雲から学ぶ3つの教訓
その1:遊び心
雲は、面白い形をすることもある。
僕はそれの名付け親になることもある。
雲は、それを知っているかは分からない。
けれど、それを眺めた人々の眼には、多様なユーモアが潜んでいる。
僕はある日、散歩していた。
すると、雲が幾重にも重なって、遠くへ流れていくのを眺めた。
それを見ていた人は、他にいたのかどうかわからない。
けれど、たしかに僕は見た。
スピリチュアルではそれを龍雲と呼ぶこともあるらしい。
僕は散歩しながら、雲を見上げては、一人口笛を吹いていたい気持ちになった。
けれど、はずかしいから、心のなかで吹く。
僕には聴こえる。
たしかな口笛と、未来が黄金に光り輝いていることを。
雲は幾重にも変わり、その形をとどめない。
それを見た人たちに、様々なストーリーを創造する。
その2:ときに激しく、ときにやさしい
雲は気分屋である。
読書していたら、急に落雷。
読書気分ではなくなり、不安そうに外を見上げたり、また本をチラと眺めたりする。
あるいは、塞ぎ込んでいた人の耳に、
「虹だよ」という声を与えることもある。
見ると上に、大きな虹が架かり、空は午後の雨上がりの明るさを演出していることもある。
雲は、そのとき空の高みから、風にビュービュー吹かれている。
ときに激しく、ときにやさしい、雲。
スパイスもあれば、シュガーもある。
雲は、それを平然と空に浮かんで、人々の胸を高鳴らせる。
その音頭が、人々の世界をあまねく照らすこともあるだろう。
雲のように生きる人はいないだろうが、平然と喜怒哀楽を放ち、自然体で生きている人は、いることだろう。
その3:諸行無常
雲は、その形をとどめない。先ほども言ったかもしれない、この言葉。
永遠とはそういうものかもしれない。もしかしたら、人間の命も。
たとえ、人間の命がはかなく散っていくことがあったとしても、時代はこの地球に紡がれる。
そのとき、人の命もまた、雲と同じように、永遠の輪を描くこともあるだろう。
雲を眺めていよう。その姿は果てしなく変わる。縄文時代から変わらない姿、存在で。人々の命と同じように。変わったかのように、変わらない雲の命と人々の命が、存在している。
それを人は愛と言い、雲はそれを知ってか知らずか、地上にやさしい雨を降らすこともあるだろう。
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今回は、少し新たな試みでした。
ブログ『詩とか、スピリチュアルとか。』では、コラム調で届けることを目指し、このnoteでは、詩とか、スピリチュアル(精神関係)の記事をエッセイ調で更新していこう、と思っています。
最近、ブログとnoteに差がなくなってきたので、こんな感じで色々書いていきたいと思います。
ここまで見ていただいた方々、ありがとうございますm(_ _)m
かめれもん★でした(^^ゞ