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切って、結んで

安井金毘羅宮という名前を知らずとも“京都の縁切り神社”と言えば強烈なご利益や不穏な願いで満ちている場所として耳にしたことのある方も多いのではないでしょうか。

切りたい縁など特にはなかったのですが。
そもそもの始まりは絶賛婚活中女性である前職での先輩から地主神社に行こうと誘われたのです。清水寺の敷地内にある、こちらは縁結びで有名な神社です。距離の空いた石と石の間を目を瞑って歩き、辿り着けば恋が叶うといわれる恋占いの石があり私も学生の頃に2度ほど訪れた場所です。

事前にホームページで諸々を確認していると、本殿改修工事のために3年ほど閉門しているとのことでした。先輩にそれを伝えると「石も無理なんかなあ。行くだけ行ってみよ!」とのこと。
あ、行くんや。行くパターンなんや。行動力すごいな。ちなみにその日は雨ですが。清水寺には入れるし梅咲いてるしええんやけども。

そして訪れた京都、五条。ヒールしか絶対に履かない先輩は雨の石畳の坂を息を切らしつつ闊歩していました。勇ましい。
地主神社はやはり入れませんでした。仕方ないと2人で納得しつつ、先輩は「縁切り神社行きたいんやけどここから遠い?」とのこと。歩いて15分程です。

「最近、お客さんの引き悪くてさ。男運もないし。あそこ口コミとかすごいねん」先輩はそう言っていました。


私のように仕事のためでも金になるわけでもなくただ好奇心で様々な宗教や神話について調べてみようというアラサーの女など世の中にそう多くはないでしょう。スピリチュアルな話だって真偽の是非はともかく、何故その発想に至ったのかを知ればまた面白味があるものです。
ただ、私は知的好奇心が止まないだけなのです。つまりご利益というものにさほど興味がありません。

寺院に行けば礼節と施設維持のためお賽銭はしますし有料の拝観エリアもしっかりと見回ります。でもお守りを買うことは数年に一度程度。
手を合わせる瞬間ぐらいは心の内で本尊や御神体へのご挨拶と少しばかり何かを願うこともありますが、ご利益だとかその手の目に見えない力というのは直近の出来事を都合良く人間が解釈しているに過ぎないと。当たり前ですがそう思うのです。ご利益があるから叶うかも、と行動を起こす人も多いでしょう。つまり宝くじは買わないと当たらないことと同じで、その背を押しているに過ぎないのです。

安井金毘羅宮に到着すると、そりゃ縁切り神社と呼ばれても仕方ないわなと思うほどに鳥居の真下には大きく「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」と書かれています。
縁切り縁結び碑という、人1人が這って通れるほどの穴が空いた半円状の石を表からくぐって悪縁を切る、そして裏からもう一度岩をくぐって良縁を結ぶそうです。その大きな石にはおびただしい程に人の願いが書かれた紙札が貼り付けられています。
雨も相まってか、呪術廻戦の世界線ならこの辺に一級呪霊はいるだろうなと思わせるほどに少し異質な空気に見えます。


先輩と共に私も札を買って、さて何を書いたものかと悩みました。迷った挙句、何を書いたかはもちろん内緒です。

石をくぐるまばらな人々を眺めながらこの神社の建立からの歴史を思い出していました。

この神社は元々は藤原鎌足が建立しました。645年、大化の改新について授業で習う時に「何で藤原鎌足から中臣鎌足に名前変わるねん。変える制度採択したやつ誰やねん」と最初に思わせてくるあの人です。
藤の花を植え、最初は藤寺という名前でした。
時は進み平安時代後期。崇徳天皇はこの藤を大層気に入り、寵愛していた阿波内侍(あわのないし)を住まわせてしました。言わば、ただ藤が綺麗な愛の巣だったわけです。後にこの崇徳天皇を祀る神社になります。

さてこの崇徳天皇、非遇で悲劇の人物です。
表向きには鳥羽天皇の子とされていますが鳥羽天皇の祖父である白河天皇の養子であり愛人の女性と鳥羽天皇が結婚することになるのです。

文字だけだと分かりづらいですね。
クレヨンしんちゃんでいうと野原ひろし(鳥羽天皇)の祖父(白河天皇)の愛人がみさえです。そしてしんのすけ(崇徳天皇)が誕生しました。
そんな状況ですのでふたば幼稚園やサトーココノカドウへ行けばこう噂されることでしょう。
「しんのすけの父親はひろしでなく、ひろしの祖父なのでは?」と。
野原ひろしこと鳥羽天皇は生涯、崇徳天皇を嫌ったそうです。

そこから祖父の白河天皇が亡くなると今度は鳥羽天皇の時代です。まず幼いしんのすけを天皇とし、大人のひろしは裏から政治的実権を握りました。院政というやつですね。みさえに当たる人物は離婚し新しい奥さんとの子が生まれます。しんのすけの腹違いの弟(近衛天皇)です。
幼い頃から実権の無い天皇として育ったしんのすけがひろしに騙されて弟より下の身分にされたり多方面から色々と不可抗力へ言いがかりを付けられたりと散々な目に遭い遂に保元の乱へ発展します。が、敗れて讃岐へ島流しにされます。

島流しされた香川の地で仏教を深く学んだ崇徳天皇はただ純粋な信仰心で写経し、これを京都の寺に奉納してほしいと弟である後白河天皇に送るのですが突っぱねられます。
「俺も絶対恨まれてるし呪詛とか書かれてるに決まってるやん。無理やって怖いって」と言ったところです。

生涯屈辱を味わい続けた崇徳天皇も、ここで何かがぷつんと切れてしまったのでしょうか。
自らの舌を噛み切った血で写経本に「俺は日本の魔王になる。天皇家を引きずりおろして民を王にしたるしな。この本も魔道書にするからな」という旨の文を書き残し、髪も爪も伸び放題の夜叉のような姿で生きながら天狗になっただとか、死後に棺を閉じても血が溢れ返っただとか。

その後お偉いさんがばたばたと亡くなったり京都で大火が2度起きたり幽霊としてご本人登場したりと災いが続いたので日本三大怨霊と呼ばれるまでになったそうです。
ご利益もそうですが災厄も直近の行動や出来事を思い返して結び付けてしまうのは今も昔も変わらないようですね。
「俺は人間をやめるぞ!ジョジョーッ!!」と宣言したディオといい、人は自らを犠牲に闇堕ちする時は宣言したがる生き物なのかしら、などと歴史を知った時には考えさせられました。

この安井金毘羅宮に住まい、かつては崇徳天皇の寵愛を受けていた阿波内侍はその後尼さんになります。
戦で別れざるを得なかった2人。だからここでは男女の良縁を応援してくださるのだという謂れがあるそうです。

雨に濡れる拝殿と石を見ながら阿波内侍は当時何を思ったのかとふと思い馳せてしまいました。
800年以上先の未来でこの地が強烈な縁切り神社と呼ばれて、本気で何かを願いに来る人もややエンタメじみた気持ちで来る人もこの石をくぐる姿を見たとしたら、まず第一声はなんと言うのだろう。
そして、5月になったらここの藤を見てみたいとも。


夜に別の予定があるという先輩と阪急電車での帰り道。
「やっぱりさ、私みたいにバツイチで子持ちの女に選ぶ権利なんてないんかなとかたまに考えちゃうねん」
「…いますよ。先輩のことちゃんと大切にしてくれる人たち。たぶんどっかに。選びたい放題じゃなくても、その中から好きになれる人だってきっといます」
私にしては珍しく、何の根拠もない意見を言いました。
だって、寒い中私たちは祈ったのですから。


先輩と解散してから無性に酒を飲みたい気分になりました。
馴染みのバーへ行くと初対面のほんわかとした一回り以上歳上のお姉様が神話が大好きとのことで神仏習合について大層話が盛り上がりました。マスターは「俺がほっといてる間にめっちゃ仲良くなってるやん。2人合うんやな。なんなん、嬉しいねんけど」と笑っていました。また会おうと、お姉様と連絡先を交換しました。

常連の上司と来ていた若い美容師のアシスタントをしている男の子がマスターの指示により家まで送ってくれました。後で調べてみるとそこそこ良いお値段の美容院に勤める彼はカットモデルを探していて破格でカットとカラーをしてくれるとのこと。こちらとしては大変ありがたいですし、礼儀正しくて己の技術を高めようとする若者の練習になれるのであれば喜んで受けたいお話です。

飲みに行ったから新たな出会いがあった。それに過ぎないのですが私も人間なのでここは都合よく解釈させていただくことにしましょう。

これも結ばれた縁なのです。

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