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期間限定「無敵感」

2022/02/03(木)


私の今の病状は、近年から比較すると安定していると思う。
就労施設にも通っておらず、職業訓練の学校にも行っていない。
単発のバイトさえできていない。

今このようにすべてタスクを外してみると、今まで自分がいかに健康な人と同じように動けない自分を責めていたかが分かる。

しかし安定しているとはいっても、健康的に動けているとはなかなか言えない。
週に2日は冗談ではなく20時間ほど寝ているし、人と多く、もしくは長時間接した日は夜中に発作のようなものが起きる。(嗚咽の後咳が止まらず、最終的に悲しくないのに涙が止まらなくなる。)
また週1回の歯医者の予約でさえとてもストレスを感じたり、結局休んでしまったりするような状態だ。


こんな状態では到底働くことは困難だ。
しかしそれでもこの安定した状態はうれしく、心は軽い。


このように安定した状態で、今の自分は大丈夫だと思えているのは「幸せ」基準で動けているからだと思う。

「自分にとっての幸せは何か」「どうしたら幸せだと思えるのか」そういったテーマで主治医と長い期間に亘って話し、何度も入院を経験しながらいろいろ挑戦した結果、今とりあえず到着したのがこのポジションだ。

今の結論として、私の幸せを簡単に言うと「自立・自由・自信」が保たれている状態だ。
自分が人の役に立っていると思えることや、自分らしい決断や行動ができること、そして自分が大切にしたいことを守れることなどだ。

ずいぶん簡単に幸せについて語ってしまっているが、この境地に至るまで約20年ほどかかった。
自分を知り自信が付くまでが一番困難で、また自分の理想や夢と今の自分をすり合わせ、この状態でもいいと納得できるようになったのは本当にこの1ヶ月ほどである。



ところで驚くべきことに「幸せ」基準でものごとを考え始めたら、人間の強い思いが交差した熱い人間ドラマを見ても、どこか冷めてしまうようになった。


大きな会社にしがみつきどうしようもなく不正を働いてしまう登場人物や、窮地に立たされ絶望的な状態で「貧乏になっても頑張って行こう」という主人公のセリフの悲しさに同情できないようになった。

私はこれらのドラマに対して、「会社を辞めても人生終わりじゃない」とか「お金がなくても家族で幸せになれる」とか、「~すればいいのに」とあっさりと答えを出してしまうのである。


はっきり言ってそんな自分を不気味だとさえ思っていた。
何だか人生に対してイージーモードで、なめているような格好悪さを感じていた。


そしてそう考える理由を考える内、ひとつの確信を得た。
つまり、今の私はいろいろな社会生活や私生活での人間関係のしがらみや責任をはぎ落したとてもシンプルで軽い状態にいるのだと気付いたのだ。

今は、リアルで複雑で重く深い人間関係の渦中にいないと思う。そしてその中で守るべきものや闘う相手もいない。
今私はものすごく特殊で、珍しい状態にあるのだとやっと自覚したのである。
そしてその貴重な有難い境遇をもっと大切にしようと思った。

今はただ特殊な居心地のよい場所にいるだけだ。
今感じているのは、期間限定の「無敵感」なのである。

いずれ人間関係におけるしがらみや責任に関する問題で、体調を壊しかねない事態に陥るだろう。
そんなとき冷静に自分にとっての幸せ基準で判断し、いい解決ができるように行動できるだろうか。
まだそのときの自分を信じられるほどには至っていないと心許なく思う。

しかしそのような時が来た時のためにも、今の生活の中でさらに病状を軽くできるように基礎体力を向上させたり、自分が本当にやりたいことのためにトレーニングをしようと思う。
もちろん自分が心地よく楽しい範囲で。



いろいろな問題を幸せ基準で簡単に解決できるなどと浮かれていたが、それが今自分が背負っているしがらみや責任がないからできることだと分かった。


人生においてそんな気楽な時期はそうないと思う。
今を大切にそして恵まれていることに感謝しながら、今より丈夫にたくましくなりたいと思う。

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