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選んで、選んで、選んで

精神状態やこう在るべきと己で定めた定義と視界に映るもののギャップが大きいほど人はそのアンバランスを不快に感じるのだと思うのです。
でなければ殺人鬼の魂が入った人形がナイフ片手に殺戮を繰り返すあの映画はシリーズ化されなかったでしょうし、クラスのちょっと嫌われ者のラブレターが無闇やたらと気持ち悪がられることもないでしょうし、私は近くの中華屋の酢豚にじゃがいもが入っていることも許せるのでしょう。あれは昔食べていた酢豚に入っていなかった上にもさもさするので個人的にはとても好きじゃない。

逆手に取れば、聞き分けの悪い精神状態や己の中の定義をどうこうする努力より視界をそちら側に一致させてしまえば幾らか手っ取り早く感傷に浸って、少なくとも一旦はそれ以上のストレスは避けれるのではないでしょうか。あくまで一時凌ぎの対症療法です。
悲しいのに何故か涙も出ない日に何度か観ている泣ける映画を観たり、会いたい人に会えないのにやっぱり話したいと思ってしまう時に壁を見つめてみたり、とにかく寂しくて仕方のない夜に部屋を真っ暗にしてみたり。
それはあなたに許された生産性がなく何の解決にもならない自由な慰めの時間です。

耳元で悪魔の誘惑どころか、都度殺してきた過去の自分たちが亡者としてむしろしっかりとどめを刺してくれと言わんばかりの呻き声を聴き続ける時間や自覚は味わいたくないものですが、その時がまさに苦しみの根源に気付くチャンスでもあると言えるのは皮肉な話です。

根絶やしにするもよし、根はそのままに地上部のみを焼き払うもよし、また亡者を増やして村を占拠するも、チャンネルを切り替えて見なかったことにするも、思考力のある人間は選択の余地があるのです。

自分が自分のまま生きれば起こりうるありとあらゆるリスク、周囲への影響、今後誰かにつける可能性のある傷、自分が背負ってゆくことになるもの。そんなことを考えて合理性を選ぶ時には多くの逃げか少数の決意に二極化するのではないかとも思います。そもそも合理的な道を選ばない人もいます。
常に分かち合いたいと願う人間がどうしても何かを奪いたくなった時、その行く末と心情の経緯を私は深く知りたいです。これから先、必要なだけ上手く何かを諦められるように。

こうして四苦八苦しながらも人は人と関わる以上生きていくのでしょう。人と関わることで悲しみが増えるとは知りつつ、関わる人が増えれば増えるほど大抵の寂しさは緩和されるものです。人の根底はきっと、寂しがりです。

そう考えを巡らせると、そしてこうして文章としてまとめてみると、時間と自由が与えられながら何故か人は選択することに苦しむのだという一つの可能性が見出せます。

ああ、あの時ロキが言ってたことに妙にしっくり来たのはそういうことか、と思いました。北欧神話で語り継がれるロキでもマスクのロキのエピソードでもありません。
一作目の映画版アベンジャーズにて敵であるロキは地球を侵略しにきたことを一般人に宣言したシーンで「人は自由という言葉に惑わされているが本来服従することに喜びを覚える生き物なのだ」という旨の話をするのです。だからと言って勿論一方的な侵略が許されることはないのですが。

ただ、なんとなく考えてしまったのです。テクニカルサポートのコールセンターに長く勤めていた私は選択肢を突きつけられると人は時に戸惑うことをよく知っています。小手先のテクニックは幾つかありますが私はそれも駆使して誘導しクレームや余計な作業を削ってきたのです。
無性に唐揚げが食べたいから自分の食べたい味付けの気分に合わせてほんのひと手間も惜しまないなんて日もありはするけれど、毎日の献立を考えるのは普通にめんどくさい。いっそ国が給食カレンダーのように「迷ったら今日はこれにしましょう」なんて推奨するメニューを毎週発行してくれたらいい。栄養バランスと全国的な農作物の採れ具合や輸入の関係で決めてくれて、スーパーでは必要な食材を大量入荷して少し安売りしてほしい。
なんてことを昔考えていたことを思い出しました。

自分で選んだものというのはある程度受け入れる余地があると判断できたものです。同時に選ぶことを楽しみとできるものもあればそうでない選択肢を突きつけられることがあるのも事実です。いずれにせよ、頭を使うのですからストレスになることに違いはありません。

それでも人は自由を、選択できる立場を求めます。利益のため、繁栄のため、意思を貫くため、選択肢に溢れた時間が非日常となるほど何かに追われている日常から逃げるため。理由は様々です。

多感な時期の若者のようなことを言いますが自由とは何なのでしょうか。私は哲学はまだまだ勉強中ですのでここで綴れるほど思考したり持論を展開できるほどのベースの知識がありません。
その上で私個人の考えとして問われるならば、知らんわむしろこっちが聞きたいわ。といったところです。強いて言うならば、得たいものや感情に忠実に生きるという生き方が思い浮かぶ程度でしょうか。
誰よりも自由な奴が海賊王だと提言したのはONE PIECEのルフィーです。フィールドが海である必要性に関しては些か議論の余地があるかと思いますがあながち間違っていない気もします。強奪が生業で、その王になるのですから。
つまり、自由とは強欲であることなのでしょうか。何も悪だとは思いません、少なくとも私は。欲は人の行動原理になるから、行動がその人の道を、世界を変えてゆくからです。

きっと、自由な人というのは強さが求められるのでしょう。正当なルートであろうと奪ったものであろうと犠牲にしたものへの痛みに負けないほどの自己愛も。
私は、自由な人に憧れますし自由な人の話を聞くのが好きです。

ただ、多くの人はそこまで強くありません。というより既存の自分が担保できる範囲の自由を守る道を選ぶ人の方が多いのではないかと思います。
私は大層な経験も大いなる教訓もお伝えすることはできませんが、もし自由であろうと気持ちの聞き分けであろうと諦めることであろうと、何か私のようにその是非を問う人がこれを読んでいらっしゃるならば。

先程四苦八苦しながら生きる、と綴りましたが広く知られたこの言葉は仏教用語です。
最近話が仏教に偏りがちですね。ずっと欲しかった笑い飯の哲夫さんの仏教の本をようやく購入して読んでいる最中だからでしょうか。さすがはお笑い芸人さんの本、読みやすくて非常におすすめです。

四苦八苦とは仏教に於いては生きる上で避けられない苦しみのことを指します。四苦とは生老病死、つまり生きること、老いること、病にかかること、死ぬことの4つの苦しみ。
それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の4つを足して八苦です。ややこしそうな漢字が並んでいますが読んでそのまま、愛する人と別れること、恨んでいる者と会ってしまうこと、求める物事が思うように手に入らないこと、体と気持ちがうまくいうことを聞いてくれないことです。
だいたい紀元前5世紀頃に説かれた話ですが2500年ほど経った現代でもわりと本質を突いているとは思いませんか。

もし現代版であと4つ足して四苦八苦十二苦にするならば何が一体入るのでしょう。ニュースやSNSで目も当てられないような悲惨な沢山の情報を見知る苦しみ、月末のクレジットカードの請求額を確認する苦しみ、抜け出せない飲み会の次の日に二日酔いのまま会社に出勤する苦しみ、あと一つはなんでしょう。是非ご意見をお聞かせください。

令和版十二苦はさておき、これらの苦しみに対しブッダは基本的なスタンスとしては「しゃーないし死んだらみんな一緒やし諦めろ。そもそもこの世の全てなんて姿形が違うだけの原子の集まりやから欲しいとか思うししんどいんやん。とにかくはよ諦め」と割とドライな教えを説いています。
苦を滅する為に一応きちんと四諦という考えを残してくれているのですがそれぞれに関しては長いので割愛します。
その四諦の中の一つ、道諦の中で八正道に従えという教えがあります。正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定、8つの正しい道です。
正しく見て、正しく考え、正しく話し、正しい行いをし、正しく生活を成り立て、正しく励み、正しい心を持ち、正しく精神を安定させろということです。ここでの正しさとはなんぞやという話も考察も割愛しますがいきなり全部は無理そうです。お坊さんすごい。

途方に暮れて何から手を付けていいのか分からないような時には、選択することに疲れた時には
ユダヤ教のタルムードから何か教えを学ぶでも、この八正道のとりあえずどれかに沿って選んでみるでも、西村ひろゆき氏の動画を見てみるでもいいとは思います。合うかどうかは人それぞれなだけで、一定以上の支持を得る考えというのはそれ故の理由があるはずです。それに身を任せるもよし、どんな選択肢があるのかを想像し創造するのもまた自分自身です。

いずれにせよ私たちは選択することからは逃げられないのです。
時には勢いも必要になることもありますが、熟考し選んだものはあなたにとって大切なものに違いはないでしょう。

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