの入社、さらには台湾への移住を進めると同時にクルーズには離職の話をさせていただきました。ちなみにクルーズでは、ものすごく多くを学ぶ機会をいただきました。僕はほとんど何もインパクトのあるような結果を残せなかった。しかも上海での野良猫のような状態から、また日本のサラリーマンに戻るきっかけをいただいたわけで、本当に感謝しきれないほどです。営業だけでなく、マーケティングを学ばせていただく機会をいただき、当時の僕は、次のカプセルで活躍することこそが恩返しだと思いました。

当時の僕は33歳。20代は将来のためにとお金よりも経験を優先し、30代からは、今が本番と思ってやってきました。けれど行動はしていても結果的にビジネス上で大きな成功体験はなく「結婚も考えてるし、今回のカプセルで結果を出せなければ、チャレンジし続ける人生は諦めなければいけないのかもな」という感覚がありました。

どういうわけか、小さなころに想像できたのは「33歳の自分」まで。昔から意識してきた「最後」だからこそ「どんな会社に転職しても、必ず結果を残してみせる」「自分は絶対に成功する」という気持ちでした。そして台湾への移住という大きな変化にも関わらず、今回と同じく人生の流れに身を任せるかのように自然な変化でありその先は明るい、正確には明るくするという感覚でした。

人を育てることが、カプセルでの役目だとわかった

埴渕と話してみて、自分の決意とカプセルの課題が一致していることもわかりました。埴渕は典型的な「ゼロをイチにする」タイプ。生み出したイチをヒャクにするタイプの人は、その時点のカプセルにはいなかった。起業家及び経営者として埴渕が胴体になり、数名のスタッフに与えられているのは手足を拡張するだけの役割。遠くから見ると、そこには埴渕1人しかいないように見えました。

メンバーのスキルやマインドが不足しているだけではなく、埴渕がメンバーをハンドリングできていないのも理由の一つでした。案件進行で何か問題点があってもメンバーは埴渕待ち。台湾人材のレベルの格差も要因で、当時はハイクラスの台湾人を採用するまでの体力も無く、一般的なクラスを採用しており、正直日本と比べると能力が劣る場合が多いです。

そのため、僕のやるべきことは「事業を伸ばすこと」に加え、より本質的には「人と向き合って育てること」だとすぐにわかりました。僕が埴渕の仕事を奪っていき、埴渕には出来る限り社長業や得意な事に集中してもらおうと思いました。自分のやりたいことと、会社でやるべきことの一致を確信し、カプセルでの挑戦を始めることにしたのです。

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お互いの「したい、なりたい」を実現するために信頼し合う

僕は昔から、営業として「あるものを伸ばす」を得意としてきました。プロダクトのみならず、人や組織に対してもそうです。メンバーが成果を出していくために自分には何ができるか?を考えるのが好きで、実ったときは自分ごとのように喜べるタイプでした。

新卒で入社したカービューでも、すでにそのような傾向がありました。自分の受注や達成よりも、チームや後輩の達成や成長に興味がありました。当時カービューは、ベンチャーらしく非常に組織が変わりやすく、人によっては不満を持ちやすかったのですが、よく後輩から電話がかかってきては、会社の状況を説明して方向性を導いたり円滑にしたり、それが嬉しかったし楽しかった。僕がリーダーだったりそのようなアクションが評価されなくても。

埴渕は典型的な「ゼロイチタイプ」であるのに対し、僕自身もまた典型的な「イチヒャクタイプ」。示し合わせることもなく、お互いがお互いをそうであると認識してその役割に徹して集中していきました。

僕の責任として、事業の数字はもちろんですが、その数字を伸ばすためにチームメンバーと向き合って一緒に成長していきました。土日にもメンバーの事が頭から離れずにどう最短距離で成長してもらうか、そのためにどう伝え向き合うか、そしてどう数字を積み上げるかを日々考えていました。

このような自己認識と相互理解は、自然に信頼し合える関係をつくりました。カプセルには「次世代のしたい、なりたい、をサポートする」というミッションがあります。このミッションは、必ずしもクリエイターに限ったものではありません。次世代の定義すると“パートナーを尊重し、共に成長する人”、“失敗を恐れず、新しいことに挑戦する勇気がある人”、“個人の可能性を信じている人”

埴渕は、僕の得意を後押しするために、自由にやる環境と裁量を提供してくれました。そして私は、埴渕のアイデアを実現するためにどのように組織を成長するかを考えました。

そんな風に「お互いのしたい、なりたい、をサポートする」関係性だったと言えます。

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自分の想定していた「成功」に近づいた結果

それぞれが得意分野を持ってサポートしあいながら、仕事に没頭する日々が続きました。僕は数字を作りながらメンバーと向き合っていきました。気づけばメンバーが成長し、チームができて、部門ができて、カプセルはどんどん会社らしくなっていきました。そんな最中に、さらなる挑戦の場として埴渕からのオファーをもらい取締役になりました。

20代のころからすると考えられないようなシンデレラストーリーに見えますが、実感は少しずれていました。

「僕自身がカプセルの数字を積み上げた」「カプセルをリードしているのは自分だ」という自負はある。しかしその裏には、自分が想定していた「成功」に近づいた結果、個人としてどこを目指したら良いのかわからなる感覚に陥りました。がむしゃらだった当時、会社が大きくなった先のことは、あまり考えていなかった。組織としては未来を考える役割として埴渕を信じてもいたので。結果的に未来を見たとき、その先に個人として何があるのかがわからなくなってしまったのです。埴渕にも、率直に急にロールモデルというか目指す方向性がわからなくなってと、いつものようにランチを食べながら話した記憶があります。

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今後も「変化と挑戦のある40代に向かいたい」と感じる出会い

自分の実感が追いついていないからといって、組織の成長は待ってくれません。カプセルは外部資本を投入し、さらなる拡大のフェーズを迎えました。

UUUMを株主に迎え、代表の鎌田さんと出会います。僕は当時資本提携に関しては、埴渕に任せて目の前の事業に集中していました。僕が見ている事業でしっかり稼いで、その稼ぎで新規事業のクリエイター事業を育てる方向性だったため、あえて埴渕とも同じ動きをせずに最大化させようと思っていたので。

そのような中で、たまたま鎌田さんと埴渕と僕でご飯にいく機会がありました。自分のキャリアの先が見えなくなっていたタイミングと重なりました。もちろん今までいろいろな経営者と話しをする機会はあったのですが、率直に勉強になるし、刺激をいただけるなぐらいでした。

でも、今回は自分の人生に対して「先が見えない」タイミングと重なっていたこともあり、今までの感覚とは違いました。僕にとって鎌田さんは、自分の行く先の何歩も先を歩んでいるように見えました。今の自分がレベル50だとしたら、鎌田さんはレベル200みたいなところにいる。(レベルは適当です)自分もそのレベルに到達できれば、新たな景色を見られるようになるのではないか、そんなことを感じました。たまたま同い年だったり、共感点や学ぶ点があったりと自分と同じストーリーの中にいる人として見ることができたのかもしれません。

大学に入りたい、営業で結果を残したい、上海に住みたい、結婚したい、ビジネスを大きくしたい。33歳までがむしゃらに全力で走った結果、すべてのマイルストーンを叶えて、その先の人生の方向性を見失っても、鎌田さんとの出会いで、また先が見え始めました。

ちなみに、33歳でカプセルに入社。がむしゃらに2年間やったある日、お客さんから『亀貝さんって今何歳ですか』と聞かれて、僕は口から35歳と答えたのですが、ものすごく違和感があって、すぐにGoogleで検索しました。【1983年生まれ 何歳】と笑。それぐらいに僕は33歳を意識して、目の前を走っていた。カプセルに入ってからは歳とかではなく、結果だけを追い求めていたんだなと思います。

この先の将来も、良い意味で、何をやっているかは分からないけれど、40代では再び大きく変化し、見たことがない世界にいたい。そんな気持ちになれたのも、結局、人がきっかけでした。

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自分が成長し続けることこそが、次世代のしたい、なりたいをサポートし続けることに繋がる

20代のころからずっと、自分の数歩先を行く人がいたので、人からは無理だと思われるようなことにも挑戦しながら歩き続けられました。今後も自分自身が人と向き合いながらも、さらに「誰かにとって先をいく存在」になることで、今後も個人として成長できるのだろうと思っています。

僕の中にある「人のために何かをしたい」という想いは、僕の数歩先を歩み続けていた人たちの存在に感謝があるからだと思います。彼らからもらったものを、周りの人たちに還元したい。それは今後本当にお世話になった埴渕にもカプセルにも。

そして、そうなるために必要なのが、自分自身も今後も挑戦して変化し続ける事が必要だと思っています。結果的に出来る幅を広げて行くことに繋がり、カプセルのミッション通りに、それが次世代のしたい、なりたいをサポートし続けることに繋がるだろうと思っています。プライベートで個人のYouTubeチャンネルを作って動画を公開してみたり、noteやTwitterを初めてみたのも、そんな仮説を検証するための1つのアクションです。定期的に仕事もプライベートも新チャレンジを意識していきたい。変化と挑戦を積極的に生み出したい。

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今後も

33歳、最後の挑戦と腹を括って台湾にきたはずが、もっとその先を知ることで「まだまだ挑戦できる」と思えていることは、非常に充実感があり、良い意味で期待と憂鬱感があります。

カプセルを卒業した今後も、自分の人生を充実させて成長していくことこそが埴渕、カプセルへの恩返しだと思っています。

僕の歩む道はまだ続きます。今後どうなっていくのか、僕自身も模索しながら歩み続けたいと思います。その結果や過程はnoteやTwitterなどでも発信していきます。

少しでも良いと思っていただいたらハートマークをいただけると嬉しいです。
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亀貝 康明(KAMEGAI YASUAKI)
台湾在住。
元CAPSULE Inc.取締役。https://www.capsuleinc.co/?language=JP
主に中華圏やアジアを中心とした海外生活や海外ビジネスに関して発信中
プライベートでは【台湾が好きでもないのに移住。好きになれるか真剣に台湾と向き合ってみた】をコンセプトにYouTubeチャンネルも運営中

Twitter→https://twitter.com/kamegai_sanzo


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