『ヘイズ・コード時代』のハリウッド映画のすすめ 〜歴史を変えた名シーンの裏側〜
かつて、アメリカ合衆国の映画界で『ヘイズ・コード(Hays Code)』と呼ばれる、映画の表現規定があったのをご存知だろうか。
『ヘイズ・コード』(プロダクション・コードとも呼ばれる)とは、1934年にアメリカで制定された”映画製作倫理規定”のこと。映画表現におけるセックスや暴力、反社会的行為などの表現を規制することを目的としていた。
コードが効力を失った1964年というと、今から約60年前。それより前の作品はいわゆる”昔の映画”として、あまり馴染みがないと感じる人も多いかもしれない。
しかし、映画界におけるクラシックな名作「カサブランカ(1942)」や「風と共に去りぬ(1939)」「オズの魔法使い(1939)」「市民ケーン(1941)」「雨に唄えば(1952)」など……。
実は、これらの作品群はすべてヘイズ・コードの規制のもと、生まれた映画なのだ。
もはや頭の中に浮かぶ、白黒〜初期カラーのアメリカ映画のほとんどはヘイズ・コード時代の映画と言っていいかもしれない。
当時そんな規制の下で、このような映画史に残る名作が数多く制作された。中には規制があったからこそ生まれた、面白い映像表現も。また、当時の映画群の表現は今の作品にも影響を残している。
今回紹介するのは、1934年〜1964年までアメリカの映画界に大きな影響を与えていた『ヘイズ・コード時代』の映画のススメ。コード設立に至った背景から映像表現に与えた影響、当時の映画関係者がもがいた表現方法まで歴史に沿って、一緒に見ていければと思う。
ヘイズ・コードが設立された背景
アメリカの映画産業は第一次世界大戦を契機に大きな発展を遂げていた。
そして1920年代から1930年代にかけては、無声映画からトーキー映画へ移行するという変革期。そんな中、1927年に世界初のトーキーと言われる映画「ジャズ・シンガー」が大ヒットを記録した。
1910年代に急速に成長していたハリウッド映画産業は更なる活況を呈し、その製作本数も右肩上がりで上昇。それに伴い『娯楽としての映画』が一般市民にも急速に普及し、多くの人が映画館に足を運ぶようになったのだ。
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1926年までには、アメリカ映画がヨーロッパの劇場興行収入の四分の三を占めるようになるほど、ハリウッド映画は世界的に爆発的な人気を呼んだ。
そんな当時のハリウッドは、「製作・制作―配給―興行」を統合して行う『スタジオ・システム』の時代。スタジオの創始者達は、年間500本も公開されるほど映画を大量生産し、短期間で莫大な利益を稼ぎ出すようになっていった。
一方、中にはそのような状態を快く思わない人達もいた。
それは、”映画の持つ政治的な力”に関心を持つ人––。連邦政府をはじめとする、地方政治化、宗教団体、公共道徳の自称番人(カトリック公序良俗同盟、米国愛国婦人会、全国父兄会議など)だ。
彼らは「映画が社会に悪影響を与える」と主張し、映画に対する規制映画を検閲する権利を求めるようになる(実際に当時はかなり過激な映画も公開されてたけど)。
そんな状況下、当時映画を制作していた主要スタジオの大半は”劇場における入場券の売り上げ”から利益を得ていたため、地方劇場のボイコットや地方での検閲導入を恐れるようになっていった
そこで、政府や特定の団体による検閲を回避しつつ、映画における道徳の描かれ方に対する人々からの批判に対応しようとして、“ヘイズ・オフィス”、すなわち「全米映画製作者配給者協会(MPPDA)」が誕生したのだ。そして1930年には、MPPDAがヘイズ・コードを制定。1934年にはProduction Code(プロダクション・コード)とも呼ばれるようになった。
ヘイズ・コードは、「映画界に一方的に押し付けられたお堅い規定」といったイメージがあるかもしれない。しかし、そもそもMPPDAが設立したもは、当時続いていた映画業界でのスキャンダラス事件により悪化したハリウッドのイメージを改善するためでももあった。
ヘイズ・コードは一方的に押しつけられたものではなく、映画業界自ら規定を示すことで人々の批判や政府の検閲から「ハリウッド映画を守るため」の自主規定だったのだ。
ヘイズ・コード下での映画表現
ヘイズ・コードでは、犯罪、性、暴力、およびその他の物議を醸す主題の描写が禁止されていた。カトリック関係者の影響も強く、出産シーンや同性愛のシーンなども禁じられており、映画制作時に規定の遵守が求められたのだ。
それでも当時の映画製作者達は、ヘイズ・コードを回避する方法を模索し続けていく。次に、有名な作品事例を年代順に4つ見ていこう。
或る夜の出来事(1934)
オスカーで作品賞をはじめとする主要5部門を独占するという史上初の快挙を成し遂げた、白黒のラブコメディー映画。
作中で有名なシーンに、2人がやむを得ず一緒の部屋に泊まった際に、聖書に出てくる『ジェリコの壁』と喩え、毛布の壁を隔てて眠る描写がある。
これはヘイズ・コードの「未婚のカップルはベッドを共に出来ない」規定をフランク・キャプラ監督は巧みに利用したものだと言われている。シーツ越しに、お互いの本心が分からずに揺れ動く二人の心理を表現したのだ。まさにヘイズ・コードがあったからこそ生まれた表現と言っていいだろう。
風と共に去りぬ(1939)
1939年に公開された「風と共に去りぬ」は、第12回アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演女優賞など10部門に輝いた不朽の名作。原作は1936年に出版されたマーガレット・ミッチェルの時代小説だ。
この作品の有名なラストシーンには、バトラーがスカーレット・オハラのもとを去る台詞に”damn”という言葉が含まれていた。(damnはクソ、畜生といった意味)
ヘイズ・コードではこうした下品な言葉の使用を禁じていまたが、映画プロデューサー、デイビッド・セルズニックは、原作の小説通りのこの台詞を使用するために管理局と交渉を続けた。
交渉の末、管理局は”文学作品からの引用という、適切な文学的文脈における描写”であるとして「damn」の使用を許可。
”I don’t give a damn.” を “I don’t care.” に変えての撮影も行っていたがMPPDAに5000ドルの制裁金を払うことで、無事に原作通りの台詞で映画を公開することができたのだ。
こうした背景もあり、このセリフは後に、アメリカ映画協会によって選定された『アメリカ映画の名セリフベスト100』で1位に輝くことに。
「風と共に去りぬ」のラストシーンは、ヘイズ・コードの規定の下、なんとか原作通りの台詞を使用したいという当時のプロデューサーの熱意と交渉が実現させたものだった。
カサブランカ(1942)
アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚色賞の3部門を受賞した「カサブランカ」。今はもう人妻であるイルザは、元恋人・リックにまだ想いを抱いており、リックも過去を思い出し苦悩するストーリー。作中ではリックは無口ながらもまだ、イルザのことを愛していることが見受けられる描写が続いた。
しかし、これはヘイズ・コードで禁止されていた”不倫”にあたる。カトリックの教義上でも、「不倫を肯定的に描くこと」は当然御法度だった。
ラストシーンで2人は結ばれる代わりに、リックはイルザと現夫の逃亡の手はずを整え、イルザをアメリカへ行かせるのだ。この描写は、愛し合っていても結ばれることができない、元恋人同士の切ない結末を描くものとして、映画界に残るラストシーンとなった。
不倫が禁じていたヘイズ・コードはある意味、映画の名シーンを作るのに役立ったと言えるのかもしれない。
サイコ(1960)
4つ目に紹介するのは、”サスペンスの帝王”と呼ばれるヒッチコック監督の代表作、「サイコ」だ。イギリスからハリウッドへやってきたヒッチコックも、ヘイズ・コードの影響下で映画を撮影した代表的な映画監督である。
「サイコ」は、シャワールームでの殺人シーンが有名だ。裸の女性が包丁で刺される衝撃的なシーンがあるが、ヘイズ・コードの規定に沿うよう、一切裸身は映されず、殺人シーンがシルエットやモンタージュで表現されることになる。
物語の肝となるシーンを映せなかったため、この殺人シーンは1週間以上かけて絵コンテを作成し綿密に撮影された。個人的に怖いシーンが苦手なので今回画像は載せないでおく..;)
サイコは1960年とヘイズ・コード後期に撮られた作品ではあるが、まだコードの影響は大きかった。
また、当時スクリーンにトイレを映すことは御法度。しかし、モーテルにいた証拠として不可欠であるとして検閲官を説得し、この作品が、ヘイズ・コード下では初めてトイレを映した作品となった。
まとめ
ここまで1930年代以降のハリウッド映画に影響を与えたヘイズ・コードの設立から、当時の映画表現までを見てきた。多くの人が知っている名シーンの裏側には、実はヘイズ・コードの影響があったのを、お分かりいただけたでしょうか。
これを機に是非、当時のクラシックな名作も鑑賞してみていただけたらと思う。
ヘイズ・コード下で制作された作品なら「お茶の間で家族で映画を見ていたら、急にラブシーンが始まって気まずい……」なんてこともないのです!規定によりキスは3秒以内とされているので、マックス3秒間耐えればOKなのです!
〜ヘイズ・コードのその後〜
テレビの台頭や業界内での抵抗などの影響で、ヘイズ・コードは1960年代には段階的に廃止されていく。その後、ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグ監督などにより『新しいハリウッド映画の時代』が訪れるが、またその話は後日…。
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