見出し画像

求めていたのは体験だった。

2023/03/29(水)

あまりにも動画を観すぎなので、YouTubeをできるだけラジオのように聞くようにしている。

そう意識するとなんというジャンルか分からないが、やけに早口の頭のキレる堂々とした人たちが作ったYouTube番組やいわゆる識者と言われる人たちの対談などを聞くことが多くなった。

その発言者は大学教授や研究者からどこかの会社の社長、カリスマギャルなどさまざまなので、信用していい情報を元に話しているかどうかは曖昧なままだ。
(気になるのなら自分で調べたらいいのだが。)

その中で今日は、自分の今のフィーリングにピタとくるものに出会った。

それはWEEKLY OCHIAIという番組で、落合陽一と東浩紀との対談だった。


(一応リンクを貼りましたが、対談内容と私の言っていることは全然違うところもあるのでご了承ください。あくまでも参考として。)
 

この対談は、私がすいぶん前から感じていた社会に馴染めていない感覚(違和感)を説明してくれて、その感覚は排除しなくてもいいという気持ちにさせてくれた。


私が感じていた違和感を説明しよう。
それは無料のアプリで無数の音楽に触れることができ、サブスクで大量の映画を観ることができても、または興味のある(でも難しい)本をやさしく要約した15分の動画を観ることができても、なんだか満足しない感じだ。

安価に手軽に大量の情報を得て得した気分になるのに、際限なくいつも枯渇している感じだとも言える。

一方で私はCDジャケットやポスターに心躍る人間だし、音楽はライブで聴くのが前提だと思っている。
友だちと予定を合わせて県内で唯一公開されている劇場に映画をわざわざ観に行くのも大好きだ。
本に関しても装丁士になりたいくらい紙の質やデザインにこだわりたい。


しかし今の時代こんなことを言うと

コスパ、タイパ悪くない?
昭和の人間だね。
紙を使うなんてエコではない。

という声が聞こえてくるような気がして、大きな声で言えなかった。
(幻聴かもしれないが。)

しかしどうやら私はこのままでもいいかもしれない。

落合×東対談で今の社会では、音楽を聴くこと映画を観ること本を読むことが全て「情報」を得ることになっている点について語られていた。

反対に言えば私の求めている音楽や映画や本は単なる「情報」ではないということが分かった。

今私は音楽を聴くことがコンテンツを提供されること(情報を与えられること)に限られていて、そのことに一旦納得させられてしまっている。

しかも無料で聴けてレコメンドでいろいろな曲も提案してくれるものに対して、これじゃない!とは言えない状況だ。

しかし対談を聞く中で私の求めているものは「情報」ではなく、「体験」だと分かった。

例えば気になる曲やバンドを見つけバスに乗って町のCDショップに行き、店を見渡し吟味して結局目的とちがうCDをジャケ買いしてしまうような予測不能なハードな体験を含めて音楽を聴くことだと思っているところがある。

体験を伴い身体や五感全てを使って音楽に触れるほうが、私にはしっくりくる。

もちろん体験を伴うことこそ音楽を聴く唯一の喜びであり満足の得られるものだと言いたい訳ではない。
今のように情報を多く得られることで喜びや満足を得ることもあるだろう。

しかしながら落合×東対談によると、体験を伴わず情報を得るだけでは偶発性の連続である世界と接触することが減り、人間が不安定になってしまう可能性があるという。


そのテーマの中で特に私に響いた言葉は、「SNSは世界と触れ合わない」という言葉だ。

スマホひとつでいくらでも世界とつながると思っていた私にとって、逆説的なこの言葉のインパクトは強かった。

結局のところSNSは自分の知りたい世界を自分でカスタムできるし、自分のリアルですらデコることができる。
レコメンドされるものを見て、さらに自分の世界を狭くカスタムしていく。


その結果、偶発性の連続である世界に触れる機会が奪われているということだ。

例えばCDショップに行き別のCDを買って帰るような、その帰り道見上げると満開の桜に圧倒されるというような偶発的な体験だ。

そうしてそんなリアルな世界に触れ合うことが減ると、人間は不安定になるということだ。

(不安定になるとはどういうことか、東氏のいう「不安定」という言葉の示すものがはっきりと分からなかったし、この主張の科学的根拠などは語られていなかった。ただ言っていることは私の感覚の限りでは分かる。例えば「不安定な時代が来る」と言ったときに想像されるものと近い感じ。)



なるほど。

私が最近、音楽を聴く映画を観る本を読むことに違和感を感じていたのは、これらを「情報」として得ていたからだった。

私は「体験」を求めていたのだ。

情報より体験を大切にしたいという自分の感覚は、今の時代に合わないからと強制的に変化させるものではないし時代に馴染もうとしなくていい。

体験を大切にすることで世界といろいろな形で接触し、それが人間らしく豊かに生きる姿であるという希望を持っていいい。

この感覚こそ、次の時代に求められるものなのかもしれない。


少し話が大きくなってしまった。
こんなに大げさに考えなくてもいいかもしれないが、まぁ今日はそんなところで。

❀私のひとり言に付き合ってくださってありがとうございました。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?