他人を説得できないのはなぜか ~身の記憶という視点~
犬に噛まれた経験がある人は、犬を見ると体がすくむ
つまり犬が苦手になる
それを人は、「犬に噛まれた経験がそうさせるのだ」と説明する
たしかに納得できる話である
私たちの「あたま」はこういう話、つまり因果関係がある話をたいへん好む傾向がある
余分を排除し、端的な情報だけをピックアップしモノゴトを単純化する
さらにカテゴライズしてしまえば、もう全て解決したかのごとく感じる
私たちの「あたま」は因果関係とか分類が大好きだ
しかし言葉による因果関係の説明で納得できるということは
言葉による因果関係の説得で克服できるということもいえるのではないか
果たしてそんな事が可能なのか
「統計的には咬傷事件は少ないですし、そもそも噛むということは防衛反応ですので怖がらせなければ大丈夫です」
「なるほど納得、それならもう犬なんか怖くないや」
となるだろうか(非常に雑な説得という点はあるにせよ)
「あたま」は納得しても、「からだ」は納得するだろうか
つまり犬を怖がらずになるだろうか
わたしもあなたも経験があるはずだ
理想の人と、実際好きになる人は違うとか
高評価の定番商品より、低評価のぼったくり商品を気に入って買ってしまうとか
好きなんだから仕方ない
でしょ
俺はこれが気に入ったんだ
ですよね
現代人は、言葉で全てが説明でき、理解できると錯覚しがちだけど
身の記憶は言葉では修正できないのだ
身の記憶を修正するには、身に「良い記憶」を残さねばならない
この場合であれば、犬と段階を経て仲良くなるしかないのである
さて表題の「他人を説得できないのはなぜか」という問いにこたえるならば、
言葉で「からだ」は動かない、言葉で動くのは「あたま」だけである
としたい
日常に落とし込んで表現するならば
意識は変わるが行動は変わらないということである
故に、行動できない自分を責め続け、病んでいく人が多くなるのだ
言葉で変わる、説得すれば伝わる、話せばわかるはずだ
そういった誤信念が、多くの人の自己肯定感を下げるのだ
年長者、先輩、上司、あらゆる人に告ぐ、他人にアドバイスするな
相手の行動が、良い記憶を伴う経験となるように関わるべし
というアドバイス
お後がよろしいようで
今日の一枚「暑気」
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