聖コウモリ

 机に突っ伏したまま午後を迎えた。クリスマス・イヴだ。褒美に映画でもとチケットを購っていたのだが、時計を見ると上映まで五十分しかなかった。シャワーで頭髪だけ濡らし、放ったらかしの髭をあたった。おろしたての襟のないロングコートを羽織り、隣街まで揺られた。工事が終わったばかりらしい巨大なスクリーンに予告が流れるなか、後列の端にある座席を捜した。定められたパズルみたいに、男と女が交互に並んで坐っている。俺は自分が場違いな歪んだピースに思えてきて、マスクをしてきたのは正解だったと思った。大満席の中を謝りながら縫い、端から二番目の席を目指した。眠っていたカップルを起こしてしまい、男が舌打ちをした。床に置いてあるバッグが見えず、爪先が当たってしまった。女が悪態をつき、男が笑い声をたてた。俺は頭を下げて男の隣りに坐った。男は肘当てに寄りかかっていて、厭な圧迫を感じた。右隣、すなわち一番端の席には、中年の穏やかそうな背広の男が一人で深く腰掛けている。俺の視線に気づくと、背広は微笑んで小さく会釈をした。

 この上映は発声が自由だ。恋人たちが囁き合う声がうねりのように会場に渦巻いている。熱気が高まってきているのか、汗ばむほど暑い。俺は躰を縮こまらせて、おろしたての外套を脱いだ。それでも肩が、俺の座席にせり出していた男の腕にあたり、無遠慮に凝と睨みつけてくるのがわかる。女がクスクスと笑った。だが俺の着る薄手のニットから、思いのほか凶暴な三頭筋や大胸筋が浮かび上がるのが目に入ったのか、男の殺気は亀のように引っ込んでしまった。そしてフレディマーキュリーが目を醒まし、不吉なかわいた咳が響いて不意に会場が寂寞に包まれた。三十分もしないうちに男の鼾が聞こえてきた。呆れたことに、女も眠りこけている。俺も観るのは三度目だったから、退屈を感じないでもなかった。早くライブエイドの熱狂を感じたかった。沸き起こる足音と手拍子に、カップルは目を白黒させて辺りを見回した。顔を見合わせ、ニヤニヤと笑って躰を揺らしている。時折、猫のなくような、押し殺した声が漏れてきた。どこか近くの女が、触られているようだ。或いは隣りかもしれないが、顔を向ける気にはなれなかった。俺もウトウトと微睡んでしまったらしい。起きると、フレデイが、おまえは蝿だ、残りものにたかる、と降りしきる雨に濡れながらポールを罵っていた。そのときだ、ふと自分の太腿に何者かの手が置かれているのに気がついたのは。……

 ジットリと汗で湿っている、異様に熱を孕んだ掌だ。細長く骨ばった、場末のバーで弾き語りでもしていそうなピアノマンの手、それは右隣り坐る背広の紳士の手だ。俺はちらと横を見たが、背広の紳士は静かな様子で映画に釘付けだ。まるで俺など眼中にもないみたいなのだ。森の中で樹々の葉が鳴るみたいに、恋人たちの囁き合う声が四方でしている。ペットボトルの水を一口含んで、咀嚼してから飲みくだした。俺は両手で畳んだコートを抱えていた。熱い掌は迷っているみたいに、大腿四頭筋をナメクジのように這い回った。きのうの夜、スクワットとレッグプレス、レッグカールにレッグエクステンションと追い込んだ脚は、さぞかし硬く張りつめていることだろう。俺は骨ばった手首を暴々しく掴んで、紳士に笑いかけた。紳士は深い皺の刻まれた口もとをこわばらせ、瞳だけをギョロリと俺に向けた。俺は離した手でマネーの印を造り、伸ばした三本の指を曲げて”寄こせ”と示唆した。紳士は嬉しくてたまらないという風に肩を揺すって笑い、自分の背広の懐に手を差し込んだ。やがてベルトの内側に、縦に折られた紙幣が入れられ、その手がコートの中に潜り込んでくる。俺は紳士のために、過去の女の裸を想像してやった。スクリーンでは、フレディがエイズを告白しているところだ。紳士の指がジーンズのジッパーを下ろしかけたところで、俺はまた手首を掴んだ。紳士は大人しく手を引っ込めたかと思うと、俺の手をひいて自らの股間にいざなった。俺は苦笑しながら、スラックスごしに亀頭を爪の先でこすってやった。映画は冒頭に戻りつつある、ライブエイドだ。ふと俺は、中学のころ、こうして友人の性器をしごいてやったことのあるのを憶い出した。俺も友人もゲイではなく、ふざけ合っていただけだった。その頃はまだ女がちっとも手に入らず、性の捌け口が見あたらなくて重たい陰嚢をもてあましていたのだ。舌を絡め合うのはもちろん、唇を内側に折り曲げて、咥内の粘液が触れぬように性器を咥えた合ったこともあった。ただの好奇心だった。だがその二年後に同級生の女から唾液たっぷりのフェラチオをされたときよりも、あの部活終わりの遊戯の方がよほど快感があった気がする。やがて紳士の躰が小刻みに痙攣した。……

 俺は背広の紳士も隣りで乳繰り合うカップルも忘れて、巨大スクリーンで躍動するフレディマーキュリーに見入った。劇場を出ると、エレベーターで地下デパートに降りた。ベルトから抜いた金で焼かれた丸々一羽の鶏と、巨大なホールケーキを買った。すぐさま街に戻り、ワインとビールを仕入れた。ふとビルに映った自分のロングコート姿をみて、羽を休めた陰鬱なコウモリのようだと思った。大仰な袋を三つも下げている。誰が見てもこれから華やかなパーティに参加する青年そのものだろう。俺は環状八号線をまっすぐ歩き、アルバイト先に行った。孤独を埋めるためにシフトを埋めるゴキブリたちに、ささやかなプレゼントだ。帰りしな、ラーメンを啜った。独りのクリスマスなど、何年ぶりだろう? すっかり暗い路地裏を歩いた。どの家からも暖かな灯りが漏れている。大通りに出ると、今度は恋人たちが寄り添うなかを俯いて歩いた。寒さが不意に襲ってくる。外套のポケットに手を入れて、身をすぼめた。まるで幸福の陰を飛びまわる惨めなコウモリだなと思った。が、不思議と悪くないきぶんなのだ。俺の後ろ姿には、きっとほろ苦い哀愁が香っているに違いない、そう考えると微笑みたくなる。グッと堪えて、ハードボイルドに眉を顰めて薄い溜息なんぞをついてみる。烟草の白煙めいた息が揺らぎながら溶けた。ああ、悪くないじゃないか。アパートに戻って、部屋で一人、孤独に酔い痴れながら、読むもよし、書くもよし、おれは限りなく自由だ、ああ、いつかこの夜を、なんて幸福なクリスマスだったのだろうと追憶し、羨む日が来るに違いない、この夜を、コウモリのおれを。……


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